1
エレナがウィーンに帰ると聞いて、一番残念がったのは紫乃だった。
「観劇に行ったり、お買い物ももっとしたかったわ。海外だって行ってもよかったのに…。」
義母には本当に良くしてもらったが、そのうち彼女の好きな着物で、着せ替え人形できる嫁が来る。きっとその方が楽しいだろう、とエレナは思っていた。
「お義母様。お世話になりました。」
礼儀正しくお辞儀をするエレナに紫乃は慌てた。
「何を言っているの。あなたはうちの娘ではないの。」
有難いことを言ってくださる。短い間でもこの人を母と呼べてよかった、とエレナは思った。
自分のこれからの行動はこの義母の親切を仇で返すことになるかもしれない。でも、それは不破家のためになる。そのうち、彼女の好きな着物で着せ替え人形ができる義娘ができるだろう。
出社する智己を見送ったのは昨日の朝。昨夜は泊まり込みだったようだ。紫乃と使用人たちに見送られ、不破邸を後にし空港へ向かう。そして、エレナは飛行機に乗った。ひとりで。
不破の家を出るときには芽以と一緒だったが、空港に向かう途中で、芽以は岸野の家に帰した。
芽以に話したのは昨夜のことである。
「どうしてお嬢様が出ていかねばならないのです?」
「元々そういう話だったのよ。契約、のようなものね。」
「でも…」
今にも泣きださんばかりである。
「智己様は難しい舵取りを迫られてる。宍戸が、必要なのだわ。」
そして、自分の存在は妨げでしかない。
「時が来たのよ。」
その時が来ただけだ。早かったのか、遅かったのか。だがもっと早く離れるべきだったのかもしれない。
「…お嬢様はどちらへ行かれるおつもりで?」
「一度見ておきたいところがあるの。その後は…分からないわ。」
「私もお連れ下さい」
縋る芽以を説得するのは骨が折れたし、心も痛んだ。
「どこかに落ち着いたら呼ぶわ。少し…一人にしてくれる?」
自分一人ならどこへでも行ける。説得の末に芽以は日本に残ってくれた。
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不破家の人々がそれを知ったのは、エレナがドバイでトランジットした後だった。
智己の書斎に掃除に入った使用人が、机の上に離婚届と指輪が置いてあるのを見つけたのだ。
届けの一方にはすでにエレナの署名が入っていた。
使用人は大慌てで使用人頭の内田を呼んだ。報告を受けた内田は、何を馬鹿げたことを、とほとんど信じていなかったが、書斎の机の上に置かれた二つのものを目にして、目の前に黒い闇が広がっていくように感じた。
昨日まで、いや今朝家を立たれるまで何も不自然な様子はなかった。確かにエレナ様はあまり元気がなかったかもしれないが、二人は仲睦まじく、ただ先にウィーン帰られる、というだけだったのではないのか。昨日も先に出られる智己様をいつものように笑顔で玄関まで見送っておられたではないか。
これを報告するべきか。内田は一瞬躊躇した。何かの間違いかもしれない。見なかったことにするか?
