第七章 決戦

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決戦の日はこの日と決まっていた。ウィーンを立つときに、エレナは澤野の家に日本に帰ることと結婚したことを伝えた。田島からの報告によれば、澤野の家は騒ぎになっていたらしい。といっても義理の娘を愛人にしようというのは、華子と忠利、幸利の計画なので、大っぴらにはしていなかったのであるが、三人は平常を装っていても、内心穏やかでないことは明らかであった。幸利の妻の由奈は夫の計画を知ってか知らずか何の興味もなかったし、忠利の次女沙也は厄介者がいなくなる、と喜んでいた。

澤野の邸宅は千代田区番町にある古くからの屋敷である。長く続く築地塀の先に、厳めしい門構えがある。
智己とエレナを乗せた不破の車が門へと近づく。
覚悟はとっくに決めたつもりであるが、いざ、屋敷が近づくと動悸がしてくる。顔つきがこわばってくるのが自分でもわかる。それを見て、智己が、手を握り、肩を抱き寄せた。
「僕がついてるから。大丈夫だよ。」
そういわれて、エレナは頷いた。智己に大丈夫、と言われると安心する。そうだ、今日は独りであの人達に対峙しなくていいのだ。エレナは深呼吸を一つして、腹をくくった。智己にはエレナが鎧をまとったように見えた。

一人車を降りて、インターホンを鳴らす。
「はい。」若い使用人の声がした。
「エレナです。」
「…おかえりなさいませ、お嬢様。」と返事があって重い木の門扉が開いた。
樹齢数百年の松の木の脇を通り抜け、両側に手入れの行き届いた回遊式庭園を見ながら車は純和風日本家屋の母屋にたどり着いた。
玄関口まで本家の使用人頭の三島が迎えに出てきた。本家の、とくに華子の手足となって動いている人物で、忠利、幸利の囲っている女性の世話もしていた。当然華子の計画も知っているはずであった。
「長い休暇でございましたね。お戻りを心待ちにしておりました。」三島が慇懃に言う。
「戻るつもりはこれっぽっちもなくてよ。」エレナは冷ややかな笑みを浮かべて言った。
「不破智己様ですわ。わたくし結婚しましたの。」
「不破…?ってあの…?」三島は言葉に詰まっていた。エレナは不破の戸籍に入っていない。だが、澤野が調べれば結婚相手はわかるはずだった。三島のうろたえようからして、エレナの結婚相手が不破の御曹司であることは澤野の家には知られていないようであった。
エレナは放心状態の三島にこれ以上話さず、案内するようにとだけ伝えた。

 エレナと智己は本家の応接間に通された。書院造りで、欄間には澤野家の紋が彫られている。エレナはこの部屋に足を踏み入れるのは初めてで、緊張の糸が張りつめていた。智己は実家にここと負けず劣らずの日本家屋の別邸がある、というだけでなく、大企業の経営者宅に招かれる機会も少なくないので、その若さの割にはこの手の雰囲気には慣れており、堂々とした佇まいであった。
開け放たれた障子の向こうには日本庭園の中庭が広がる。池には蓮の花が咲き、赤い太鼓橋が架かっている。
庭に張り出した縁側の廊下から女中がやってくる。
「もうすぐ、旦那様と大奥様がお見えになります。」
しばらくして、薄杜松色の絽の訪問着に白髪をひっつめにした華子と、年齢の割にしっかりとした体躯に濃紺のスーツをまとった忠利がやってきた。
二人は入るや否や。螺鈿の装飾がなされた漆の座卓の向こうの下座に並んで正座する二人の佇まいに思わず息を吞む。
男性の方は恐ろしいまでに整った顔に怜悧な瞳。仕立ての良いネイビーのスーツに身を包み、一部の隙も無い完璧さ。どこかで見たような気もするが…。これほどまでの美形、一度見たら忘れるはずもないが…。
女性の方は__。亡き妻に生き写しだった。数か月前久しぶりに顔を見て、ユリヤの面影を宿した彼女に目を奪われた。野暮ったい髪に、服装だが、顔立ちはよくよく見てみれば、ユリヤに似てきた、と思った。だから手元においておいておこう、と考えた。ところが、今はどうだろう。淡い髪色も青みがかった瞳も、白い肌も、美しい鼻筋も、薔薇色の唇も、そっくりではないか。いや、ただ他を圧倒する雰囲気はユリヤ以上のものがある。これが、あの地味なことこの上なかった義理の娘なのか?
華子と忠利は、とくに忠利は呆気にとられていた。

