ここ数日間、私は王宮での祭儀の準備に追われていた。
祭儀は基本的に大神殿で行っているが、年に数回王宮内の神殿でも執り行われる。王族の誕生日などの特別な日に行われる祭儀である。今回は先代国王の命日に合わせて王宮で祭儀が行われる。聖女が明らかになってから初めての王宮祭儀であり、私には、公式に国王陛下に加護を授けるという大きな役目が与えられている。本来なら聖女が一生に1回行う名誉で、経験を積んだ段階で行われるものだ。王権と神殿の権力は切り離されているので、それが可能なのだが、聖女が王太子妃になってからではその分離があいまいになるから、結婚前にやってしまおう、という算段である。
ただでさえ忙しいのに、色々詰め込まないで欲しいというのが私の心持だが、そればかりは言っていられない。
王宮の祭儀は、神殿自体が大きくないので、貴族を中心に限られた人間しか観覧を許されない。伝統と格式を厳格に守る形で行われるので、細かいしきたりが多く、それら全てを覚えなければならない。その祭儀を3日後に控え、私は何度もリハーサルに駆り出されていた。
神官たちだけでなく合唱団にオーケストラ、オルガニストなど関わる人間も多いので、リハーサルは夜遅くまでかかることもあった。
「つ…疲れたぁ」
神殿から戻った私は長椅子に身を預け、脱力した。今日のリハーサルはまだ早く終わった方で、夕食前には解放されたのだ。
「お疲れ様です、お嬢様」
「ハンナ…夕食前にお茶、いれてくれる?」
「申し訳ございません…。殿下がすぐに部屋に参るようにとの仰せです」
「ルドルフが?もう戻っているの?」
今日は国王陛下臨席の会議があって遅くなると言っていたのに。
「あら。それじゃあ夕食をご一緒できるのかしら」
声を弾ませた私に、ハンナは口ごもった。
「いえ…皆さまお揃いでして。とにかく急いでおいでください」
「…?」
ハンナに急かされて、私はコップに少しの水を飲んだだけで王太子の部屋へと向かった。
「失礼いたします」
衛兵が扉を開けてくれて王太子の執務室に入る。部屋に入って私は驚いた。思ってもみなかった数の人間が一斉に私の方を向く。
その顔ぶれは、父、騎士団長、宰相をはじめ大臣の面々。アカデミー院長、兄、アレクにクラウスもいる。国の重鎮がこんなところで一同に会しているなど初めてだ。
―えっと…何?これ…どうなってるの?
私は目をぱちぱちとさせた。戸惑いとともに、部屋に漂うただならぬ空気を感じる。私に礼をする彼らの様子もよそよそしく、そしてどういうわけか哀れみの感情を向けられているように思われた。
「来たか」
部屋の奥で、執務机の前の椅子に腰かけていたルドルフが立ち上がった。美しく整った顔。朝と変わらないように見えて、わずかに疲労の色が漂っているのを見て取れるのは、毎日一緒にいる私だけかもしれない。
ルドルフに手を引かれ、長椅子に腰かける。
「祭儀の準備はどうだ?」
「え…?ええ、滞りなく進んでますよ」
「そうか…」
そう言ってルドルフは押し黙った。本題に入るのをためらっていることは一目瞭然。ルドルフの目を見れば、彼は視線を彷徨わせた。この反応。何か、私にとって良くないことだろうか。私の心は嫌な予感でざわめいた。
たっぷりの沈黙があって、ルドルフはようやく口を開く。
「エラ…実は…」
「殿下、私から言いましょう。エラはまだカレンベルク家の娘ですから」
父がそう言ってルドルフの言葉を遮る。ルドルフは、ああ、とだけ答えた。
―何?家が関わることなの?
父の目にほの暗い色が浮かんでいて、私の背中には冷たい汗が流れる感覚がした。
自分で言ったものの、父は中々踏ん切りがつかなかったようだ。少し押し黙ってようやく意を決したように口を開いた。
「エラ、そなたの婚約が解消されるかもしれない」
―は?
突然頭を鈍器で殴られたような感覚がした。
―なぜ?お父様は何を言っているの?
私は隣のルドルフの顔を見た。私と目線を合わすことができずに俯いている。だが、私の手をしっかりと握ったままだ。
「…どういうことですか?」
―なぜ?誰が?
ルドルフが声を絞り出すように答える。
「陛下が…婚約を見直してはどうかとおっしゃった」
―陛下が…?
信じられない気持ちで父の方を見ると、父は眉間の皺に手をやった。
「今日の会議で突然言い出されたのだ。聖女と王太子妃の務めを兼ねるのは大変だろうから、と」
「そんなこと…今さらですか?」
「ああ、まったくだ。それにお前は殿下の”器”でもある。殿下の魔力暴走を防ぐことができるのはエラしかいないのだと進言した。だが…」
父は言いよどむ。
「陛下は何と?」
「魔道具で魔力の放出ができるようになったから、そなたが側にいなくても良いだろう、と。それに…側にいる必要があるなら側室で構わないだろう、と」
―側室…
全身の血の気が引く。感覚の無くなった指先をルドルフが強く握りしめた。
「…そんなことはさせない」
はっきりと力強い言葉に私は少しだけ安堵した。
「陛下はもうお決めに?」
「いや、今のところ提案だけだ。王太子殿下の結婚は国家事項。陛下といえども独断で決定はできず、我ら家臣の同意が必要だ。私は同意するつもりはないが…」
父は宰相たちの方を見る。彼らは父の言葉に首を縦に振った。
「殿下、私たちは同意するつもりはありません」
「あぁ…。ありがとう」
ルドルフは短く答えた。
「…とはいえ国王陛下の意思には重みがあります」
黒い髪を後ろに撫でつけた宰相、オイレンブルク伯爵が眼鏡の縁をくいと持ち上げた。息子のクラウスとよく似た細面の冷徹な表情。刻まれた多数の皺が厳格で神経質な印象をさらに強めている。宰相は、一切の感情なく私に言った。
「陛下はエラ様が王太子妃に相応しくないとお考えです」
―は?今さら?私何かした?
「…なぜ…ですか?」
「エラ様は市民を無下になさったそうですね。民に優しくできないものは王太子妃になる資格に欠けると陛下は大変お怒りです」
―市民を無下に…?何のことだ?それで陛下の不興を買ってしまった?
宰相が極めて事務的に告げる言葉は私にとって死刑宣告そのものだった。
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