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ケビンに紹介されたワークショップは、音大の教授陣から直接指導をしてくれるというもので、夏休み期間を利用して国内外から学生が参加する。初日にクラス分けが行われて、合格すれば、教授陣から直接指導を受けられる。不合格だと聴講生という形で参加する。
エレナは父のヴァイオリンを手に、大学の門をくぐった。
学生は地元の学生もいたが、多国籍だった。人気の高いコースのようで、参加者は30人ほどであった。
クレアが紹介してくれたピアノ科のナタリアは、この大学の学生で、伴奏を頼んだところ快諾してくれて時間をとって練習にも付き合ってくれた。小柄で可愛らしい外見に、伯爵令嬢らしい優雅な佇まい。成績優秀な彼女らしく、どこをとっても優等生らしい端正なピアノを聴かせてくれる。
初日の今日はクラス分けが行われる。順番に前に出て、演奏する。5人の教授がいて合否を決める形式だ。学生は、音大生や、音大浪人生が多かったが、中には、教師やプロもいた。3番目に名前を呼ばれたエレナは、モーツァルトのヴァイオリンソナタで臨んだ。ここがウィーンであることと、ケビンが紹介してくれようとしている教授がモーツァルトを得意としている、ということが選曲理由であった。
このワークショップは大学入試の面通しの側面もある。教授に演奏を聞いてもらう機会を作って、教授がうちに来なさい、といってくれれば入学は内定といえる。クラスに空きがあれば、入学が許可される。ケビンは録画したエレナの演奏を、懇意の教授の元に送ってくれていて、一度いらっしゃい、との言葉をもらっていた。彼女は、神童と呼ばれた少女の頃から世界各国の一流交響楽団との共演をし、現在も第一線で活躍している一方で、後進の指導にも力を入れている。ソリストとして名を馳せた彼女の元で学ぶことができるなら、エレナ自身の自信にもつながるし、コンクールのアドバイスももらえるし、デビューへの箔付けになる、とケビンは踏んでいた。
名前を呼ばれて、エレナが席を立った瞬間から学生は目を奪われることになる。艶やかなブロンドに抜群のスタイル。小さな顔に大きなパーツが整って並んだ美貌。そして楽器を構えた瞬間、殺風景な教室は、コンサートホールへと一変した。学生は一聴衆となって、彼女の音楽に聞き入った。リズムも音符の処理も正確。真面目で誠実な演奏。ナタリアのピアノも明瞭で、端正な演奏だった。ウィーン的な甘さもあって、非の打ちどころのない演奏であった。
彼女が弾き終わると、拍手に包まれた。彼女の奏でる音楽に引き込まれて恍惚の世界へと追いやられた学生たちは、ふと我に返り、なんでこんなレベルの人が参加してるんだ?と首を捻った。外国から初めて参加する者は、技量のあまりの違いに帰りたくなってしまう者もいた。教授陣は、彼女が既に同僚のクラーラ・フォン・シャートの元に内定していることを残念に思った。それほど彼女の演奏は惹き付けられるものがあり、彼女が創る世界に引き込むものであった。
ただ、一人、クラーラの弟子イルーゼ・カレンバウアーを除いて。
彼女は、シャート教授が所用で初日に参加できないというので、代打を務めていた。彼女自身もソリストとしてCDを出したり、名だたる楽団と共演している名手である。
エレナが礼をして拍手が納まりかけたとき、イルーゼは腕を組んだまま、静かに、だが明瞭に言った。
「私は納得しないわ。」
熱狂に燃える炎に氷水が掛けられたようだった。
「今の、何がそんなに良いの?」
学生は言葉を失う。彼女に顎で指された、隣に座っている教授も言葉に詰まった。
イルーゼは立ち上がって、エレナの方へつかつかと向かってきた。
「あなたのそのお綺麗な見た目は立派だけど。でもつまらない演奏。音楽でも何でもない。機械ね。あなたは音を流すだけの綺麗な人形だわ。」
冷酷で、情の通わない言葉で、エレナは傷つけられた。氷の剣で心臓が抉られるような気がする。何か言った方が、言い返した方がいいのかもしれない。でも何も言葉は出てこなかった。それなのに頭はどこか冷静で、あぁ、自分は攻撃されている。この人はわたくしの音楽が気に入らないのだ、と考えていた。
イルーゼは剣をさらに突き立てる。
「先生の一番弟子は私よ。今日とる学生の選考も任されてるの。あなたはうちの一門にそぐわない。まぁ、そもそも音楽家とも言えないけどね。」
彼女と同年代の教授が見かねて、「そこまで言わなくても…」と言いかけたのだが、彼女はきつく睨みつけて黙らせた。
エレナには反撃する力がなかった。放心状態で、抜け殻のようになって、涙も出なかった。彼女は、ただ、か細い小さな声で、
「……わかりました。ありがとうございました。」
とだけ言い、荷物をまとめて教室を後にした。
ナタリアが慌てて後を追う。
数時間は出てこないと思って近くでランチを取っていた護衛のヒルダは、エレナに呼び出されて慌ててやってきた。
「ナタリア…今日はありがとう。」
エレナは、穏やかな顔だった。
「エレナ…あの…」
かける言葉がみつからない。学校の授業でも、コンクールでも、聴衆からだってあれほど辛辣な言葉をかけられたことはない。ナタリアはエレナが不憫でならなかった。