いや、どうせすぐに分かることだ。早く報告した方がいい。内田は腹をくくった。
智己は朝から会議中だったので、内田からの連絡は秘書の佐伯に繋がった。
佐伯は、来なければいい、いや二人の様子を見ていればもう来ないだろうと思っていた日が、こうも突然来てしまったことに唇を噛んだ。
ただ、どうするのかは智己次第だ。
会議の終わった智己に事実だけを伝える。
智己はすぐに不破邸に連絡をした。電話を受けた内田は、精一杯落ち着き払って自分が見たものだけを伝える。佐伯から聞いたものと寸分違わないただ、それらがそこにある、というだけの事実。
智己は取締役室の椅子に座り、机に肘をついて両手を組む。長い指先が苛立たし気に揺れていた。
「芽以さんに連絡しました。奥様はお一人で出立れていて、芽以さんは実家に帰されたそうです。」
「何か預かっていないのか。」
「スマートフォンを預かっているそうです。」
「それだけか。」
「はい。」
「家に呼びもどしておけ。帰ったら話を聞く。」
「かしこまりました。調査部を動かしますか?」
エレナの行方を捜すか、という意味だったが、彼女が自ら出て行ったのだから、追っても仕方ない、と智己は言った。
エレナにとっては澤野から無事に逃げることが目的の結婚だった。目的を果たしてもなお自分の傍にいて欲しいと、彼女が必要だと、ことばと心を尽くして説得してきたつもりだった。彼女も理解してくれていたと思っていたのに。なぜだ。なぜ離れようとするのか。
エレナのことばを思い出す。自由になりたかった、か。確かに日本での生活は不自由なことも多かったが、だが窮屈な社交の場には出席しないで済むようにしてきたし、守ってきたつもりだったのだが。ウィーンの方が自由でいられるだろうから、断腸の思いで先に帰したのに。なぜ自分の傍からも離れようとするのだ。
苦悩する智己を見て、佐伯は先日の一件を言い出すかどうか悩んでいた。エレナ様が出て行ってしまわれたということには自分にも責任があるやもしれない。
「智己様…あの…。」
「なんだ。」鋭い目で睨まれて息が止まりそうになる。だが、謝るなら今のうちだ。
「実は、先日奥様に智己様がパーティーなどにご自分をお連れにならない理由を訊かれまして。」
「それで?」
「ビジネスの場で奥様を連れると嫉妬心を煽ってしまうからだ、とご説明しました。奥様は、邪魔になるのはいけないわね、とおっしゃって…。ご自分が必要とされていないとお感じになってしまったかもしれません。」佐伯は項垂れて詫びた。
「必要とされていない、か。エレナは自分が役に立つのかどうか、ということを気にしていたな。」
「申し訳ございません…。」
「いや、自分で、必要ないから連れないのではないときちんと説明しておくべきだったんだ。」
そう、必要がなくなったらいつでも言ってくれ、とも言っていたな、と思い出す。彼女が自分の人生に必要なこと、傍にいてくれさえすればそれだけでいい、と伝えていたのだが。一緒にいたい、という気持ちがあるだけで、自分にとっては彼女が「必要」なのだが。エレナにとってはそれだけでは足りなかったのか。と、ここまで考えて、彼女の来し方を想った。
そうだ、澤野の家では結婚は互いの気持ちだの、両性の合意など、ましてや愛とかいうものでは済まない。そんなものは取るに足らない。家にとって、会社にとって、夫にとって役に立つ女でなければ意味がなかったのだ。
社交の場で必要とされていない、と知ったら、自らの美しさが徒となっていると知ったら、それは自分の存在意義を疑うかもしれない。いや、そのことだけではないだろう。何か引き金になることがあったのではないか?智己は何か忘れていることはなかったか、と記憶を遡った。そして、そうあの日だ、エレナの様子がおかしかったのだ。智己はもう一度内田に連絡し、調べさせることにした。
2
次男の妻が離婚届を置いて出て行ったということは不破家の人々に衝撃を与えた。
紫乃は姑として至らなかったと自分を責め、昭孝は紫乃を精一杯なぐさめていた。ただし、不破家の当主は既に調査部を動かし、嫁の行方を捜すように指示済みであった。
