羽田空港___ 国際線ターミナルのカウンターで、エレナは焦る気持ちを抑えようと努めつつ地上職員の女性に尋ねていた。
カラカラに乾いた口からなんとか言葉を吐き出す。
「今直ぐヨーロッパに行きたいの。」
とにかく一刻も早く日本を出なければ。
とりあえずヨーロッパのどこかへ。その後はゆっくりジュネーブに向かえばいい。
「ヨーロッパのどこかに着くなら直行便でなくても構いませんわ。席種も何でも。」
地上職員は、若干慌てた様子でカウンターに駆け込んできたロシア系美女が、流暢な日本語を話すことに驚きつつ、この時間で搭乗に間に合う、ウィーンへの直行便に空席があると告げた。
ウィーン… できればロンドンかパリがよかった。ドイツ語は話せない。きちんと習っておくべきだったわ。
だがしかし今の状況であれこれ言っている場合ではない。ジュネーブには近いのだから良しとしよう。そう思いなおし、席を確保し、支払いをする。
目深に帽子を被っているので小さな顔のほとんどは隠されていたが、その顔は美しく彫り深く整っていた。化粧はしていないが、唇はぽってりとして薄い薔薇色に色づいている。瞳の色は青みがかったグレーで肌は透き通るように白い。豊かなブラウンの髪を背中の中ほどまで伸ばしていた。背は170㎝あるかないか。ディーゼルの黒のゆったりとしたロゴTシャツに若干ゆとりをもたせたインディゴのテーパードデニム。足元はVANSのスリッポン。シンプルな服装で完璧なスタイルを隠していた。
それでも他人を見ることになれた地上職員は、エレナの服の下に隠された美しい骨格を見抜き、これはきっとロシアのモデルだろうと思った。だが、航空券とパスポートには日本人名が書かれていた。
エレナは弁護士の田島が用意してくれたパスポートに記された名前が「澤野」でもなく、母の旧姓のコムレヴァでもないことに内心緊張したが、あくまで平静を装った。
「もう貴女は自由ですよ。上手くやっておきましたから。」と言われている。きっと大丈夫だろう。
軽やかなチャイム音ととともに搭乗案内のアナウンスが聞こえる。
荷物は小さなトランクと、ずっと大事にしてきたヴァイオリンのみ。
必要なものは向こうで買えばいい。
小さな荷物を航空便に預ける。こちらはアメリカ行きだ。
逃げるのだ。恐怖から、しがらみから逃れてやっと自由になる。そして、もう一つの目的のために。
「папа(パパ)…どうか上手く逃げられますよう見守って…」
エレナは空港内の化粧室に向かい、着ていた服を全て脱ぎ、あらかじめ準備していた服に着替え、ウィッグを付けた。化粧室から出てきた彼女は先ほどカウンターにいた女性とは全く別人のようだった。
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ファーストクラス専用ラウンジのダイニングのブッフェで|不破智己《ふわともき》はハムとチーズをつまんでいた。
ラウンジ内には僅かな客とスタッフしかいないが、全ての人間の目を惹いていた。
長身に引き締まった体躯。持て余しそうなほどの長い手脚。幅狭い二重の切れ長の目は怜悧な輝きを持っていた。
鼻筋の通った整った顔立ちはアジア系のモデルか俳優として十分世界的に活躍していてもよさそうだ。長い首筋と良く鍛えられた胸板で仕立ての良い柔らかく艶のあるギザ綿の白いシャツを着こなしている。
足元に目を落とせばカーフとヌバックを掛け合わせたキャメルのシューズはステファノ・ブランキーニのシングルモンクストラップだ。
引き締まった腕にはスポーツテイストのロジェデュブイの時計をはめている。所作や佇まいから色香とダンディズムすら漂わせているが、まだ三十路前である。
日本だろうと外国だろうと人目を惹く見た目をしていることは本人も十分承知しているし、上手くやり過ごす方法も熟知している。智己は軽食を摂ると、個室のラウンジに引っ込み、メールチェックのためにタブレットの電源を入れた。アテンドの女性がミネラルウォーターを持ってくる際にうっとりとした瞳で何か話しかけようとする。男はそれに被せるように口元に薄く微笑みを浮かべ礼を言っただけで、女性は気を失いそうになりつつフラフラとその場を離れた。
ニューヨーク支社に電話をかけていた秘書の佐伯は、上司の元に戻ろうとして一連の流れを目にし、溜息をついた。ほんのうっすら笑みを浮かべただけで足腰立たなくさせるとは、とんだcheaterだ。
言い寄ってきたり色目を使ってくる女性を冷たくあしらうことはしない。そもそも美貌も過ぎれば恐ろしさを感じさせるもので近寄ってくる女性が少ない。
近寄らせまいとするなら怜悧な瞳で睨みつけられれば大抵の人間は慄いて近づこうともしないだろう。あえて必要のないときにそうしていないというだけである。
佐伯は自分より年下の上司の行く末を案じていた。彼は幼少期から美しく品のある少年だったが、長じてからは外見にも社会的地位にも世の女性たちは否応なしに惹き付けられてくる。
11歳でアメリカに渡り、思春期をアメリカで過ごした影響か女の扱いには慣れている。女嫌い、というわけではないようだし、女っ気が全くないわけではなく、そこそこ遊んでもいる。だが、特定の相手がいたことは一度もなく、本気になったこともなければ大切にしたこともない。そもそも信用していないし、執着もしない。
本人は自覚していないかもしれないが、おそらく恋愛というものをしたことがないのだ。このままでは、女性に心を開くことなく、親戚連中からあてがわれた女性と心のない結婚をし、愛というものを知らないまま結局一人孤独に老いていくのではないか。そんな悲惨な末路が彼には見えてしまう。30歳にでもなれば周りもせっつき始めるだろう。
愛のない結婚をする前に誰かこの御曹司が夢中になれる人が現れてくれればいいのだが。そんなことを思いながら、上司に搭乗の時間になったことを告げに行った。
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