第九章 家族

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 パリ、パレ・ガルニエ。世界三大オペラ座の一つであり、音楽と舞踊の殿堂で、燦然と輝く絢爛豪華な外観と内装をもつ。
オペラやバレエの劇場としてだけでなく、宮殿以上に煌びやかな装飾、シャガールの天井がなどの見所も多く、建物そのものが観光スポットとなっている。
週末、智己とエレナはオペラ座バレエ団の新作公演『赤と黒』を観に来ていた。
 本来なら皐月夫婦が観劇する予定だったのだが、ジャンがどうしても仕事で行けないということで代わりに行かせてもらえることになったのだ。

エレナは両親が何度か訪れたと聞いているこの美しさと迫力のある劇場に行くのを楽しみにしていた。
平土間の良席と聞いていたのと、新作だというので、ディオールのプリーツがたっぷり施されたブラックのビスチェロングドレスを身にまとう。ウエスト部分にリボンと赤い羽根があしらわれている。クラッチバッグを赤にしたのは、作品に合わせてのことだ。
 職場から直行した智己は、ダークスーツだったが、あらかじめネクタイには赤の入ったものを選んでいて、赤のチーフを差せば見事なカップルの出来上がりである。

 荘重な正面玄関には、丸天井の頂に、竪琴をもつアポロン。タキシードやロングドレスで着飾った人々が入口ロビーから観覧席へ上がるための階段を埋め尽くす。高さが30mもあるこの壮大な吹き抜けの大階段は欄干の白大理石のほか、色とりどりの大理石がふんだんに使われていて、踊り場から波のような優雅が曲線を描きながら左右に分かれている。演劇と音楽のミューズの彫刻、燭台、天井画のモザイク装飾もどこを切り取っても絢爛豪華である。
 エレナは智己にエスコートされて階段を上っていく。踊り場の手前に着物姿の女性が目に入った。白地の小紋に、黒と赤の抽象柄の帯。赤の帯揚げ帯締めをしていて、作品に合わせてきたというのは一目瞭然だった。髪は肩上で切り揃えた艶やかな黒髪で、摘まみ細工の赤い髪飾りをしていた。装飾に目を奪われているようで、キョロキョロと上を見上げたり、周りを見回したりしながら、階段の端をゆっくり上っていく。
 二人が彼女に追いつく形になったとき、パウル・ボードリーの天井画に目を奪われていたであろう彼女が、階段を踏み外した。危ない、と思った瞬間、咄嗟に智己が彼女の身体を背中から支えた。智己が、
「大丈夫ですか?」と声をかける。エレナも顔を覗き込む。年の頃は20歳くらいだろうか、あまり化粧っけもなく、こちらなら間違いなく15、6にしか見えないだろう。
 彼女はぽかんと惚けた顔をして、こくんと頷いた。
「お気をつけて。」と智己が言い、エレナも会釈をした。
あぁ、間違いない。彼女は夫に惚れてしまっただろう。危ないところを逞しい腕で抱きすくめられたら。しかもとてつもない美形ときたら、惚れない女性がいたら教えて欲しい。エレナは心にチリチリとした感覚を覚え、智己の腕に添えた手に力を込めた。