 「久しいわね、エレナさん。」はじめに口を開いたのは華子だった。
「ご無沙汰しております。おばあ様」
「随分長い間あちこち遊びまわっていたようね。」息子か孫にあてがおうと思っていた女にまんまと逃げられたのが余程悔しいと見えて、アメリカに行くのを許可したことは忘れているらしい。
「ええ。羽を伸ばして参りましたわ。たたむつもりもないですけれど。」エレナは負けじと言い返す。華子は大人しいと思っていた義理の孫が言い返してきたことに面食らった。

「エレナ…。そちらが…?」ようやく忠利が口を開く。
「不破智己です。エレナさんと結婚させて頂きました。事後報告で申し訳ございません。」
結婚した、という事実よりも二人が引っかかったのはその名前だった。

「ふ、不破…?ってあの…?」
「一族で会社を経営しております。」
華子と忠利は顔を見合わせた。やはり、あの「FUWA」だ。
「ええと、不破昭孝氏とは…」
「昭孝は父です。私は次男でして。」
そうだ、この顔の系統。怜悧な美しさは不破の家系だ、と忠利は思い至った。
「なぜ、そんな方とうちのエレナが…。」
「仕事先のジュネーブで出会いまして。早い話が一目惚れっていうやつですね。すぐに結婚を申し込みまして。」
この辺りは口裏合わせが済んでいる。もっともほとんど事実だ。
「本来でしたらご挨拶をしてから入籍すべきとは思いますが、僕が待てなくて。」
「わたくしも待てませんでしたの。だって日本に帰ったら愛人生活が待ってるんですもの。」
華子が顔を引きつらせる。
「そんな、めったなことをお言いでないよ。」
「だって、そうでございましょう。お義父様か、お義兄様の世話になれとおっしゃったのは、おばあ様ですわ。世話になるのか、世話をするのか知りませんけど。」エレナは怒気を込めて言った。
華子は押し黙った。忠利は俯いたままである。妻の連れ子をわが物としようとしていたなどということが、不破に知られてしまった。これまで数多くの浮名を流し、恥も外聞もないと言われてきた忠利であるが、さすがに業界内で悪評が流布することが気にかかった。
「私としても惚れた女性が悲惨な目に遭うのは勘弁願いたいので。」智己は穏やかに言った。

「…わかりました。結婚を認めましょう。」
しばらくの沈黙の後に華子が言った。
認めるも何も、貴女に認めてもらう必要はないし、もう結婚したし、と喉まで出かかったが、エレナはこらえて、
「…ありがとうございます。」とだけ言った。もうこの家から出られるなら、それでいい、それ以上言うまいと思ったのだ。だが、そのあとに華子の言うことはエレナが考えていないことであった。
「ねぇ、智己さん。エレナは忠利の前妻の連れ子だけれど、家の子と同じように大切に育ててきたのよ。それはご理解いただけるわよね?」
どの口でいうのか、とも思ったが経済的に不自由なかったことは事実でもある。
「ええ。それは。」
華子が企み顔をする。
「うちの娘を嫁がせるわけですから、それなりの、ね。そちらも古いお宅ですし。それにこれも何かの縁です。おわかりいただけますよね?」
「大切に育てた娘」に自分が何をさせようとしていたのか、それを忘れたかのように、名家に嫁いだと分かって見返りを要求してくる華子にエレナは心底腹が立った。
「何を…!」と言いかけたが、智己が制した。
「それは、ごもっともです。」
もっともなはずはない。そんな要求は突っぱねていいはずだ。必要ない。何より智己に、不破の家に負担をかけるなんて。エレナには耐えられなかった。エレナは動揺を抑えられなかったが、智己は落ち着いていた。
「…ただ、SAWANOとは事業が競合する部分がないのも事実です。うちは家電事業はほとんど畳んでいましてね。部品事業をお譲りしましょうか?」
「お譲り頂くには及びませんわよ。私たちもそんな阿漕なことするつもりもないんですよ。でも両方にとって良いお話になるなら、それもいいんじゃないかってことですのよ?」華子が着物の袖先を口元に当てて、ほほほ、と言う。
「ねぇ、忠利さん?うちの金融部門を助けていただく、というのはどうかしら?あなた、困っていたでしょ?」
SAWANOの金融部門というのは、SAWANOクレジットのことで、もともと家電製品の月販部門だったが、中小企業を対象とした割賦販売やリース業、商工ローンを取り扱っていた。金融危機で多額の負債を抱え、その後利益も伸びず、負債額がなかなか減らないという完全にSAWANOのお荷物であった。
それをFUWAに押し付けようというのである。
「…それは中々大がかりなお話ですね。取締役会に諮る必要がありますので、時間がかかりますがよろしいですか?」
「それはもちろんですよ。良いお返事を期待していますわ。」
華子は満足気だった。お荷物の部門を引き取ってもらうのだ。忠利の交渉次第だが、数百億の金を引き出せる。忠利も会社の負債を減らせるならエレナを手放すのも致し方ない、と渋々ながら納得した様子であった。