葵は自分が不破の嫁のプレッシャーから孝己の元から逃げたことを思い出し、エレナの気持ちが分かるような気がしていた。
特に葵に逃げられたことのある孝己は智己に同情的で、智己が家に帰って来るやいなや、
「葵を世界中捜索したときの伝手を貸すぞ。アルゼンチンの田舎から見つけ出したんだ。不破の調査部よりも優秀だぞ。」と言った。
智己は半分呆れながら言った。
「それには及びませんよ。兄さんの二の轍は踏まないと言ったでしょう。」
「どういう意味だ?」
智己はそれには答えず、
「それよりも確認したいことがあるんです。」と、佐伯に用意させておいたものを持ってこさせた。
不破家は家自体が広いこともさることながら、国内外から要人が訪れることもあるので、安全のために外からくる人間が立ち寄るところには監視カメラが設置されている。監視カメラは当然応接室にもつけられている。FUWAの技術の結晶であるから、高性能カメラの画像は鮮明で、音声もはっきりと捉えられている。
智己が持ってくるように言ったのは、詩子が不破家にやってきたときの映像だ。あの日、自分が家に帰るまで詩子に応対したのはエレナ一人だ。あの後エレナの様子がいつもと違っていた。その後エレナが倒れたので、話そうと思っていたのがそのままになっていたことを思い出したのだ。あのとき二人の間に何があったのか、確認する必要があると思ったのだ。
しかして、そこに映っていたのは、朔太郎を亡くしたばかりの詩子のことを精一杯気遣い、声をかけるエレナの姿と、醜悪な言葉で彼女を罵る詩子の姿。そして、おぞましい顔で言い放った言葉もはっきり残っていた。
「醜い女だな。」孝己が呟く。
「なんだ、こんな女に言い寄られていたのか。」
「朔太郎さんの前ではっきり断ってますよ。エレナ以外の女性に興味はない。ただ…。」
「気をもたせることをしたのか?」
「そんなわけないですよ。ですが、彼女は宍戸朔太郎の唯一の相続人ですからね。朔太郎氏が亡くなった今、宍戸の株の20%は彼女のものですから。宍戸との契約交渉で大株主の機嫌をあまり損ねたくはなかったので、蹴り出さなかっただけです。」
事実、その後に部屋に入ってきた智己は詩子とテーブルを挟んで座り、泣きじゃくる詩子に智己が告げたのは、今は朔太郎氏を弔ってください、ということ。そしてあなたのことを含め宍戸家のことや会社のことは朔太郎氏が弁護士や然るべき人に委ねているから心配しなくて良いということである。
「まぁ…冷たくはない…。むしろ肉親を亡くしたばかりの人間にもう少し優しくしてもいいと思うくらいだが…。…いずれにせよ彼女が仲を疑うほどのこととは思えない。」
「普通なら、そうでしょうね。ただ、ちょっと条件が悪い。彼女がFUWAの契約交渉相手の令嬢、ということだけですけど。」
「は?たかだか供給元の一つだぞ?」
「それでも離縁をして政略結婚をさせるのに十分なんですよ。澤野では、ね。」
孝己は訳が分からない、という顔をしていたが、智己には合点がいっていた。
「お母さん、彼女は不破の家が嫌で出て行ったのではないですよ。僕の詰めが甘かっただけです。」
涙を拭いながら息子たちのやり取りを部屋の隅で見守っていた母親に声をかける。
「澤野の家では妻というものの立場がおどろくほど軽んじられていましたからね。」
理解が甘かったのだ。ビジネスの場にエレナを連れ出さないことで、彼女は自分が役に立てていないと思った。そこへ仕事上の交渉相手の令嬢が出てきて、智己に想いを寄せている。澤野の家なら役に立たない嫁を去らせ役に立つ嫁をもらう。長くあの家に支配されていた彼女の思考はそう考えても仕方ない。つくづくあの家には反吐が出る。
智己のスマホが鳴った。電話に出た智己は二言三言話して電話を切った。
「さて、宍戸の件も片がつきそうです。後は兄さんにお任せしてもいいですか?」
「え?」
「僕は愛しい妻を迎えに行くので。」
「は?彼女の行先が分かるのか?」
「だから兄さんのようなことにはなりませんって言ってるんです。葵さんに逃げられて発狂寸前だった兄さんを見てますからね。大事な人はちゃんと繋ぎ止めておいてますよ。」