「わたくしなら大丈夫。また、ね。」
エレナは変わらず美しく微笑む。
ナタリアはこくんと頷いた。それが彼女にできる精一杯のことだった。
アパートメントに帰ってきたエレナは、ベッドに突っ伏した。
あの場所で、どうにか堪えた涙が溢れ出る。只ひたすら好きだったヴァイオリン。周りが心配して止めるまで、何時間でも弾いていられた。父と同じようにヴァイオリンで身を立てたかった。別に有名になりたかったわけでもないし、音楽に関われたらいい、そのくらいの気持ちでいた。楽な道ではないが、決して狭すぎる道でもないはずだったし、それに見合ういやそれ以上の努力をしてきた自負もある。ケビンがわざわざイギリスから訪ねてきてくれたほどなのだ。だからあれほど辛辣な言葉を投げられるとは思ってもいなかった。悔しくて、情けなくて、やりきれない思いが募る。一人になって緩んだ心は、涙をとめどなく流した。
どれほど時間が経っただろうか。ナタリアから、ヒルダ、ヒルダからアンナへ事情が伝えられ、アンナは夕食の準備をして、勤務時間後も家にいてくれた。だが、エレナには、食事を摂る気力はなかった。
深夜になってようやく帰宅した智己はアンナから事情を伝えられた。朝出かけるときには、踊り出さんばかりに楽しみだと言っていたのに、まさかそんなことになるとは思いもしなかった。きっと絶賛されて教授にも気に入られて帰ってくるだろう、そんな風に思っていたのだ。
「エレナ・・・眠った?」
そっと部屋に入ると、エレナはゆるゆると頭を上げた。
「あ…お帰りなさい。あの…わたくし…」
「いいよ。そのままで。」
智己の表情から彼が全てを聞いたのだと理解した。
エレナは智己の胸に抱かれて嗚咽した。
厚く温かい胸板に顔をうずめ、脚を絡めて全身で縋る。智己がエレナの背中を優しくさすってくれる。
「大丈夫。ここにいる。」
甘く低い声が耳元で囁く。
唯一自分を支えていたものが打ち砕かれた猛烈な喪失感と孤独感。
「わたくし…あの…もう…何も無くなってしまったわ…」
自分の存在理由が無くなってしまった、と不安に苛まれて混乱するエレナの口を自らの唇で塞いで黙らせる。
「大丈夫。何も無くしてなんかない。一度きりのそれもたった一人の評価に傷つくことはない。」
智己の言葉に、背中に回された大きな手に、エレナのささくれ立った心が穏やかになっていく。
「エレナの側にいる。エレナはここにいていいんだ。」
2
3日ほどエレナはふさぎこんでいた。智己とアンナはここぞとばかりに甘やかし、エレナが普段なるべく控えているトルテをせっせと差し入れた。クリームたっぷりのザッハトルテ、カフェ・モーツァルト名物のピスタチオとチョコレートのトルテにカラフルなフルーツがふんだんに使われたフリュフテトルテ、チョコレートとダークチェリーの甘酸っぱさがたまらないシュヴァルツウェルダーキルシュトルテなど何か月分だろうかというほどの糖分を摂取した。
どれほど打ちのめされても弾かずにはいられないのは、やはり性分なのか。次の日にはエチュードだけだったのが、すぐにメンデルスゾーンもチャイコフスキーの協奏曲も弾いていた。昼間にエレナが練習するのを聞くことができるアンナは、とくに音楽に詳しいわけでもないが、エレナの心に落ち着きが出てくるのがわかったし、これをBGMに仕事をする贅沢さを味わっていた。
「魂がないなんて、偉いヴァイオリニストだか何だか知らないですけど何を聞いてるんでしょうね。」
仕事から戻った智己にエレナの様子を伝えつつ、アンナはそう言った。
エレナの演奏を独り占めできるというならそれはそれでいい、と智己も思った。
エレナを心配して、伴奏をしてくれたナタリアが訪ねてきた。彼女は花束と、おすすめだというヘーゼルナッツクリームが層になったエステルハージトルテを持ってきてくれた。
「来てくれたの?嬉しい!」
想像していたよりもエレナの立ち直りは早かったようで、いそいそとお茶を入れる様子にナタリアはほっとした。
「素晴らしいと思ったのにね…」
「もういいの。認めてもらいたい、とかそういう欲は捨てることにしたわ。」
今日2個め、というトルテを口に運びながらエレナは言った。
「それが良くなかったのかもね。良い評価をもらいたい、と思って弾いたことなかったでしょ?楽しいばっかりだったんじゃない?」
「あぁ、そうかも。コンクール出たことないから人と競ったことないし。音大の入学試験は受けたけど。」
「学校は伸びしろを見るから。そこまでのものは求められないのよ。音大受験する?」
エレナは首を振った。
「技術どうこうではなくて、イルーゼ女史は演奏者としての素質を言ったのだと思うの。素質がないって言われてこれ以上学ぼうとは思わないわ。」
知識も技術も十二分に叩き込まれている。だからこそ、ヴァイオリンの機械人形なのだろう。
「だからね。もう単なる愛好家として生きていこうと思って。」
エレナは開き直った。
「あたしはエレナの演奏好きだけどな。音がキラキラしてるもの。」
「ありがと。ナタリアは立派なピアニストになってね。」