ヨーロッパ最大の大観客席は皇帝の赤と金で装飾された豪奢なバルコニーが囲み、天井はシャガールの手による『夢の花束』の画と、重々しく輝く豪華な8トンものシャンデリアが彩る。
ベテラン演出家が台本と振付に衣装と装置まで手掛けた新作は、前評判でも期待が高かったが、華麗な音楽と相まって素晴らしかった。
野心的な青年ジュリアンと、町長夫人レナール、侯爵令嬢マチルドの恋愛模様を描くこの作品に、エレナは野心家で女を踏み台にするジュリアンに義父を重ねて嫌悪を覚えたが、作品は作品で楽しんでいた。
 座席はさほど広くないので、膝を伸ばしにロビーに出る。智己がシャンパンを取りに行ってくれている間、壁や天井の装飾を眺めていた。ふとロビーの隅の方で壁に向かって手をつき、寄りかかっている男性がいた。70代くらいの老齢で具合でも悪そうな様子だったので、声をかけた。
「具合でもお悪いですか、ムッシュー?」
「ん…あぁ…大丈夫…」
男性の口から日本語が出てきたので、日本語に切り替える。ブロンド女性に日本語で話しかけられて男性は少し驚いた様子だったが、エレナにありがとう、と言った。
「急に立ったのが良くなかったようですな。立ちくらみがして…」
「少し休まれては?椅子を用意してもらいましょうか。」
「あぁ、今孫が行ってくれていてね…」と老人が言っているうちに智己がやってきた。
「どうした?」
「あぁ、こちらの方具合がお悪いらしいの。どこかで休ませていただけると…」と、向こうから、タキシードを着たスタッフとともに、着物の女性が小走りにやってきた。日本人形かと紛うようなそれは、開演前に大階段で智己が助けた女性だった。向こうも気づいて、「あ…」と声を詰まらせる。
「先ほどは」
「あっ…。あの…。ありがとうございました。」
顔を赤らめてどぎまぎしながら、礼を言う。
「で、こちらは?」
「あっ、祖父なんですが、気分が悪くなったみたいで、休ませてもらいたいと思って…」
スタッフを連れてくるまではなんとかなったが、フランス語はできないようだ。代わって智己が伝える。
「すみません。ありがとうございました。」
ペコペコと何度もお辞儀をして祖父を支えながらスタッフに案内されて立ち去った。
「仲の良さそうなお祖父さんとお孫さんだ。」
智己がそう言ったので、そうですわね、と頷いた。

 公演が終わって観客の波が大階段からロビーへと吐き出されてくる。その波の中にあの祖父と孫娘がいた。祖父の方が階段の上にいた智己とエレナに気づいて会釈をする。おそらくは待っていたのであろう。
「先ほどはありがとうございました。」小柄だが恰幅が良く、仕立ての良いタキシードで正装している。
「お加減はよろしいのですか?」エレナが訊く。顔色も良くなっているように見えた。
「ええ、おかげ様で。別室で少し休ませてもらって。最終幕は観ることができましたよ。」
「それは良かった。」と智己が言った。
「…あの。できればお礼をさせて頂きたいのですが、この後お時間はおありですか?」
孫娘がおずおずと智己に言う。
「ええと。中のレストランを予約していて。」
「あぁ、我々もそこに予約をしているんですよ。ぜひご一緒にいかがですかな?」
それならば、ということで4人は一旦建物を出て、別の入口からガルニエ内のレストランに入りなおす。

 併設のレストランは、1920年代をテーマとしたシックでグラマラスな店内で、全体はゴールド系の色でまとめられ、中央には椰子の木が植えられ、床には蓮の花の絨毯が敷かれている。
老人が入口で予約席を隣にしてくれるようにスタッフに頼む。若干のたどたどしさはあるが、通じたようだ。
窓際のソファと椅子の席に通される。老人をソファ席に、智己はエレナをレディファーストでソファに座らせたので、椅子席には智己と孫娘が並ぶ格好になった。
 ワインを選んで、コース料理が運ばれてくる前に遅ればせながら、と男性同士が日本式に名刺交換をして自己紹介を始めた。老人は、宍戸朔太郎といい、大手化学メーカー、宍戸化学工業の創業者で、現会長という人物だった。オペラやバレエが好きで若い頃は夫婦で世界各国の劇場を訪ねたが、妻が先立ち、歳をとってからはすっかり足が遠のいていたのだが、孫娘が付き添ってくれるというので久しぶりにパリにやってきたとのことだった。孫娘、詩子は智己の隣で、といっても智己はソファ席のエレナの傍に椅子を寄せたので実際結構な空間が空いているのだが、明らかに緊張していた。ただ、エレナの視界には智己と詩子が並んで入るので、美しい黒髪にくりくりした黒い瞳に日本人形のようないでたちの彼女は、智己の隣に並ぶのに似合っていて心が波立った。
ナチュラルのプラチナブロンドをアップにして、片方だけ垂らしたヘアに、鮮やかな赤リップ。露出した肩は優美なラインを描き、ヴァイオリンの練習を欠かさない腕は適度に引き締まっている。どこかの女優と見紛うばかりにドレスアップしているが、自分がチープな女に思えて仕方ない。
 