智己はスマホを操作し、何かを入力する。地図が表示され、赤い点が点滅している。
ふむ…。と呟く弟を孝己は信じられない、といった様子で見た。
「…お前…彼女に発信機を仕込んだのか?」
「…人聞きの悪い。彼女が大事にしているものを失くしたら可哀想だと思ったので入れておいてあげたんですよ。」
「あ!」紫乃が声を上げる。
「ヴァイオリンね!」
智己がふっと口角を上げる。
「ケースの方ですけどね。」
孝己があんぐりと口を開けている。その手があったのか…。ちらりと妻の方に目をやる。葵は、慌てて
「私、もう逃げないってば!」と首を振った。
隣の部屋には芽以が呼ばれていた。
智己が入ってくるやいなや土下座せんばかりに平身低頭して謝った。
「本当に…申し訳ございません…!」
だが、智己は華麗に無視をした。
「いい。お前が誰よりエレナに忠実なのは知っている。」
芽以は今や不破家に雇われている身ではある。だが、幼いときからずっと傍で仕えてきたのだ。エレナの命が至上なのは致し方ない。
「それより、エレナの荷造りと、お前の分の荷造りを直ぐにするんだ。」
「は、はい…?」
「迎えに行く。」
さも当然、というように命じられて、芽以は緊張の糸が緩んだ。この方ならきっとエレナ様を直ぐに見つけ出してくれる、と思ってはいたが、自分の主はそう簡単には見つからないかもしれない、とも思っていたのだ。それに、もしかしたらエレナ様のいう通り、智己様にとってエレナ様が必要なかったら…?そんな不安がよぎらないではなかったのだ。
早くしろ、と急かされたので芽以は慌てて準備にかかろうとした。だが、その前に、伝えておくべきことがあった。
「あの…これは私の、母の推測なのですが…」
芽以の言葉を聞いて、智己は怜悧な瞳に驚きの色を滲ませた。だが、そのまなざしは柔らかいものとなる。
「分かった。急げ。」と短く言った。
FUWAの調査部を率いる高瀬がエレナがとある国にビザを申請していたことを掴んだときには、智己は既に先月納入されたばかりのプライベートジェット、ガルフストリームG800に乗り込んでいた。
2
母なる国はエレナが思っていた以上に寒かった。雪は降っていないが、凍てつくような寒さで、手持ちの服の他にセーターや厚手の靴下を買い足す必要があった。あらかじめ準備していた滑り止めつきのトレッキングシューズと日本で買った機能性インナーは役立ちそうだった。
空港からバスに乗って、車窓から街の風景を見ているうちに、日本を出てきたときの沈んだ気分は薄らいできて、若干の高揚感すら覚えてきた。
母がバレリーナとしての夢を追った場所にいつかは行ってみたい、とは思っていた。母自身は、バレエ・アカデミーにいたのが5年ほどで、楽しかったが、厳しいことも多かったので、美しい思い出ばかりではないのよ、と笑っていた。芸術家の両親とともにアメリカに渡ったのが14歳の時。そこから同じようにアメリカに両親とともに渡ってきていた父と出会って、短い結婚生活を送る間暮らしたボストンの方が懐かしいわ、と言っていた。それでも両親を育んだこの国はエレナにとっていつかは行ってみたいと思っていた国である。
エレナにこの国の記憶は残されていない。母はこの国のことをあまり多くは語らなかった。祖父母とともに国を捨て、アメリカを新天地として旅立った。エレナはアメリカ人として生まれたが、幼い頃に日本にやってきたので、アメリカにいた頃の記憶もあまりない。彼女にとって、ここはまだ見ぬ祖国なのであった。
初めからいつかはこの日が来ると思っていた。何度もそうならなければいい、と思い、そんなことにはならない、とも言われても、そうしなければならなくなったときにどうするか、ということは考えたくなくても考えてしまっていた。澤野で妻だの愛人だのにされる心配が無くなってからは、いつまで自分が妻である必要があるのか、妻でいられるのか、とそればかり考えていた気がする。だから、日本でFUWAの取引先の令嬢として詩子と再会したときから、自分の身の処し方をいよいよ考えないといけないと思っていたのだ。ただ、智己の傍にいるとその決意は何度も揺らいだ。でも、もう潮時だったのだ。彼を欺いたことは申し訳ないと思う。でも今まで言葉を尽くしてきたのだ。必要なくなれば身を引きます、と。理解してもらえるだけの言葉を置いてきたつもりだ。