「あたしこそ無理だよ。そもそも人前でひくのも苦手なんだから。場数踏んで多少は慣れたけど、そもそも一人で楽しく弾いてる方が好きなんだよね。人に聞かせたい、みたいな気持ちがないの。だからピアノは大学で終わりにしようかなって。」
「じゃあ、卒業したらどうするの?もう来年卒業よね?」
「実家を手伝うつもり。財団とかやってるから。あとは…彼次第、かな。」ちょっと恥ずかしそうに笑う。
あ、とエレナは声を出した。
「なるほど、そういうことなのね。」
クレッシェンス夫妻が、娘が帰ってこない、と言っていたのは、恋人の存在があったのだ。彼と一緒にいる時間をとりたかったのだという。
「別に結婚どうの、とかそんな話はないのよ?でもいずれ国に帰るっていうからどうしようなるのかなとは思っててね…」
ナタリアは愛らしい顔に寂しさを浮かべた。
「ついていくの?」
「うーん。一緒に来てとは言われてるけど、遠いから…」
「そうなの?ご両親にはまだ紹介してないのよね?」
「彼は会ってくれるとは言ってるんだけどね・・・。何だか恥ずかしくてね・・・。」
俯いたナタリアには不安感と恐れが浮かんでいて、彼女が言葉通りではない、何かしらの抵抗感を感じていることをうかがわせた。だが、エレナはそれ以上突っ込んで聞くことはしなかった。ぱっと顔を上げたナタリアは努めて明るく言った。
「ねえ、エレナ、彼連れて帰るとき一緒に来てよ。」
ナタリアは
「何故そうなるの?」
「クレアのとこのパーティーでパパとママには会ってるんでしょ。二人ともエレナのヴァイオリン聞きたいって言ってるし。いいじゃん。」
「・・・魂のない演奏でも?」
ナタリアは声を立てて笑った。
「気にしてるじゃない。大丈夫よ。私と何か一緒に弾きましょ。」
ナタリアは二歳しか変わらないのに、甘えがなくきちんと芯を持っている。クレアもそんなところがあるので、彼女たちといると、安心感があった。ナタリアとは、今度彼を紹介してもらう約束をして別れた。
3
「休みが取れたからどこかへ行こうか。」
そう智己が言ってくれたのは、すっかりふさぎ込んでいたエレナが立ち直りかけていた頃だった。
「といっても4日しか休めないんだけどね…」
ハネムーン休暇にしては短い休暇に智己は不満気であった。兄貴は2週間くらい休んでいたのに…、とぶつくさ言う上司に、
「仕事は山ほどあるんです。何とかひねり出したんですから感謝してください。」
と秘書の佐伯に至って事務的な返答と共に与えられた休暇であった。
ナタリアが恋人と音楽祭に行くと聞いたエレナが、「わたくしも行ってみたいですわ」と言うので、ザルツブルグに行くことにした。
モーツァルトが生まれた音楽の都。「塩の城」の名をもつこの街は、岩塩の取引で繁栄した。市街地には、教会や宮殿の壮麗な建物が立ち並ぶ。郊外には、『サウンド・オブ・ミュージック』の映画の舞台にもなった美しい山々や湖が広がっている。
ザルツブルク音楽祭は、世界屈指の音楽祭で街は世界中からの観光客で一杯だった。オペラやコンサート、そして演劇など多様なプログラムが組まれていて、夏の社交界と言われる独特の華やかな雰囲気につつまれていた。
ウィーンからrailjetで2時間半。昼前に到着して、昼食がてら街を散策する。ホテルは新市街にあるが、川を渡って旧市街へと向かった。川の向こうに目に入ったのは、歴代大司教の城塞、ホーエンザルツブルク城塞。大砲や武器庫まである堅固な城塞だ。威厳があるが、抑圧の象徴でもある。エレナはそれが目に入ったときに身が絞まる思いがした。若い頃のモーツァルトが逃れたかったものを感じたのだ。
路地を抜けると目抜き通りであるゲトライガッセに出る。狭い通りの両側には、軒先に美しい鉄細工の看板を掲げた店が隙間なく立ち並ぶ。ゲトライガッセ9番地にはモーツァルトの生家があった。
外壁に金色のメダイヨン飾りのついた黄色い建物。この4階で楽聖は生まれた。彼が子供の頃に使っていたヴァイオリンや、『魔笛』を作曲したクラビコード、自筆の楽譜などの品々が展示されている。
同じ建物の中にはレストランがあり、店名はモーツァルト家のかつての家主であった。音楽祭期間中は外にカフェスペースを設けている。その一角に小柄な赤毛の女性を見つけた。
「ナタリア!」
伯爵令嬢は夏の休暇を存分に楽しんだようで健康的な小麦色になっていた。
「待った?ごめんなさいね。展示をじっくり見過ぎたわ。」
「大丈夫よ。私たちもさっき来たところだから。楽しめた?こんな場所を指定しておいてなんだけれど、あなたがトラウマになったら困ると心配はしてるのよ?」
エレナは首を竦める。
「大丈夫。モーツァルトに罪はないもの。」
そうね、とナタリアは可愛らしく笑う。そして、智己にも挨拶をして、彼女の隣の紳士を紹介してくれた。
彫りの深い顔立ちに、浅黒い肌。整った顔立ちに立派な体躯。アラブ系の方なのね…とエレナは思ったのだが。
「アハマド・ビン・カハターンです。お会いできて光栄だ。」
智己と挨拶をする様子は、夏の華やかなレストランが一瞬生き馬の目を抜く冷徹なビジネスの場に見えた。
「アハマド…王子?」
語尾の単語に驚いてエレナは尋ねた夫の方を見る。
ナタリアの恋人として紹介されたこの人が?