「いやはや、不破の御曹司でしたか。お父さんや叔父さんにはお世話になりましたが。そう言われれば似てらっしゃる。」
産業界も狭いものである。この分なら澤野の人間とも繋がりがあるのかもしれない、とエレナは思った。
「それで…そちらは?」朔太郎がエレナのことを尋ねる。
「あぁ、申し遅れました。妻のエレナです。」
妻、という言葉に詩子がビクッとする。エスコートする様子から親しい関係であるとは思っていたが、まさか結婚しているとは。詩子は絶望に似た感情を覚えた。
艶やかな天然ブロンドに青灰色の瞳、ドレスを抜群のスタイルに身に纏う彼女が、この人の妻とは。自分は永遠に敵わない、と思った。
エレナがまだ二十歳であるということに、朔太郎と詩子は驚いていたが、エレナも詩子が二十六であるということに驚いていた。やはり日本人は相当若く見える。
朔太郎が、「いやぁ、あちらの女性は大人っぽく見えますなぁ。詩子なんて中学生くらいに見えるんでしょうな。」などと笑った。
詩子は都内の音楽教室でピアノ教師をしている、とのことだった。引っ込み事案な性格と緊張とが相まって祖父の話に合わせることが多かったが、音楽好き達の会話はそれなりに盛り上がった。

 ディナーも終盤に差し掛かったところで、エレナは化粧直しに席を立った。レストルームの鏡の前で、リップを引き直していると、同じく席を立ってきた詩子が隣にやってきた。話しかけてもいいものか、ともじもじとしながらささやかな声で言う。
「エレナさんって、まだニ十歳なのに、すごいですね。」自分の方が年上とわかっても詩子は丁寧な物言いを崩さなかった。
「何がですの?」
「その若さで語学がご堪能で、スタイルも良くて、あんなに素敵な人と結婚しているなんて…。」
言いたいのは最後のことか、とエレナは思った。
「たまたまですのよ。」エレナは笑顔で言った。
「たまたま?」
「ええ。ウィーンの道端で偶々出会いまして、そこから結婚の運びになりましたの。」
「そうなんですか…。私も智己さんみたいな素敵な人と運命の出会いがしてみたいです…。」詩子は呟くように言った。
パリのオペラ座の階段で踏み外しそうになったのを助けられた、十分運命的ではないか。
エレナは胸が焼き付くような思いがしたが、笑顔を繕う。
「詩子さんは大和撫子のような方ですから、素敵な出会いもありましょう。」
「そうでしょうか…」
「ええ。きっと。」
エレナはそう言って、詩子に席に戻りましょうと促した。男性たちは、日本に帰ったときにはゴルフでも、とビジネス交流をしていた。
ホテルに帰る二人とは別方向だったので、ガルニエの入口で別れる。
智己はエレナの肩を抱き、エレナは智己の腰に手をまわして歩き出す。何事が話して二人で顔を見合わせて笑い合う。
見たいような、見たくないような気持ちで、それでも振り返らずにはいられなかった詩子が、その様子をじっと見ていた。

2

ウィーンに遅れること1か月くらいだろうか、東京にも冬の足音が聞こえてきていた。黄色や赤に色づいた木々がその葉を落とし始めている。
都心のビル群の中だが、木々が多く黄色や茶色の葉を踏みしめて、母ユリヤの墓をエレナは智己と共に再び訪れた。今日でちょうど母が亡くなって5年。命日には留加と必ず訪れている。授業でこれない弟の代わりに、母が好きだった薔薇の花束を今年は智己と2人で供えた。
「ママ…。わたくし今度オーケストラと共演しますのよ。どうか見守ってね…」
膝をついて、ひんやりと冷たい墓石を撫で、下に眠る母に話しかける。智己はエレナの肩を抱く。

レパートリーを順番に演奏して上げていくだけのエレナのSNSはあっという間に登録者数100万人を超え、1億回以上の再生回数を超えた。ウィーンでの小さなコンサートに出れば話題になるし、出演依頼も多数舞い込んできていて、今や中々の有名人になっている。ケビンが嬉しい悲鳴を上げながらもエレナのためにその依頼を厳選してくれているのだ。今回日本に戻ってきたのは、母の墓参りが目的であったが、ffのスマートフォンの良いプロモーションにもなった話題のヴァイオリニストが身内であることをFUWAが逃すはずもなく、自前のオケと共演させようというのである。音楽財団の総帥を務める社長夫人の紫乃がいそいそと根回しを済ませており、次男夫婦の耳に入ったときにはとっくにスケジュールが抑えられていた。