エレナと智己は本邸を出た。華子が、応接室から見送る際に、「よかったわね。良い縁があって。」などと満面の笑顔で言っていたが、エレナの耳には入らなかった。わたくしのせいで不破家に迷惑をかけてしまう…自分が澤野の家から逃げることだけしか考えていなかった。なんて自分勝手だったのだろうか。自己嫌悪に陥っていた。廊下を歩き、玄関に向かう長い道のりも智己の顔を見ることができなかった。後で何と言えばいいのだろうか。
 本邸の玄関で二人に声をかける人物があった。忠利の長男幸利である。義理の妹であるエレナが地味ななりをしていてもそれなりの美人に育ったようなので、愛人にしてやってもいいかな、などと考えていた矢先に父親も狙っていると知り、親子間で静かな争いが繰り広げられている最中であった。有力政治家の令嬢である妻がおり、忠利のように簡単に離婚するわけにはいかなかったが、エレナを囲うくらい訳ないことだと思っていた。友人のところへ遊びに行ったはずが結婚したと聞いて驚きを隠せず、一目見て、何か言ってやろうと思ってわざわざ会社を休んだのだ。
 「やぁ、エレナちゃん、随分見違えたね。」幸利もエレナの見目の変化には驚嘆している。父の亡き前妻にそっくりではないか。
「どうも…」鬱陶しい奴が来た、とエレナは面倒臭そうに返事した。
幸利は父親に似て見目は悪くない優男である。ただ、年齢の割には頭髪が寂しく、本人もそれを気にしているのか、しきりにこめかみの辺りの毛髪を頭頂部へと撫でつける癖があった。
「三島に聞いたよ。そちらの不破の御曹司と結婚したって?」
「ええ…」
幸利は、智己の方を向いて言った。
「どうも、澤野幸利です。お父さんとお兄さんとは何度か。」
智己もビジネス儀礼上の挨拶をする。
「いやぁ、エレナちゃんも大したもんだ。」
髪を撫でつけながら幸利が言った。
「何がですの?」
「これほどまでの美男子を落とすなんて、さすがあのユリヤさんの娘だなぁって。」
「どういう意味です。」エレナが幸利を睨む。
「その美貌で男を惑わすんだろ?親父もユリヤさんにはすっかり骨抜きになっちまってたし。いやぁ俺もとんだ尻軽悪女にひっかかるところだったよ。危ない危ない。」
幸利は肩を竦めて言うだけ言って立ち去った。
エレナは走っていって蹴り飛ばしてやりたい気持ちになった。自分が馬鹿にされたことだけでなく、母が侮辱されたことが悔しかった。でも、智己に、不破家に澤野家の要求を受け入れさせようとするなんて、立派な悪女のやることではないか。自分が嫌でしょうがない。
智己はエレナの肩に手を置き、
「ろくでもない奴だな。気にすることはない、さ、行こう。」
と言って、車に乗せた。