昨日は時差ボケなのか、ずっと想い悩んでいたからなのか、ホテルに入るやいなやすぐに眠ってしまった。結局昼前まで眠っていたらしい。
お腹が減りすぎているのか吐き気がするので、レストランに行って軽く食事をする。故郷の料理は母か自分が作るもの以外では初めてだ。
不味くはないが自分でつくる方が美味しい。ママは料理上手だったのね、と妙に納得する。やはり食欲は湧いてこないので、散歩に出ることにした。
赤の広場には極寒の時期にも関わらず観光客が多くいた。色とりどりのタマネギを載せたような外観の聖ワシリイ大聖堂を見ると、自分がロシアに来たことを実感する。スケートリンクでスケートを楽しむ人もいる。クレムリンを歩くと、母が目指していたボリショイ劇場が見えた。その名の通り荘厳で大きな劇場。ロシアと言えば、バレエと言えば、の「白鳥の湖」の初演が行われたのがここである。
オペラもバレエも好きなエレナのことである。いつもならチケットがあるかしら…と調べようとしたであろうが、今日は全くそんな気がしなかった。入手は困難なので、聞いたところで無かった可能性の方が高いのだが、そもそもチケットカウンターを探そうとさえしなかった。
再び赤の広場を通ってリカ・モスクワの川を渡る。中洲を通りぬけると、車道はあるものの、やや小さな橋に出た。低くなった陽の光が川面に赤く反射している。橋の欄干にもたれかかって、沈みかけた美しい夕陽を眺めていた。
美しい夕陽は今の彼女が独りで見るには、あまりにも感傷を呼び起こしすぎたかもしれない。
別れなければならない、と分かったときにこの国に来ることだけは決めていた。ただ、この先自分がどうすればいいのか、どうしたいのか、全く見えないのである。澤野の家を出てきたときには、自由を手に入れるための決意があった。何としてでも生きていける、そう思っていた。この国で音楽に打ち込むのもいいかもしれないと思っていた。
なのに、今の自分はどうだろう。また同じように一人になっただけなのに。自由になったはずではなかったのだろうか。なぜ、こんなにも孤独なのか。寂しくて、寂しくて、身体が震えるのは寒さだけのせいではない。
アメリカに生まれて、幼い頃に日本にやってきた。息を潜めるようにして過ごした日々。いつか自分が自由に生きられる土地が世界のどこかにある、と思っていた。ヨーロッパならどこでも良いと思ってやってきたウィーンでの暮らしは、刺激的で幸せで心休まるものだった。だが、もうあそこには戻れない。
老人が橋の向こうからふらふらと歩いてきて、彼女に向かって暴言を吐いた。随分な量の酒を飲んでいるらしい。言葉がわかるのが却って腹立たしい。
橋の向こうに見える夕陽は美しい。だがそれだけなのだ。自分の根元であるはずのこの国で自分はよそ者で、皆がもっているはずの故郷と言える国が、この地球上のどこにも存在しないということを実感させられた。
他人のぬくもりを、いや、智己のぬくもりを知ってしまった。愛し、愛されるとはこんなに幸せなものか、と知ってしまった。それを知ってしまったら、どんなに美しい風景を見ても只々孤独感が募るばかりである。自分が自分らしくいられる場所。自由でいられるところが、どこであったのかを思い知らされてしまった。二度と触れることのできない温もりを思い出し、ますます寒さが増す。故郷のない自分にとって、心の、魂の安らぎを得られるのはその場所だったのだ。自ら手放してしまったものがどれ程他に代え難いものだったのか、今更実感する。寂しさと悔しさとやるせなさに耐えがたくエレナの青灰色の瞳から一筋の涙が頬を伝った。
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どれほど時間が経ったろうか。陽が落ちて、リカ・モスカウの両側の建物には灯が灯り始め、灯りが川面に反射するようになっていた。