「エレナ…か?」
後ろから声がして恐る恐る振り向くと、義父の姿があった。数か月前、澤野の本家で会ったときよりもずっと老け込んでいる。白髪が増え、頬はややこけたように見える。黒いロングコートを着ていてはっきりとはわからないが、肩回りからは随分と痩せたようだ。手には白い薔薇の花束を持っている。
エレナは立ち上がった。智己はエレナの腕を引いて後ろに下がらせる。二人に付いている護衛も目を光らせている。
忠利はゆっくりとユリヤの墓前にすすみ、膝を折ると、エレナが供えた花束と反対に自分の持ってきた花束を供えた。
「あれから、もう5年か…」墓石を見つめながら、独り言をいうように忠利は言った。
「ええ…。」答えていいものかどうか逡巡してエレナは相槌を打った。
「SAWANOは、会社は、…もう御終いだ。」忠利はどこか他人事のように言う。
取引先銀行に多額の優先株式を発行して資金を調達し、何とか持ちこたえたSAWANOであるが、銀行に言われるままに経営陣を総入れ替えし、事業をあちこちに切り売りすることを余儀なくされていた。忠利と幸利もその地位を失った。エレナを嫁にやる見返りとばかりに智己に押し付けようとしていた金融部門もタダ同然でffに売却することになっている。
「これまでずっと好き勝手にやってきた報いだな。」忠利は自嘲気味に言った。
エレナはそれには答えなかった。
「…ユリヤのことは…愛していたんだ。」
欧州進出に失敗して自信を失っていた頃に出会ったユリヤは、忠利にとって救いの女神に思えた。気高く美しく、彼女のためなら何でもして見せると思えた。外国人のしかも子持ちを妻にするなど、と母華子に反対されたが、それを押し切った。華子に逆らったのは後にも先にもその時だけだ。
ただ、ユリヤはいつも美しく笑みをたたえていたが、心からの笑顔を見たことはなかった。
「彼女を幸せにしてやれなかった。」いや、数いた妻も愛人も誰一人として幸せにはしていない。忠利は自分が言った言葉でその事実に気づく。
「…母が幸せだったとは思いませんけれど。留加を授かったことだけは母も、そしてわたくしも有難いことだと思っておりました。」
これは紛れもない本心だ。
「そうか…。ありがとう…。君も…」そう言って忠利は口ごもる。
ユリヤがエレナと一緒でないと行かない、と言ったから連れて来ただけのこと。ひょろひょろと細いユリヤの手前可愛がるような素振りを見せたこともあったが、15年以上、特段の興味もなく、ろくに話したこともなかった義理の娘。あまりに美しく、亡き妻そっくりに、いやそれ以上の美貌に成長した。邪な気持ちを持った自分を恥じた。
「君にも…随分と苦労をさせた。」そう言って忠利は頭を垂れた。
忠利にとっての精一杯の謝罪だった。
この程度で済ますつもりか、と傍で見ていた智己は怒りを沸き上がらせていたが、エレナは静かな水面のような表情でいた。
「そうですわね。息の詰まるような日々でした。ただ…澤野の家に来たおかげで、経済的な心配なく過ごせたのも事実ですわ。母と2人の生活では音楽をしたり、語学を学ぶことは難しかったでしょうから。留加のことだけでなく、そのことでは感謝もしておりますの。」エレナは自らの偽りのない気持ちを言葉にする。
「そうか…。そうだったんだな。」
エレナのことも祖母から離れたあと留加のことも、離れの生活のことはユリヤと使用人頭の岸野一家に任せきりで何もしてこなかった。
「だが、機会を活かしたのは君だ。随分と優秀だったそうだな。」
三番目の妻との間の子である沙也はエレナと同じ年齢だが、彼女につけた家庭教師は沙也が不真面目だったり、我儘を言って皆辞めさせてしまった。そしてその人達はそのままエレナと留加の家庭教師になったのである。そのいきさつは本家の使用人頭の三島から聞いてはいたが、彼女が類まれなる優秀さを見せていたということを最近になってフランス語の家庭教師を務めていた者から聞いたのである。
「それなら、不破の家でも十分にやっていけるだろう。…智己さん。私が言えた義理ではないが…どうかエレナをよろしくお願いします。」そういって忠利は智己に頭を下げる。
全くだ、と内心思っていたし、貴方に言われるまでもない、と顔にも出ていた。智己は、
「おっしゃられるまでもありませんよ。彼女は私にとって唯一ですから。」と言いのけた。
その言葉に忠利は、はっとした。ユリヤに心を奪われていたときの自分を見たのだ。ただ、彼が自分と違うのは、彼はエレナからの信頼を得ている。愛されている。自分がユリヤから貰えなかったものを彼はエレナに貰っている。羨ましくもあったが、諦観の気持ちの方が大きかった。
「そうですか…。」忠利は自嘲気味に、しかし穏やかに笑った。
「留加のことだが、」
エレナは弟の名前を聞いて身構えた。自分は智己のおかげで澤野を出ることができたが、留加は、忠利の血の繋がった息子である。
「なんでしょう…?」
「日本に戻さないといけないと思っている。」
「なぜです?まだ学校は残っていますわ。」
「スイスの学校は金がかかりすぎるんだ。会社の株に不動産もほとんど手放すことになる。本家もそのうち売却しないといけないだろう。」
そこまでの事態になっているのか、とエレナは驚いたが、長年にわたる総花的経営の結果であり、今回のことがなくとも負債は大きく膨らんでいたのだ。
「それでは…」とエレナが言いかけたところに
「それならば、留加くんは私たちで面倒を見させてもらっても?」と智己が言った。
「向こうに住んでいますから、何かあってもすぐに対応できますし。お子様方のためにも資産を整理なさるのですよね。」
忠利にも幸利にも内外に子供がいる。澤野が築き上げた財産は膨大であったから財産を全て整理してもかなりの資産は残るはずではあるが、留加の留学費用も捻出が難しいときたら、養育費の支払いは負担になってくるはずであった。
「それは…」忠利は思ってもみなかった、という顔をする。
智己がエレナの顔を見る。そして、頷いた。あぁ、そうか、今言うべきなのだ、とエレナは智己の意を汲んだ。
「お義父様。わたくし、留加を養子にしたいと思っておりました。澤野の跡取りは幸利様です。留加は身体も弱いですし、澤野の家から出た方が留加にとっても、澤野にとってもお互いのためであると思うのです。」
智己は留加の病弱設定のことを失念していた。
「そうか…留加とはこの話を?」
「ええ。」エレナは頷く。
「…わかった。そうしよう。」忠利は目を閉じ、小さく何度か頷いた。エレナはほっとした。自分だけが澤野の家から出たことを留加には悪いと思っていたのだ。これで留加も自由にしてやれる。忠利との血の繋がりがなくなるわけではない。でも澤野の人間ではなくなるのだ。
「そうだ、言っておかねばならんことがある。」
「何でしょう?」