 走り出した車の中で、エレナはずっと俯いて押し黙っていた。智己はエレナの手を握っていたが、肩に手をやって、エレナの頭を自分の肩に寄りかからせた。その優しさが辛くて、エレナの青灰色の瞳からは涙が零れ落ちた。
「…わたくし、とんだ悪女ですのね…。」
「あいつの言葉か?気にするな。ただの負け犬の遠吠えだ。」
「でも…SAWANOの不採算部門を引き取らせるなんて…」
「あぁ、それね。…いいんだよ。君を手に入れられるなら、金なんて惜しくない。」智己はきっぱりとした口調で言う。
「でも…」エレナは縋るように智己を見る。澤野の家を出てからまともに顔を見てなかった。智己はエレナが自分を見てくれたことが嬉しくて彼女を抱きしめた。
「…なんてね。向こうが何らかの見返りを求めてくるのはわかってた。持ち掛けてくるなら金融部門だろうということもね。それを見越して、兄貴を含めて役会にはかけてある。」
「そうでしたの…?」自分の知らない間に不破家の人達をすでに巻き込んでいたことにエレナは申し訳ない気持ちになった。
「むしろ金融部門なら引き取ってもいいんだ。いずれffでも立ち上げる必要があったからね。一から創るよりは買ってきた方が安く上がるし。向こうも引き取って欲しいからディスカウントには応じるだろう。」
金融部門は、FUWA本体にもある。だが、学生時代に智己がアメリカで実質的に立ち上げたffは、FUWAとは親子会社の関係にない、独立した会社である。ffは最新鋭スマートフォンでシェアを拡大しており、ハードウェアだけでなくソフト面、サービス面の充実が求められている。中でも金融サービスへの参入は検討すべき課題であった。
「SAWANOの内情は田島さんからも聞いているしね。まぁ交渉次第だけど、エレナは気にしなくていい。」
「…ほんとうに…?わたくし、あなたや不破のお家に迷惑をかけたくないんですの…。」
「ああ。大丈夫。迷惑なんかじゃない。渡りに船だ。FUWAとは直接には関係のないところでの取引だし。それにそもそも、君を守るためなら僕の財産くらい擲ったって惜しくないんだから。」
さらに心配ごとが出てきそうな唇を自らの口でふさぐ。智己が大丈夫というなら大丈夫なのだろう。と、いうよりも何も考えられない。ふぁ…とエレナが息を継いだ。
「ただ… 澤野の奴らをこのままにしておくつもりはないけどね。」そう呟いた智己の顔は恐ろしいほどに冷酷で、残忍だった。エレナをわが物としようとしていたこと、侮辱したこと、その罪は重い。決して許さない。実際に彼らに会ってその思いを智己は強くした。

2

『SAWANO 巨額粉飾の疑い』
その見出しが新聞の一面を飾ったのはそれから数日後のことだった。過去に債務超過状態の子会社などで約1000億の損失処理を検討しながら、実際には300億円しか処理せずに済ませていた、というものだった。この報道を受けてSAWANOの株価は急落した。当局からの監査が入ることとなり、SAWANOは管理銘柄になった。
数日後には、日本をはじめ、世界各国で、SAWANO製の家電に搭載されたバッテリーが発火して怪我人が出ているとの報道。さらに家電製品の不具合でリコールのニュースが駆け巡る。さらには自然災害で海外の工場が被災して大きな損害が出た。
実際のところ、SAWANOの家電事業はITバブル崩壊のあおりを受けて赤字すれすれの業績であったのであるが、あれよあれよ、という間に急激に経営状態は悪化し、忠利、幸利をはじめSAWANOの経営陣は対応に追われた。

「一体、どういうことなのか説明なさい。」静かだが怒気の籠った声が響く。
澤野家の離れにある茶室。華子が茶をたてている脇で、忠利と幸利が小さくなっている。SAWANOでは新しく取締役が就任したときには、この茶室に呼ばれて、澤野家の最年長者、現在では華子になる、に挨拶するのが習わしとなっている。
「いや…お母さん。なぜ当局が3年も前の決算に難癖をつけてくるのかさっぱりわからないんです。しかも子会社の。」
華子は忠利をキッと睨んだ。
「それだけじゃありませんよね。不祥事に不具合、しかも何ですかあの会見は!」
矛先は社長の幸利に向かった。製品の発火事故を受けてSAWANOは謝罪会見を開いたのだが、社長の幸利は「調査中です。」「回答を差し控えます。」を連発。
テレビ映りは悪くない優男ではあるのだが、しきりに頭髪を撫でつける仕草をして、それが、あまりに残念だとネット上で揶揄された。