当の本人はにこやかな笑みを浮かべている。
「第三ですけどね。」
中東の小国ではあるが石油と鉱物の世界有数の産出国、アルワリード王国。開明的な現国王の元で王子達は欧州各国へ留学し、そのまま民間企業や研究所で職に就いている。いずれは母国に戻って要職に就くことは規定路線ではある。長兄は研究者肌で、次兄はビジネスに才覚があり、自分で会社を興している。第三王子ではあるが、現在銀行務めをしているアハマドが次期皇太子と目されていた。
国の名は聞いたことがあっても、そのあたりの事情を知らないエレナは礼を失しないか身を固くした。
「エレナ、緊張することないのよ?彼がこんな肩書だから、あまり大っぴらにはしてないんだけど、あなた達だから。」
ナタリアはいつものように明るく愛らしい声でいう。
「彼女から、君たちの話は聞いていたから会ってみたかったんだ。」
アハマドも親しみを込めて微笑む。だがエレナは引きつった笑みを返すのが精一杯だった。智己は王族を前にしても堂々としたもので、流石だとエレナは思った。後で聞けば学生時代に中東の王族の子弟が何人か学友であったので、特別なことではないらしい。
「ナタリア…。彼とどこで知り合ったのか聞いても?」
「あぁ、舞踏会よ。」
「舞踏会?」
「オペラ座の舞踏会。私、そこでデビューしたから。」
「純白のドレスでね。あのときのデビュタントでナタリアが一番綺麗だったな。」
アハマドが堂々と惚気る。現在33歳の彼は、10以上年下の恋人が愛しくて堪らないらしい。もっとも年齢を聞いて、エレナも智己も意外に若い、と思ったものだ。
「エレナは、そろそろ…そっか。既婚だ。」
デビュタントは、初めて社交界にデビューする未婚女性だ。
「シーズンになれば誰でも参加できる。エレナも行ってみる?」
「でもペアで踊ったことがありません。」
「教えてあげるから大丈夫だよ。」
「智己さま、ワルツがお出来に?」
「姉さんに仕込まれた。ダンスの下手な男は駄目だとか言われて…」
智己は遠い目をする。姉に教わった唯一のこと。あまりの厳しさにそれ以降何かを教わったことはない。
「皐月さま仕込みなら間違いございませんわね。」
エレナはクスクス笑った。
「じゃあ、年末の王宮でどうですか?僕も年末にはウィーンにいられるから。」
アハマドの提案に、ナタリアは嬉しそうに首肯した。母国と欧州各地を行ったり来たりする生活をしているので恋人との時間は中々とれないらしい。
ナタリアは音楽の話で気が合ったという王子は造詣深かった。
「あなたとナタリアの演奏も聞いてみたいですね。」
「国の両親や姉妹も音楽が好きで。ぜひうちの国にも来ていただきたい。」
アハマドがそう言ってくれるのをエレナは未知の国への期待で喜んだ。だが、もちろん一緒に、と思って顔を見たナタリアに漂う寂寥感が、エレナからかける言葉を失った。口元は笑みがあるが、静かに目を伏せた。ナタリアは、両親である伯爵夫妻に彼のことを紹介していない。
エレナは代わりに智己に同意を求めた。智己は、「ええ、ぜひ。」と返した。
ナタリアとアハマドは、2日前から音楽祭に来ており、今夜は城塞でのコンサートに行くということで、店で別れた。
「では、年末にお会いしましょう。まぁ、トモキとは近々会うことになりそうですが。」
柔和な顔がビジネスモードに切り替わる。智己はやれやれと諦観を浮かべて握手に応じた。
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「音楽祭って…ここまでしますの?」
たった4日の小旅行と思っていたが、芽以とともに荷造りを手伝ってくれていたアンナは、ブリギッタに頼んでドレスまで手配してくれていた。
イエローの肩の開いたホルターネックで、袖の部分には花の刺繍が施されている。チュールを重ねてボリュームを出したスカート部分は前後の長さが違い、前は膝の出る丈になっている。これはブリギッタが、妖精コレクションとして売り出そうとしている新作だった。
露出は抑えろと指示したのに、エレナの引き締まった美脚を晒す形になるのが智己には若干不満だったが、準備を終えて出て来た妻はまさに妖精そのものだった。
「ティターニアもかくありなん、といった具合かな。」
妻を妖精の女王になぞらえて、きれいだよ、と頬にキスをする。
「世界中から人が来るから。誰に会うか分からない。正装でいくに越したことはないよ。」
手慣れた様子でタキシードのタイを結び、チーフをたたむ。エレナのドレスと揃いのイエローのチーフはブリギッタが用意した。シェーンブルンの黄色と思っていたが、モーツァルトハウスの黄色に見えるな、とエレナは思った。
旧市街のミラベル庭園に隣接するこの格調高いヨーロピアンホテルは、この時期音楽祭に行く人の宿泊で一杯だった。ロビーは華やかに着飾った紳士淑女で溢れていたが、腕を組んで突っ切る若いカップルは人目を引いた。
音楽祭の主会場である祝祭劇場は、3つのホールから成り、『サウンドオブミュージック』に登場したフェルゼンライトシューレは岩壁を削って造られ、舞台の背後に岩肌が残る。
今日の演目は、モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」。
「また、モーツァルトですのね…。」
ザルツブルグに来ておいてその言いぐさはない、と自分でも分かってはいるが、エレナは自分が思う以上にトラウマになってしまったらしい。
「ナタリアも言っていたが、モーツァルトの思い出を書き換えて欲しくてね。僕も好きな音楽家だから、エレナが弾いてくれなくなったら困る。」
確かにザルツブルグに来る前は、もうしばらくモーツァルトはいいや、という気分になっていたのは事実である。
とはいえ、劇場周辺の華やかな雰囲気は独特で、高揚感があった。二人が入口に差し掛かったとき、ザザッと音がして7、8人のカメラマンに囲まれた。
何が起こったのやらと放心するエレナの耳に顔を寄せた智己は、