「母が倒れた。」
「おばあ様が…?」
「先月のことだ。」
SAWANOを助けてくれるはずだった銀行が、株式数を盾に経営陣の総入れ替えや事業の売却を迫っていた頃、銀行に裏切られた
!と怒っていた華子。高齢の身に澤野の凋落は心身ともに苦痛であったらしい。
「それは…あの、わたくしお見舞いを…」といいかけたエレナに、忠利は、いや、と言って首を振った。
「母はもう正気を保てていない。もう誰が誰かも分からないんだ。息子の私のことさえもね。」
女傑として澤野に君臨し、支配していた華子。食事も喉を通らず、瘦せこけて、精神のバランスも失ってしまったらしい。
「聞いたことのない何人もの女性の名前を叫んでね。許さない、殺してやるなんて言っている。…どうやら父と関係のあった女性の名前らしい。」
先代の頃、澤野家の権力闘争を経て忠利を跡継ぎにつけた。夫の数多くの愛人には中元歳暮を贈っていたなどと女傑としての逸話には事欠かない。だが、彼女も一人の女であったのかもしれない。
「そういうわけだから、見舞いなどは不要だ。留加にもそう伝えてくれ。」
「わかりました。」エレナはそう言って礼をした。
「元気で。どうかユリヤの分も幸せに。」そう言った忠利は痩せこけた顔に穏やかな笑みを浮かべる。
「…ありがとうございます。お義父さまもお元気で。」
義父からの言葉に温かみを感じたのは初めてだ。エレナは答えながら涙がこぼれそうになった。何かが違えば血は繋がらなくとも父娘の情が湧いたかもしれない、と思えた。だが、これまでの忠利は、そして彼が送ってきた人生の道はあまりに歪んでしまっていた。
忠利は頷いて、くるりと向きを変え、墓地の小道を大通りの方へと歩いていった。
細く薄くなった身体でゆっくりと立ち去る義父の背を、エレナは智己とともに見送った。