宿に帰らないと寒くなる、とすっかり濡れてしまったダウンコートの袖を拭おうとしたときだった。
「魚はいた?」
懐かしい声がした。いや、2日ほど前に聞いた声なのだが。
「暗くて見えないか。でも鴨がたくさんいるから魚もたくさんいるだろうね。」
ダークグレーのロングコートに、ニットのキャップから覗く黒髪。美しく整った目鼻立ち。黒い双眸。優しい微笑みをたたえて、愛する夫がそこにいた。
「どうして…?」
「ホテルで待つつもりだったんだけど、じっとして居られなくて探しにきたんだ。見つけられてよかった。」
「そ…そうではなくて…」
「迎えに来た。」
そう言って両手を広げた。
エレナは何が何だかよくわからなくて、でもひたすらに嬉しくて、涙がとめどなく溢れだした。そして広げられた腕の中に、飛び込んだ。
3
智己は妻を両腕でしっかりと抱きしめると彼女のプラチナブロンドの髪に鼻をうずめ、透明感のある花の香りを胸いっぱいに嗅いだ。ルナのオードトワレの香りはエレナそのもの。彼の月の女神だ。
「どうしてここがわかりましたの?」涙で瞳が潤んでまともに顔を見られない。
「勘でなんとなく。こっちの方かな、と思って歩いて来たんだ。君は川の傍にいる気がしてね。」ヴァイオリンケースにGPSを埋め込んでいたことは言わなかったが、ヴァイオリンはホテルに置いてある。ここを見つけたのは偶然であった。
「ウィーンで君を見つけたときもそうだった。これが運命ってやつかもね。」智己は悪戯っぽく言った。
「…わたくし、あなたの側にいてよろしいのかしら…?」
「ずっとそう言っているのに。そろそろ信じてもらえたと思ってたのにな。」
「でも…」
「確かに宍戸との話をちゃんとしてなかったのは僕が悪かったよ。澤野の家じゃ妻を追い出すのに十分な理由になるってことに気づかなかった。
あの女が家に来た時に君に何を言ったかも聞いたよ。厚かましい女だ。僕は君だけのものなのに。」
その言葉にエレナは胸がいっぱいになって、智己の身体に回した腕と手に力をぎゅっと込めた。
智己が手袋を外して、コートのポケットから、リングを取り出す。エレナが智己の書斎に置いてきた結婚指輪だ。
エレナの右手の手袋を外し、指輪をはめる。
「君のものだ。もう絶対に外してはいけないよ。」
エレナは涙で顔をくしゃくしゃにして、頷いた。
「指輪を3回回すと願いが叶うって、言ってただろ。」
ウィーンのジュエリーショップのマダムが言っていた、ドイツの古い言い伝えだ。
「さっき指輪を回して願ったんだ。君を見つけられますようにってね。」
指輪はきちんとエレナの元へ導いてくれた。
「さぁ、陽が落ちた。ますます冷えるからホテルに戻ろう。」
エレナは涙を拭ってこくりと頷き、差し出された腕を取った。それができること、自分がそれを許されることが只々嬉しかった。
*
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*
エレナがとっていたシングルの部屋は最上階のスイートに変わっていて、荷物もうつされていた。
荷物の整理していた芽以が、エレナの姿を見て、駆け寄ってくる。
「エレナさまぁぁ!よくご無事で…!」
ずっと傍にいてくれた芽以。姉のようで、でも時々妹のようで。
「ごめんなさいね。芽以。わたくし…」
「いいんです!こっそりついて行けばよかったって何度も後悔しましたけど…きっと智己様が見つけて下さると信じてましたから…!」
「心配させたのね…」
「エレナさま…あの…」といって芽以は智己の顔を伺う。智己が小さく首を振った。
「芽以、家に連絡してくれるかな?」
「あ…はい!そうですね!」芽以は失礼します、と言って別室に行った。
「さて、これはもういらないね。」
といって智己はエレナをソファに座らせて、エレナが智己の書斎の机に置いてきた緑色の用紙を見せ、部屋の暖炉にくべた。
そして、隣に腰かけた。
「宍戸のことだけど、」
その名を聞いてエレナは身を固くする。
「FUWAの傘下に入ることになった。」
「え?」
「朔太郎氏が持っていた株をうちが引き取ることになってね。半導体関係の契約とは別に、朔太郎氏が亡くなったときには、うちが株式を引き取る契約をしてたんだ。」