「笑って。」と囁き、繋いでいた手をエレナの腰に回して身体を引き寄せた。ザワッと歓声が起き、カメラのフラッシュが焚かれた。エレナはよく分からないまま笑顔を作った。しばらくそうすると、智己はエレナをエスコートして劇場入口へと向かった。
このときに撮られた写真は不破智己という人物を知る人達にとって衝撃であった。これまでカメラというものに対してにこやかな笑みなど向けたことはなく、ビジネス関係の記念写真に渋々納まることはあっても、口元に笑みがあったとしていつも冷徹な眼差しであった。それが返って女性人気に繋がっていたのだが、新妻を伴って音楽祭に現れた際に撮られた写真に写る彼は、柔らかな眼差しで妻の腰に手を回して愛おしくて堪らないという雰囲気が駄々洩れであった。ブロンド碧眼に抜群のスタイルの新妻は肩書がなくともモデルか女優なのだろうと勝手な推測がなされ、世の女性は嫉妬というよりは憧憬の対象となった。不破の家では、記事と写真を目にした智己の母紫乃が、
「あら。智己さんったら良い顔しちゃって。エレナちゃんも綺麗ねぇ。」
と言って、写真を取り寄せて額に入れていた。
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ザルツブルクから電車を乗り継いで2時間ほど。湖のほとりの美しい町、ハルシュタットにやってきた。山湖面に映る町の姿はまさに絵のような美しさである。
駅はハルシュタット湖の東岸にあり、町は対岸にあるため駅を降りるとすぐそばの船着き場から渡し船に乗る。湖を横断するわずか10分ほどの船旅であるが、世界遺産の美しい景観を正面から堪能できる。
溜息の出るほど美しい景色にエレナは感嘆しきりだった。湖岸の通りにはかわいい雑貨店や土産物屋が並んでいる。エレナは留加に、アンナに、クレアに、ナタリアに、と土産物を選び、智己に、「自分のものも買うんだよ?」と苦笑された。
ディナーにはハルシュタット湖産の淡水魚ライナンケの姿焼きを堪能し、翌日は晴天予報だったので、智己の希望で朝からクリッペンシュタインへ向かうことにした。氷河を抱えてそびえるダッハシュタイン山塊を望むことができる展望台である。ハルシュタットからバスに乗り、山の入口にたどり着いた。ロープーウェイで登るのだが、途中で乗り換えることになる。夏だというのに山上には雪が残っていて、出立前に智己と買いに行ったハイキングシューズが役立った。山上駅から40分かけて山道を下る。崖っぷちから手の平を広げたような形で5本の展望橋が伸びていて、白銀の峰々とハルシュタットの絶景が見られるのだが、橋がガラス張りになっていて、エレナは足元が見られず、面白がって笑う智己につかまりながら小鹿のように脚をガクガクさせながら進んだ。
中間駅から15分ほどのところに、大氷穴があって、道自体は整備されているのだが、結構な坂道になっていて、涼しい顔をしている智己とは反対に、エレナは息を切らしながら登るので、ことあるごとに休む?大丈夫?と気遣ってくれる。ふと開けたところから小さく見えるハルシュタット湖は絶景そのものであった。
氷穴はガイドツアーで回る形になっていて、氷の壁の中を進む。マイナスの世界で、手すりが凍って冷たく、荷造りを手伝ってくれたアンナが、手袋を持っていけと言った意味が分かった。ツルツルと滑りそうなところでは智己が手を繋いでくれる。
山登り初心者で息を切らし気味なエレナとは違い、上級者の智己にとっては登山とも言えない程度のハイキングであったが、エレナと自然と手を繋いだり、腕をとったりできるので智己はこの上なく満足な登山であった。
エレナが再び日本の地に降り立ったのは、残暑の厳しい日だった。蝉が鳴き、ねっとりとした空気が頬を撫でる。そう、この湿気を含んだ空気だった、とエレナは思い出す。坂上の高台の、古くは武家屋敷街だった静謐な地域のひと際大きな屋敷。車寄せで車を降りると、目の前には明治時代に建てられたという洋館が建っていた。米国人のお抱え建築家の手による西洋建築で、繊細なジャコビアン様式の装飾が施されている。
「素敵なお家ですのね。」エレナは感嘆して言った。
「古くて使いづらいんだけどね。改装して大分ましにはなってるけど。」
玄関ホールを入ったところで、使用人頭の内田が迎えてくれ、応接室に通される。
中では、智己の父昭孝と、母の紫乃が迎えてくれた。昭孝は、若い時分は相当な美男であったろうことを想像させる、迫力のある人物だった。今はすっかり恰幅よくなり和装姿で風雅人然としている。紫乃とはネット電話で話したが、実際に会ってみると思っていたより小柄で、上品で艶っぽい和服美人で、年齢を感じさせない美貌の持ち主であった。二人とも今日は大変柔和な笑顔を浮かべながらも内心緊張していた。何せ次男が電撃結婚して、新妻をつれてくるというのだ。しかも相手はまだ二十歳。威圧感を与えてしまってはいけないと心配していた。
次男が連れてきたのは金髪碧眼の美女。立場上外国に行くことも多く、華やかな場も慣れてはいるが、これほどの美貌の持ち主はなかなかいない、と夫婦は思った。
智己に紹介され、エレナは、丁寧に美しいお辞儀をして挨拶をした。初めて会った昭孝も、一度話したことのある紫乃も非常に親し気であった。
「お母様には何度かお会いしたことがありますよ。まぁ、もちろん華子さんや忠利氏も。澤野の内情は業界でも噂の種だし、智己からも聞いていますよ。だから気楽にしてくれるかな。」
「恐れ入ります。」
昭孝は威厳がありつつ穏やかで、智己によく似ていた。
この親の迫力にも物怖じせずに和やかに会話をしているだけで、やはり妻は只者ではない、と智己は思った。
「私たち、本当に嬉しいのよ。智己が素敵なお嬢さんを連れてきてくれて。」紫乃は美しい顔にニコニコと可愛らしい笑みを浮かべている。
「智己の結婚なんてずっとずっと先のことかと思っていたからね。」