3

「お義父様が留加を養子にすることを了承してくれてよかったですわ。」
エレナはしみじみと言った。
「エレナ…そのことなんだが。会って欲しい人がいるんだ。もちろん留加も。」
母の命日に義父と再会してから、弁護士同士のやり取りをして、既に書類は出来ている。
「あの…やはり問題が?」
日本の法律ではエレナが留加と養子縁組をするには智己と共にしなければならない。智己も同意してくれていたが、やはり不破家として血の繋がりのない人間を入れるのは抵抗があるのだろう、とエレナは思った。
「いや、そういうことではないんだ。ただ、話を聞いて欲しいという人がいてね。」
深刻な表情を浮かべるエレナを安心させるように、智己が言った。

留加は週末ウィーンのアパートメントにやってきていた。そこへ、智己が招いた人たちが訪ねてきた。それはドイツにいる智己の叔父夫婦、義昭と真知子であった。
数か月ぶりの思わぬ再会にエレナも留加も驚いていたが、義昭と真知子は二人に思いもよらない提案をしてきた。
留加に夫婦の養子にならないか、というのである。

は…?と姉弟が驚いていると、
「実は夏にフランクフルトに行った後から言われていたんだ。」と智己が言った。
「エレナが留加を養子にするつもりなら自分たちの養子になってはもらえないかとね。男子だから澤野が出さないと思っていたから、留加が成人するのを待つつもりだったから、そのときに改めて聞いてみようと話していたんだよ。」

「君たちがうちにいた数日で二人とも同じ思いを持ったんだ。」義昭がいう。
「私たちに子供はいないんだけど、」と言って真知子が語り始めた。
「子供がどうしても欲しくて長く治療を続けたの。でも上手くいかなくて…。もうこれで最後にしようって試みたのが16年前ね。心拍まで確認できたけど、1週間後には聞こえなくなってた。それからはもう二人で生きていきましょうって。でも、ずっと忘れたことはなかった。もし、生まれていれば何歳だって…ずっと。」
真知子は涙声になってくる。義昭は妻の肩を抱き寄せた。
「産まれていれば君と同じ年だったんだよ。勝手な話だが、運命めいたものを感じてしまった。子供がいない生活を長く送ってきたが、君が澤野の家を出たいというのなら手助けをさせてもらえないか、と思ってね。そして、できれば僕たちの子供になってくれないかと…」義昭がそこまで言って、真知子は声を張って言った。
「別にね、あなたは親なんて思ってくれなくていいの。単なる紙切れ一枚の、書類上のことに過ぎないんだし。もちろん今のままの生活を続けてくれていいの。ただ…私たちにあなたの人生のお手伝いをさせてくれない?」
「何かあったときに頼れる大人、くらいに思ってくれたらいいんだ。もちろんエレナちゃんも、智己も力になるだろうが、私たちには年の功というものもあるから。」
 留加はぽかんと、何が何やらという気持ちであった。だが、しっかりと夫妻の気持ちを受け止めていた。
「確かに…姉の養子になるということ自体書類上のものだと割り切ってましたが…。僕、もう15歳ですし。かわいい子供じゃないですけど大丈夫ですか?」
「私たちに赤ちゃんのお世話は無理よ?」と真知子は笑って言った。留加もまた笑顔になる。
「わかりました。どうか宜しくお願いします。」と留加は頭を下げた。
ありがとう、と義昭と真知子は口々に言った。

「エレナ、そういうことなんだが…」智己が、こちらも放心しているエレナに言った。
「あの…そう。ごめんなさい。吃驚しちゃって。わたくしからも…。不束な弟ですが、よろしくお願い致します。」
エレナも夫妻に頭を下げる。自分以外に留加を想ってくれる人が、家族としてくれる人がいる。孤独に生きてきた姉弟にとってこれ以上の幸せはなかった。自然と瞳が潤む。
「留加…よかったわね…」嬉しくて、エレナは留加を抱きしめた。
「姉さん、ありがとう。」
「…ごめんね。姉さんたちの子供にはなれないよ。」などと留加がいうので、エレナは涙顔で吹き出した。
「何言ってるの。あなたはわたくしの可愛い弟よ。今までも、これからも。」エレナはもう一度、愛しい弟を抱きしめた。

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