もともと無理を通して幸利をその若さで社長の座に就けたのだが、幸利は所謂世間知らずのボンボン。経営についての知識も経験も浅かった。忠利は幸利に経営の才がないことは分かっていたが華子に逆らえるはずなく、不本意ながら社長に据えたのだ。もちろん取締役の中には反対意見も強かったが、澤野家には逆らえなかったのだ。お飾り社長の幸利を表に出して記者会見させるのはあまりにリスクの高い行為ではあったが、肩書があるのだから仕方ない。

「いや…おばあ様、あれは…その…部下がそれで通すのがいいって…。ろくに準備もしないし…」
SAWANOにおいて、失敗の責任は使用人の責任。主が負うものではない。
「…お前は本当に情けないね。折角社長にしてやったのに。まったく…。忠利、お前が社長に復帰しなさい。何としてでも立て直すのですよ。SAWANOを潰すようなことがあってはならないよ。」
幸利は澤野の後継者失格の烙印を押された。

 悔しい。なぜこんなことに。澤野の御曹司に生まれて、何不自由なく育ってきた。今まで何もかも手に入れてきたのに。学歴も、地位も、女も。いや、手に入らなかったものがある。あの女だ。あのブロンド女。以前は厚い前髪に俯いてばかりいたので、顔をしっかり見たことはなかったが、この間家に来た時に見せたあの目。人を見下した目だった。偉そうに。それなりの男と結婚したことで、自分まで偉くなったと思いあがっているに違いない。大体、あの若造よりも俺の方が優れているはずだ。なかなかの身体に育ってきたようだから愛人にでもしてやろうと思っていたのにコケにしやがって。
幸利は恨めしい気持ちで茶室を後にした。




 不破家の当主昭孝は、朝食後の食卓で新聞を読んでいた。
SAWANOの経営陣が取引先銀行に優先株を発行し、多額の資金を調達するとの記事。華子をはじめ、澤野家の持株比率は大幅に下がりSAWANOは実質上、澤野のものではなくなった。

次男が妻の育った家に挨拶に行ってから僅かな日数しか経っていない。あの日、智己は異様な凄味を放っており、ブチ切れていた。これは肉親だから分かるだけで、傍目には至って冷静だった。SAWANOの総花経営は周知だったが、短期間でここまで凋落するとは。ウィーンにいるときから智己が学生時代の知己を辿って銀行等とやり取りしていたのはこのためだったのかと、昭利は合点がいった。私怨も甚だしいところではあるが、ffでの懸案だった、金融部門もこれでかなり安く手に入るだろうし、良しとしよう。智己は一人の女のために数百億の金を動かすことを厭わなかった。あれの執着は甚だしい。もっとも兄の孝己も、昭利自身もそうであったから、もはや血と言ってもいいのかもしれない。自嘲気味にふっと笑ったのを紫乃は逃さなかった。

「あら、あなた、随分とご機嫌ですこと。」
「いやいや。智己がね。成程私の息子なんだな、と思ってね。」
「孝己のときも似たようなことをおっしゃってましたわよね。まぁ、智己は出来が良すぎましたから。ギフテッドなんて言われたときにはあの子の人生どうなるのかと思いましたけど。ちゃんと人を好きになってくれてよかったですわ。しかもあんなに可愛いお嬢さんをね。」
「エレナちゃんを随分気に入ってるね。連れ回したい気持ちは分かるが、智己に怒られないようにしてくれよ。」
「だって。あの子、一緒にいて楽しいんですもの。昨日は沢山お買い物したから今日はお芝居ね。」
年齢を感じさせない美貌と少女のような振る舞い。それでいて肝っ玉で。結婚して40年以上になるが、昭孝は今でも紫乃に恋をしているのであった。

