ウィーンはまた夏の季節を迎えていた。中庭に植えられたねむの木は、薄い紅色の花を枝先につけて桃のような甘い香りを放っている。
陽があまり高くならないうちにリクライニングチェアを出してのんびりするのが最近の楽しみだ。
ベルガモットの香りのハーブティーを入れてくれた芽以が、重たくなってきたお腹が苦しくないように、とチェアの角度を変えてくれた。
ここ数日、こうしてゆったりとしているとお腹がポコポコとするようになってきた。
スイスにいる留加は学校を1年飛び級して、来年には大学に入ることになっている。ウィーンに来ないかと聞いたが、本人はブレーメンの大学に行きたいそうだ。養父の義昭の勧めがあったらしい。最先端の宇宙工学が学べるとか何とか言っていたが、理系はさっぱりのエレナには留加が何を言っているのかよく分かっていない。
寮生活とはいえ、また1人暮らしをするが心配だと言ったら、
「姉さんさ、僕が何歳だと思ってるの?いい加減に弟離れしてくれる?」と怒られ、智己には笑われた。
詩子からは先だって随分と丁寧な手紙を受け取った。赤坂の不破邸を訪れ、ここウィーンにまで詫びにこようとしたそうだが、それは断ったのだ。
祖父が財産をほとんど処分してしまったことには驚いたそうだが、自分が困らない程度の財産を残してくれたことには感謝しているようだ。そして、エレナに対する暴言を詫びることばが記されてあった。今は新しい恋をしているのだと書かれており、智己に対しても同様の手紙が届いたそうだが、佐伯が語ったところによると、音楽教室の生徒の父親のことを好きになってストーカーまがいのことをしているらしい。他人の夫でないと好きになれないのだろうか。見た目は清楚な日本人形のようなだけに、その奥の業の深さが恐ろしい。
智己は午前中で仕事を終えて帰ってきた。東欧諸国の事業をいくつか抱えていて変わらず忙しくしていたが、欧州らしく妻の産後に長めの休暇を予定していた。
医者からはほどほどに歩くように言われているので、今日のような日には散歩に出ることにしている。
二人で手をつなぎ、市立公園まで歩く。
音楽家たちの銅像のあるエリアを抜けて、ウィーン川の護岸を歩く。向こうに、落書きのある小さな橋が見えた。
「懐かしいですわね。」
初めて出逢ったのがこの橋だった。
あのときは自由を得たことを実感した一方で、これからの身の振り方を心配していたのに。
まさか1年たって、あのとき会った人とこうして歩いているなんて。
「そうだね。」
智己が切れ長の瞳の目じりを下げて優しいまなざしで微笑む。
「だけど、川からの風は良くないんじゃないか?」
「そんなに心配なさらなくても。」
エレナのお腹に子供がいると分かってから、智己は終始この調子なので、エレナだけでなく、アンナも芽以も呆れている。
初期から悪阻の症状が出ていたエレナだが、食欲がない程度からどんどん悪阻が酷くなり、智己は右往左往した。
その時期を過ぎると、あれも食べろこれも食べろと言い、腰は痛くないか、動くなとあたふたした。
「来年はこの子も一緒に散歩ができますわ。」
エレナはお腹を愛おしげに撫でつつ言った。
「そうだな…。ここもいいけど、プラーターでメリーゴーランドに乗ろうか。」
「いいですわね。」
エレナは柔らかい微笑みで返す。
「来年なら…コンクールの結果も出ているのかな。」
エレナがピタッと動きを止める。
「そ…そうですわね…」
「考えてなかったでしょ。」
「そ…そんなことありませんわ。」
いや、考えないようにしてたのだ。考えはじめるとあまりにやることが多すぎて気が遠くなる。
エレナはケビンからコンクールに出るように言われている。
動画サイトで話題となってからは、テレビ出演をしてみたり、コンサートに呼ばれたりはしているが、有名音大に在籍しているわけでもなく、受賞歴もない。
ソリストとしてやっていくには箔付けも必要だよ、と言われているのだ。大きなコンクールにほぼ何の肩書ももたない人間が出るのは忍びないが、出るだけでも経験になるから、と言っている。
産後の体調にもよるが、この冬にはエントリーをする予定でいるのだ。
「僕はエレナの音楽を楽友協会の黄金のホールで聞くのが夢なんだけど。」
「う…がんばりますわ…」
それはかつてエレナ一人の夢であった。今は二人の夢である。そして、きっとお腹の子も喜んでくれる。
エレナがヴァイオリンの練習をしているときにはよく動いているのだから。
そう、家族のために、頑張るのだ。もう自分のためだけじゃない。
明るい夏の日差しを浴びながら、二人は公園を通って行く。
今日は初めて会ったあの日、雨に濡れて雨宿りを兼ねて行ったレストランのランチに行く。
「今日は何が食べられますかしら。」
「楽しみだね。」
と腕を絡めて歩く様子は、仲睦まじく。
公園には、エレナの好きなモクゲンジの木が黄色の花をたくさんつけていた。
その木を見上げながらエレナがいう。
「来年もここに来ましょう。」
「そうだね。来年も再来年も。この先ずっと。」
これからの人生を共に歩むと誓った結婚式の日。いつかは終わりが来るものだと思っていたが、今は心からそう誓える。
エレナは右手の薬指にはめた指輪を3回回す。
「あなたとずっと一緒にいられますように」
智己もまた、
「君とずっと一緒にいられますように」
と願って指輪を3回回した。
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