「…すみません。いきなりこんな小娘でしかも外国人が嫁にくるなんてがっかりなさいましたよね。」済まない気持ちでエレナは言う。
昭孝と紫乃は慌てた。
「そんなつもりじゃないのよ…!」
「いえ、お二人のご心配はもっともです。わたくし、学校もハイスクールしか出ておりませんし…。
ただ、澤野の家での母の遣り様は見ておりました。母は一介のバレリーナでしたから、澤野家に入ると決まってからスイスのボーディングスクールに通ったり、日本の礼儀作法は教師に習っていました。わたくしはそれを見て育っておりまして、嗜み程度には習っております。それでも不破家の妻としては至らないことばかりだとは思います。どうぞ、ご指導くださいませ。」エレナは頭を垂れた。
「エレナはそのままでいいんだよ。」
「いいえ、足りないことばかりですわ。」と智己を見つめる。何より、智己のために。澤野の家から自分を助けてくれる人たちに報いるために、やり遂げたい。
うら若い娘が真摯に不破家の妻として相応しくなろうとしている。その必死さに昭孝と紫乃は心を打たれた。
「わかりました。日本にいる間にしっかり鍛えてあげるわ。花嫁修業ね!」紫乃は明るい声で言った。
「母さん。」咎めるような息子の声を無視する。
「じゃあ、明日はお買い物にいきましょ。不破の妻として相応しい服を選ばなきゃ。あ、うちのスタイリストを同行させましょうね。」
「…?」
なんだか、思っていたのとは違う気がするが、義母がいうのだから従おう、とエレナは思った。
昭孝と智己は紫乃が突っ走り始めた、とあきれている。
さらに紫乃の暴走は続いた。
「そうそう。あなたに着物を仕立てたいと思ってるのよ。」紫乃がうきうきと楽しそうに言った。
「パーティーとかも出なきゃいけないでしょ?結婚しちゃったから振袖は難しいけれど外国なら別に大丈夫よ。あと、成人式もあるしね。」
義母がにこにこ嬉しそうだが、エレナは、着物は似合わないと思っているので好きではない。
「採寸してもいいかしら。あちらに仕立て屋を呼んでいるのよ。」
有無を言わせない様子で、智己が止める間もなく、エレナは使用人達に連れていかれてしまった。
残された智己は母に苦言を呈する。
「…母さん、エレナは和装が好きではないんですよ。」
「あら、そうなの?」
「あの見た目ですからね。コスプレになるんだそうで。」
「それなら大丈夫よ。色柄を選べば問題ないわ。外国の方に着付けたことだって何度もありますもの。」
紫乃は自信満々に言った。確かに、外国からの客人をもてなす機会も多い夫人だから、それなりにはしてくれるか、と智己は思いなおした。
「まぁ、あの外見なら親戚連中もうるさいことは言わないだろ。特に幸江伯母だな。」昭孝が満足そうに言う。
幸江というのは昭孝の伯母、先代の姉である。幸江をはじめ、口うるさい女性連中が親戚に何人かいる。当の昔に他家に嫁いだのだから実家のことには口出ししないでほしいと不破家の人間は思っているが、孝己のときにそうであったように、智己にも自分の息のかかった嫁を宛がおうと躍起になっている。
孝己が葵を連れてきたときにも色々と難癖をつけた。
「葵さんをお披露目したときには、来月茶会をやるから連れてこい、でしたものね…。いくらもの覚えのいい葵さん一月で形にするのは大変でしたわ。」
「そうそう。彼女にはそんな無茶はいうまいよ。何なら日本語わかりませんという顔をしていたらいい。」
「その辺は心配いりませんよ。」
智己は、ティーカップに口をつけて言った。
「彼女は裏千家の茶名を持ってますからね。」
「え?」
「あと…華道は池坊、踊りは花柳。ともに師範の免状をもっているそうです。」
「…は?」
「暇だったそうですよ。」
昭孝と紫乃は顔を見合わせた。本当に花嫁修業は不要かもしれない。
エレナは全身採寸された上に反物をいくつも当てられてへとへとになって帰ってきた。
「お疲れさま。母の趣味に付き合わせて悪いね。」
「…だ、大丈夫ですわ。でもじっとしているのって疲れますのね。」
「これで色々誂えられるわ。楽しみだこと。」と紫乃は少女のような無垢な笑顔ではしゃいでいた。当主の昭孝はそんな妻を愛しくてたまらないというような表情で眺めている。
部屋の外がバタバタと騒がしい。足音と何か諫めるような声がする。
「こっち!こっちよ!!」
「ちょっと!美桜!そっちはダメよ!」
扉がガチャリと開いて重い扉の隙間から幼い少女が顔を出した。3歳くらいだろうか。髪を編み込みに結ってピンクの刺繍の入ったワンピースを着ており、片手にはドレスを着た人形を抱えている。
「あら、美桜ちゃん、どうしたの?」
紫乃が扉を開けてやって少女を中へ招き入れた。
「すみません…。お義母さま。離れにいたのですが、美桜が走って行ってしまって…」
後から追ってきた女性が済まなそうに言う。
「いいのよ。丁度紹介しようと思っていたところなの。皆でお茶にしましょう。」
紫乃はそう言って、内田に命じた。
紫乃は女性と少女をエレナに紹介した。
女性は、智己の兄孝己の妻で葵といい、少女の方は娘の美桜といった。
「よろしくね。エレナちゃん。」と笑いかけた葵は、髪をショートボブにして細身で長身の身体に白シャツに黒パンツが似合う恰好のいい女性だった。
女性ばかりの歌劇団にいてそうな、女子校なら間違いなくバレンタインにチョコを山盛りもらってそうな美人。
「美桜、ご挨拶は?」
葵に促されるが、美桜は母親の脚の後ろに回ってしまった。
「あのね・・・おひめさま、なの。」
「・・・・・・?」
一同が首をかしげているなかで、葵が美桜の意図を汲んだ。
「この子、プリンセスが大好きで。さっきエレナちゃんを見かけたみたいなの。お姫様がいた!って騒いで。」
成程、プラチナブロンドの淡い髪に青みがかった瞳で白磁のような肌。今日は義実家にご挨拶、ということで品よくまとめたネイビーのワンピースはドレスというにはいささか地味ではあるが、おとぎ話から出てきたプリンセスに見えなくはない。