3

智己は両親と相談して、日本に滞在できる期間中にエレナを親族に紹介してしまうことにしていた。
秋風が心地よい晴れた日。明治期には舞踏会も開かれていたというステンドグラスが美しい不破邸の大広間には、国内外から一族が集まっていた。想像していた以上に大がかりなものだったので、エレナは驚いたが、長男の孝己と葵の披露宴は、広い裏庭も開放された園遊会形式で、これの比ではなかったと聞いて、不破の威力を垣間見た。
大広間に集まった面々を前にして、昭孝が次男智己の結婚を報告する。
創業家に自分の息の掛かった嫁を送り込んで、本家との繋がりを作りたいと思っている輩は少なくなかったので、本来なら婚約者として披露して、結婚披露宴をして…と様々な段取りがあるのに、それらを全てすっ飛ばして入籍した、しかも外国人だと聞いて眉を顰める者や落胆する者が出たが、大広間に吹き抜けの左右からつながる階段を智己にエスコートされて降りてくる新妻の姿を見て招待客は息を吞んだ。
 アールデコ風の華やかなアンティーク着物に、黄金色の髪はしっとりとフィンガーウェーブにしていた。髪を撫でつけ、ダークトーンのフロックコートの智己と赤絨毯の階段を下りてくる様子は大正浪漫を具現化していた。階段下で揃って礼をして招待客に挨拶して回る美しく淑やかな二人の様子にうっとりと溜息をつく。
 もっとも、その直前、控室エレナは憂鬱な溜息をついていた。
「やっぱりドレスの方が良かったですわ…」
「その着物、似合ってるよ?」智己は妻の機嫌をとっている。同じ部屋にいる葵や孝己も大丈夫だ、綺麗だと褒めそやしている。
「お義母様のお見立てですもの。似合ってないとは思いませんのよ。でも、着物だと戦闘力が低くなりますの。」
そうか、彼女にとってこの場は戦いか。
「エレナ。そりゃあ洋装だと君の圧勝だから。和装にするくらいのハンデが必要だよ?和装でも戦えるってところを見せつけて。」
などと智己が言い聞かせ、
「それもそうですわね!」とエレナも機嫌を直したものだから、その場にいた者は「このバカップルめ」と思っていたが、いざ何枚も上手に猫を被って広間で淑やかに挨拶して回っているのを見ると、大したものだと思わざるを得なかった。
 
 新妻が金髪碧眼の美女というのに親戚一同は驚かされたが、綺麗な日本語を操り、控えめな振る舞い、そして上品で豪奢な着物をまとって内股でしゃなりと歩む様子に、これは只者ではないと悟った。それは昭孝や紫乃が危惧していた先代の姉、幸江も同様で、自身も踊りの覚えがあるだけにこれは名取以上の手練れであると踏んだ。
「あなた、澤野の前の奥様の連れ子ですって?奥様にはお目にかかったことがあるけれど、あなたは社交の場には出ていらしてないわね。」
幸江に他意はなかったが、戦闘モードのエレナには、「社交経験のない引きこもりに不破の嫁が務まるのか?」と聞こえたので、
「わたくし、母の連れ子の立場で、養子にもなっておりませんでしたから華やかな場は控えるようにと母から言われておりました。」と答えた。
「お母様も立場をわきまえていらしたわね。」
と、幸江には出しゃばらない様子で好ましいと思われた。
「茶席にお呼びしてもいいかしら?」と幸江が言ったので、
「無作法ですが。」と答えた。
幸江が茶席に呼ぶとは、嫁として認める、ということを意味したので大抵の者は、エレナを受け入れざるを得ない、と思っていた。

 ただ、中には若さゆえの経験不足と思い上がりから、エレナへの対抗心を隠さない者もいた。
御堂彩花は幸江の孫娘である。幼い頃から智己は憧れの王子様だった。あまり親戚の集まりには顔を出さない智己であったが、毎回欠かさず参加していれば、時々会うことができる。彩花にはそれが楽しみで仕方なかった。来春大学を卒業するのだが、年齢的にもつり合いがとれるからと智己との見合いを祖母や両親は画策していた。彩花自身ももしかして智己のお嫁さんになれるかも、と淡い期待を抱いていたのだ。
久しぶりに集まりがあると思ったら、まさか智己お兄様が結婚した、なんて。
 幸せそうに微笑む智己を見るのが辛い。おばあ様も両親も和やかに談笑している。私を智己お兄様に売り込むつもりではなかったのか。不破の嫁になってもいいようにと中学生の頃からお茶もお花もやったのに。学校の勉強だって頑張ったのに。彩花の心は遣り様のない失望と嫉妬が渦巻いていた。
 