「…朔太郎さんが、自分の大事なものを譲るんだって…」
「会社のことでしょ。FUWAになら譲ってもいいって言われたから。」
「…わたくし、てっきり詩子さんのことかと思って…」
「ある意味それもあるかもしれないけどね。朔太郎氏が亡くなったら、相続人は彼女一人だ。莫大な相続税を払わないといけないからね。会社の株だけでなく、不動産とか、色々あるから管理だけでもかなりの手間と労力が必要だ。彼女にそれをさせるのは酷というか、無理だと判断したようだ。宍戸の株は死因贈与で手放すから、相続税はかからない。他の財産を売却して相続税を支払っても預貯金と彼女のマンションくらいは残せる。」
「でもお一人で築き上げた財産を手放すなんて…」
「そこが朔太郎氏の凄いところだよね。財産を孫娘に残さないほうが、彼女のためだと思ったみたい。財産があっても活かせる能力がなければ何の意味もないって。それでも余程派手なことをしなければ一生食うに困らないくらいの財産は残るだろうし、何か自分でやるにしても元手には十分だ。ただ、彼女が納得したかどうかはわからないんだよね。本人も説明したって言ってたし、あのとき僕も説明したんだけど。彼女が君に言ったことを知らなかったからさ。」
「詩子さんになんておっしゃいましたの?」
「朔太郎さんからくれぐれもと頼まれてるから心配しないでください、お祖父さんはあなたが困らないようにきちんと手を打たれてますから、弁護士の言う通りにすればいい、ってね。彼女、納得して帰ったけど。ここに何か誤解させるようなことはないはずなんだけどね…。」
「…わたくしが言うのも何ですが。彼女思い込みが激しい部分がおありですわ。あと、朔太郎さんも誤解を招きかねない発言をなさる癖が。」
「うーん…」智己がうんざり、という顔をする。
「もういいや…。弁護士がちゃんと説明するだろ。相続手続きが進めばお祖父さんが困らないようにしてくれたってことにも気づくだろうし。」
「だといいのですけれど。」
「僕はもう早く君とウィーンに帰りたい。」
智己はそう言ってエレナを抱きしめた。
「わたくしもですわ。」
「君と…」と言いかけて智己は、身体を離した。
「そうだ…。体調は?」
あの日倒れて以来、あまり食事を摂れていなかったことを心配してくれているのだろう、とエレナは思った。
「あまり…食欲は戻ってませんの。何だか胸やけがして。」
「そうか…」と言って智己はエレナの手を握る。
「あのさ…」俯いて言いにくそうにしている様子だ。
「エレナ…」
「…?」
「…妊娠してない?」
「ふへっ?」今まで出したことのない声が出た。
へ…?妊娠?
いや、待って。確かに来るはずのものは遅れているかも…。いや、でもそれは体調が悪かったから…。
頭の中が混乱している。
「芽以に言われてさ。エレナに実家に帰されたときに克子さんが言ったらしいよ。前に店に来たときに気づいたみたい。それに、エレナが食欲ないのはよっぽどのことがあるって、ね。」
エレナの体調のことを自分よりも知っている。克子はやっぱり、「お母さん」なのだ。
「まぁ…心当たりは…ある。というか結婚してるし…ねぇ?」
吃驚して声を失い、瞬きも忘れていたエレナの瞳から涙が零れ落ちる。
「え…?あれ…」智己が焦る。
「嬉しくない?僕はとっても嬉しいんだけど…」
エレナはぶんぶんと首を激しく振る。
「うれしいのです…でも…ほんとうに…」
「あぁ、そうだよね。早とちりかもしれない。いけない。ちゃんと調べよう。ね?」
エレナは頷いて、智己の瞳を見つめて言った。
「わたくし、智己さまの子供が欲しいですわ。」
自分の腕の中に取り戻した妻は美しく、愛らしかった。
「僕もだよ。」
全身が幸福に満ちる。
智己はエレナの背に手を回した。
智己の瞳の中にはエレナだけが映る。エレナの瞳の中にも智己だけが。
「愛してる」
「わたくしも…愛してます」
二人は抱き合い、どちらともなく口づけた。
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