エレナは美桜の傍に行って、膝を折り目線を合わせた。
「はじめまして。美桜ちゃん。わたくしはエレナ。よろしくね。」
薔薇色の唇で優しく名前を呼ばれ、美桜はますます恥ずかしがった。
智己もやってきて、
「美桜、僕のお嫁さんなんだよ。エレナがお姫様なら、僕は王子様になのかな?」ときくと、美桜は、ブンブンと首をふるので、一同は笑った。
確かに今日はダークスーツを身に纏っているので、王子というよりは騎士っぽかったか。
エレナは美桜に手を差し出し、
「一緒にお茶を頂きましょう?」というと、美桜はおずおずと手を差し伸べてきたので、手をつないで椅子へと誘い、並んで腰を掛けた。
不破家の料理人が腕によりをかけた渾身のアフターヌーンティー。
御曹司の奥様がロシア出身二十歳、と聞いたときに料理長の田辺はさて、何をお出しするかと悩んだ。若い女性に流行りのものを取り入れたらいいのか、いっそ和風にするのか、ロシア風を取り入れるのか…。
使用人頭の内田からアンナに聞いてもらったところ、奥様はフルーツがお好きだということだったので、南国果実を使った季節のアフターヌーンティーになった。スイーツはパイナップルとパッションフルーツのフール、マンゴータルト、オレンジのフルーツサンドに、スコーンはプレーンとパッションフルーツ、バナナといった具合だ。サーモン好きのエレナは、シュー皮にサーモンのマリネを挟んだものが気に入った。
自分はいち早くフルーツサンドを頬張った美桜が、ちょーだい、とねだるので、エレナはサーモンサンドを美桜の口にあーん、して入れてやる。うふふと嬉しそうに笑う美桜と一緒にエレナも笑っている。
美桜を挟んでエレナの反対にいた智己がその様子を羨ましそうに見ていた。
アフターヌーンティーが終わる頃、内田が紫乃に何事か報告する。わかったわ、といって紫乃はエレナに、
「あなたに会わせたい人がいるの。向こうの部屋で待っていてもらっているから、会ってあげてくれる?」と言った。
「はい。わかりました。」とエレナは答えた。
とはいえ紫乃が会わせたい人とは誰だろう。
家令の内田に案内されて、別室へと向かう。内田が扉を開けてくれて中に入ると、そこには懐かしい顔ぶれがあった。
三人の男女がソファに座っていた。年若い女性が、部屋に入ってきたエレナを見て飛び跳ねた。
「お嬢様!!」
そう叫んでエレナに抱きついてきた。
エレナは思ってもいなかった人達が出てきたので吃驚した。
「芽以!?」
「そうです!お嬢様。あぁよくご無事で。」
一緒にいた二人も立ち上がって、涙ぐんでいる。
「岸野も、克子さんも。」
芽以はまだエレナに抱きついている。
「どうしてこちらにいるの?澤野の家を出られたの?」
岸野一家は、澤野の家の離れで、ユリヤとエレナ、そして留加の世話をしてくれていた。
「お嬢様がおっしゃっていた通り、無事に日本を経たれた後、華子様にいとまを頂きました。エレナ様も留加様もいないあの家に何の用もございません。」
使用人頭の、といっても三人しかいないが、岸野がきっぱりという。
「前から申し上げてましたように、家族で店をやりたいと思っていたのです。」
克子は和洋中何でもござれの料理番であった。エレナもロシア料理は母から習ったが、それ以外は克子に教わった。
「店舗も見つけて準備をしていたのですが、田島さんからお嬢様がこちらに嫁がれたとうかがって。」
芽以がすがりつくようにしている。
「私、お嬢様にお仕えできるなら、ずっとお仕えしたいのです。」
克子が言葉をつなぐ。
「どんなところに嫁いでもやっていけるように炊事も家事もお教えしましたけど、不破に嫁がれるなら、お世話する人間も必要ではないかと思いまして。芽以を使用人の一人に加えてもらえないかと伺ったのです。」
世話役を決めるのは、家令の内田の仕事である。
「アンナさんも若くはありませんし、ご家族との時間もそろそろ必要です。ですが、今不破には、お若い奥様のお側で仕えられるのにふさわしい人が少ないのです。正直申し上げて智己様がこれほど早くご結婚なさるとは思っておりませんで…。誰かを急いで教育しなければ、と思っていたので、私共としても芽以さんが仕えてくれるとありがたいのです。」
「……本当に?また芽以が世話をしてくれるの?」
「はい!」芽以は嬉しそうに頷いた。
「もともと岸野さんとはスイスの学校の同級生だったんですよ。彼の娘さんなら信頼できると思いましてね。」
「ありがとう、内田くん。恩に着ます。」
岸野が名門のホテルスクールの出身とは聞いていたが、家令同士そんなつながりがあるとは思いもよらなかった。
「私たちは当初の予定通り、店を開きます。退職金つぎ込みましたからね。」
「じゃあそこへ行けばまた克子さんのサーモンパイが食べられるのね?」
「もちろんです。いつでもお作りいたしますよ。」
克子のサーモンパイは絶品である。エレナは習ったので作れないことはないが、やはり克子の作ったものが食べたい。
ぜひ智己にも食べてもらわないと、と思った。
*
*
*
*
その日の夜、不破邸の母屋の一階奥のサロンに設えたバーカウンターで、エレナと智己は義姉の葵にワインをご馳走になっていた。
エレナのためにと、とっておきという2005年サンテミリオンシャトー・シュヴァル・ブランを開けてくれる。エレガントで華やかで上品できめ細かく、確かにエレナに合った。
葵は、
智己の兄である孝己も帰ってきて、4人で飲む。怜悧な瞳にすっと通った鼻筋、薄い唇。二人は非常によく似ていた。父の昭孝と並べば、成程美形の血筋であるのがよくわかる。
「彼女が噂のお姫様か。」昼間娘の美桜がエレナに言ったことを聞いたらしい。
「エレナと申します。」
意志の強そうな瞳だ、と孝己は思った。自分を見ても、惚けたりしないのはいつも智己を見ているからなのか、随分肝が据わっている娘だ。若い智己よりさらに若いが、これは両親も気に入っただろう、と思った。