「智己お兄様ぁ。結婚されるなんて彩花、吃驚しましたぁ。」猫撫で声で智己に話しかける。
エレナは臨戦態勢に入った。小柄で艶やかな黒髪。クリクリと大きな目は小動物のよう。古典柄の赤い振袖は如何にも若いお嬢さんらしい。
エレナは、「…こういう子にこそ、和服は似合いますのよね…。くっ…。若さを売りにしてきやがりますわねっ。」と内心歯ぎしりしていたのだが、実際には彩花の方が年上である。
 彩花が馴れ馴れしい様子で智己の腕に触れようとする動きを察知し、エレナは智己と彩花の間に身体を差し入れた。エレナは智己に密着する形になり、片手を智己の胸の辺りに置いた。不意に密着されて智己は自然とエレナの腰の辺りに手をやったので、互いに“わたしのもの”と主張する体勢になっている。智己の腕に伸ばそうとした彩花の手はひらりと翻ったエレナの着物の袖に触ることになった。
 「わたしのものに触らないで」と態度で示された彩花は羞恥と悔しさで一杯になった。それがすべて敵意となってエレナに向いた。彩花はエレナを見上げて睨みつけた。
「なによ…Domb blondが…」
本人は小さな声でエレナだけに聞こえるように言ったつもりだったが、智己とエレナの様子が注目を浴びていただけに、周りにいた者全てに聞こえていた。祖母の幸江にも、彩花の両親にも、である。場の空気が10℃くらい下がったような感じがした。
 智己はこいつをどう嬲り殺してやろうかなどと思ってそんな表情も隠さなかった。エレナは表面上冷静を装っていたが、戦闘モードに入っていたものだったから咄嗟に反撃態勢に入った。
「…ご令嬢のものとは思えない発言ですのね。…そうですわね。髪色を褒めていただいたととっておきますわ。あなたの名誉のために。」エレナは最後の言葉に力を込めた。
 彩花は、自分の放った敵意がどのように撃ち落されるのか、反撃をくらうのか想像がついていなかった。さらには振り上げた拳の納め方も知らない。
「…っ。あんたなんか…。その着物だってぜんっぜん合ってないんだからっ。」
「まぁ…。」エレナがずっと気にしてたことをついてくる。
「お義母さまが折角見立てて下さったのにそんな風におっしゃられるのは心苦しいですわ。でも確かに胸を潰したり、腰に補正をしたり、わたくしには苦しくて。貴女はよろしいですわね。着付けが簡単そうで。」彩花の胸の辺りを見下ろして、ぺちゃパイの寸胴ね、と暗に言ってやる。
 どうやら通じたようで、その上図星だったようだ。「…フンっ」と捨て台詞も吐けずに、逃げるように立ち去る。母親がエレナに「娘が、ごめんなさいっ」と謝って、後を追った。
「彼女…。そろろそ大学を卒業する頃ですか?」智己が彩花の父親と祖母に聞く。
「え、ええ…。」
「社会に出す前に躾直した方がいいようですね。」
智己は二人に言い放ち、エレナを連れてその場を離れた。
その後もエレナを決して側から離さず、ことあるごとに互いに見つめ合い身体に触れてスキンシップを絶やさない様子に、不破の次男は花嫁を溺愛しており、美貌の花嫁も夫にベタ惚れだという評価をして、招待客達は不破の屋敷を後にした。
 招待客を見送った後、エレナは沈んでいた。
「わたくしとしたことが…売られた喧嘩を買ってしまいましたわ…」
彩花との一件を反省していた。
「お母様は何を言われてもじっと耐えるのだ、と。黙っているのが美徳とおっしゃってましたわ…。」
「いいんじゃない?エレナが言い返さなかったら僕が張り倒してた。」
さすがにそれはまずいので、エレナの対応で良かったのか。
「私も色々言われたけど咄嗟に何も言えないことも多かったから、エレナちゃん凄いと思うの。」
葵も慰めてくれる。
 智己に数多くの見合い話が届いていたことは聞いていたが、彩花がそのうちの一人であったということをエレナは知った。
彼女のような女性を撃退するのが役目なのでしょうね、とエレナは実感したのであった。

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