昼間の両親との対面のことを話すと、孝己は、
「それは単に母さんが連れ回したいだけだろう。」と言った。
「そうだよね。」智己も同意する。
「皐月があんまり付き合ってくれなかったから、娘とお出かけ、ってやつに飢えてるんだよ。」
「私もあまりお義母様とご一緒してなくて…」葵が済まなそうに言う。
葵は、自らワインショップを経営している。不破とは関係なく、自分で立ち上げた店である。世界各国から個性的なこだわりのワインを揃えており、各界からの評価も高い。実家は山梨のブドウ農家で、孝己と結婚する前は老舗百貨店でワインの買い付けの仕事をしていた。自分の夢である店と、不破家の嫁としての立場の両立に悩み、結婚を断ったことがあったが、孝己が熱心に口説いて結婚したのだった。
「だから、私、不破の家のことなんて何もしてないのよ…」
「そんなことはないが、別にエレナちゃんが気にかけるほどの嫁の仕事、みたいなものはないんだ。たまに客が来るからもてなす、とか。海外出張に付き添うとか、くらいかな。だから葵には買付ついでについてきてらったりはしてるけどね。葵も気にしなくていいんだよ。母さんには時々珍しいロゼでも差し入れとけばご機嫌だ。そのうち美桜が遊んでくれるだろ。」孝己はグラスに残ったワインを飲み干す。
「そういうことでしたら、わたくしにも何とかなりますわ。では、お義母様とお買い物、楽しんでくればいいのですね。」
「ありがとう、エレナちゃん、よろしくね。」と葵が言う。
「悪いね。」と孝己も言う。
妻のことが第一なのは、この兄も一緒だ。
エレナが、ふと孝己と葵の顔を見比べて言う。
「お二人の馴れ初めを聞きたいですわ。」やや酔っぱらって頬を赤く染めて無邪気に言うので、孝己と葵は思わずワインを吹きそうになった。
「え?」二人揃ってエレナの顔を見る。智己は興味なさげにウィスキーを飲んでいた。
「だって。わたくし達の話ばかりお聞きになって。お二人の話も聞きたいですわ。ねぇ?」と智己に同意を求める。
「…エレナ。悪いんだけど、僕は散々聞いたからもう飽きてるんだよね…」
「え?そうですの?ではわたくしにもお聞かせ願いたいですわ。」キラキラと瞳を輝かせている。
「えっと…。最初に出会ったのはコート・デュ・ローヌのシャトーで…。」
「まあ。」
「ワインをテイスティングしていたら声をかけられたの。」
「どストライクの美人がいたから声をかけずにいられなかったんだ。」
「…で、名刺を交換して。東京で会おう、って言われたけど名刺みたら不破とか書いてるじゃない?何かの間違いだと思ったわ。」
「東京に帰るって聞いたときに空港まで迎えに行ったんだ。」
智己によればそこからの執着ぶりはものすごかったらしい。忙しいはずの仕事の合間を縫ってせっせと会いに行き、その時間が惜しいからと葵のマンションに押しかけて同棲し始めた。一般の至って普通のマンションだったので、警護担当は大わらわだったそうだ。
「でも私そのとき結婚とか考えられなくてね。35過ぎて何言ってんだ、って感じでしょ?でもやっと自分の店が持てるってところだったし、孝己の家のこととか、仕事のこととか聞くと、これはとても自分には無理だって思ったの。で、孝己に別れましょうって言ってアルゼンチンに行ったの。」
「アルゼンチン!?」
「リオ・ネグロっていうワインの産地があって。一度買付に行ったときにそこでお世話になってたから、そこに住むのもいいかなって思ってね。」
「留守電でそれを聞いたときには目の前が真っ暗になったよ。葵は行先を言わないし。」
「だって。言ったら追いかけてくるでしょ。」
「当たり前じゃないか。そのときにはもう君なしの人生など考えられなかったんだから…」
「孝己…」
二人が見つめ合うのを、エレナは、まぁ…素敵…。とうっとりと眺めていた。
そんなやりとりは散々見せられて飽き飽きしている智己が言う。
「葵さんが居なくなって、兄さんは酷い放心状態でね。ほとんど廃人だったよ。全然仕事にならなくて。おかげで僕が予定より早く銀行を辞めてFUWAに入ることになったんだ。」
「だから、悪かったって。」
「何だって見つけるのに3か月もかかってるんですか。もうちょっと早くできたでしょ。」
「アルゼンチンって広いんだぞ?陸路を移動してるのをそんなに簡単に見つけられないぞ。」
「あの…もう…。ほんとごめんなさい。」葵がいたたまれなくなって謝罪を口にする。
「葵さんはいいんですよ。兄さんが不甲斐ない。」
「いや…そうはいったって…」
と、兄弟がやんや言っている間に、この話を振った当の本人は、ふわふわと良い気持ちで船を漕いでいた。こてん、と肩に寄りかかられてようやく智己が気づく。
「あぁ、寝ちゃったか。」
極上のヴィンテージワインのボトルがほとんど空になっている。あらら、と葵が片付けを始めた。
智己はエレナに上着をかけてやる。
「葵さんご馳走様です。兄さん、このまま部屋に運びますから。」
「智己、その子が愛しくて仕方ないんだろ。」孝己がニヤニヤしながら言う。
「そうですよ。彼女を失ったら、兄さんみたいに廃人になれる自信があります。」
「だろ?ようやく分かってくれたか。まぁそれを置いても、義妹というのは可愛いな。」
「そうですか?」
ああ、と孝己が答え、葵もうんうんと頷く。
「初めは近寄りがたい美人さんだと思ってたけど話したら良く笑うし、可愛いもの。美桜があんなにすぐに懐くなんて、初めてですよ。」
「大事にしろよ。」
「兄さんに言われるまでもありませんよ。」
「あの件はちゃんとやっておくからな。」
「ありがとうございます。」
「可愛い弟と義妹のためだからな。」孝己はウィスキーグラスを傾けながら言った。
智己がエレナを抱き上げると、ううん、と寝ぼけたエレナが智己の首に両手を回し、肩の辺りに顔をこすりつけた。智己はエレナを抱いて部屋へと戻った。
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