出会いはワルツにのせて
ウィーンの夏は、湿気も少なく乾燥していて、過ごしやすい。もっとも日中は30度を超える日も多く、日差しは強い。だが、例年より早めの梅雨に入った東京から来た身には、抜けるような青空にカラッとした空気は心地よく、湿度の高い、むせかえるような空気との違いから、2週間ほど時が戻ったような体感がする。
かつて栄華を極めたハプスブルク帝国の都であったこの街は、歴史的遺産が数多く残し、美術館、博物館、歌劇場の揃った、芸術と文化と伝統の街である。一方で近代的な建築物も立ち並び文化的な彩りを見せている。
智己は半年前にこの美しい都にやってきた。
彼の曽祖父が明治期に興した通信事業を祖父、父が拡大してきた不破コーポレーション(FUWA)は、様々な分野の企業群を抱える多国籍コングロマリットである。全世界規模で機械、金属、エネルギー、金融、航空宇宙、交通、ヘルスケアといった多様な事業を世界的に展開しており、関連企業は数百社に及ぶ。日本ではもちろん、世界でも名の通った大企業である。彼はその創業家の次男として生を受けた。
幼少期からいわゆるギフテッドとして非凡なる才能を現し、10歳の時点で英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、アラビア語、中国語をネイティブレベルで操った。
両親は、彼自身と彼の才能のためにと、12歳のときに10歳上の兄のいたアメリカへと渡らせることにした。渡米後は、いくつかの学年を飛び級し15歳でGDE(大学入学資格)を、18歳でGRE(大学院入学資格)を取得。20歳でプリンストン大学を卒業し、1年間INSEADで学んだ。
非凡な才を見せたのは、学業だけにとどまらない。学生時代にデジタル事業を起こしており、今も取締役として名を連ねる“ff”は今や世界屈指のスマートフォンメーカーとなっている。
卒業後は投資銀行とコンサルティングファームで働き、2年前にFUWAに入った。日本で子会社の役員を務め、今は不破ヨーロッパの役員となっている。天才の名をほしいままにした御曹司とはいえ、年若いこともあっての総帥を務める父親の配慮である。
智己は不破ヨーロッパのオーストリア支社の設立を任され、ここにいる。市場として成長しつつある東欧を見据えた足掛かりとしてのプロジェクトであった。
街路樹や広場のセイヨウニワトコの白い花は所々でまだ甘い香りを放っており、モクゲンジの木には黄色い花が咲き誇っている。オペラやコンサートのシーズンは終盤に差し掛かっているが、最後まで週末にはドナウ川の中州にあたるドナウ島でヨーロッパ最大の野外フェス、ドナウインゼルフェストが開催されることもあり、観光客は多かった。
彼女と初めて出逢った・・・というより、見かけたのは旧市街中心部のメインストリートの一つ、グラーベン(Graben)。
旧市街の中心、ウィーンを象徴する建築物であるシュテファン寺院の西側の通りは、歩行者天国になっており、道幅の広い通りには、インターナショナルブランドのショップやオープンカフェなどが軒を連ねている。通りの中央には皇帝レオポルト1世がペスト大流行の終結を神に感謝して建設した、黄金に輝くペスト記念柱がそびえ立つ。
ウィーンのメインストリートであるケルントナーシュトラーセやグラーベンの街角では大道芸人などの路上パフォーマンスを行っている人を見かける。ジャグリングや、仮装をしてパフォーマンスをしている人、さすがは音楽の都というべきか音楽演奏をしている人も多い。観光客の多いこの時期に旧市街でパフォーマンスをするのは腕自慢が多いようで、所々で観光客やショッピング客が足をとめてパフォーマンスを見物していた。
ニューヨークと東京の本社への出張を終えてウィーンに帰ってきたのが昨日。今日の午前中だけ仕事をこなした後は4連休に入ることになっている。秘書の佐伯に残った仕事を押し付け、送りの車を断ってオフィスからの帰りは歩くことにした。
休暇は何をしようか。定期公演が終わる前にオペラかコンサートでも観ようか、ハイキングシーズンには若干早いが、インスブルックの方に行ってみようか…などと、独身貴族の気ままな休暇の想像をしながらグラーベン通りをそぞろ歩いていた智己の耳に、際立って優美なヴァイオリンの音色が聞こえてきた。有名なワルツの調べの元を辿ると、ひと際人だかりができているところからであった。
人だかりの中心にいたのは、2人のヴァイオリン弾きだった。1人はコロンと太った老人で愛嬌のある顔をしていた。ハンチング帽子を被り、チェックのシャツのボタンは腹の辺りが今にも弾けそうだった。彼のことは時々見かけていた。元々どこかのオーケストラに属していたのだろう。退職したあとは気ままに音楽を楽しんでいるようでよくこの場所で老練な音色を響かせ、道行く人を楽しませてくれている。
もう一人の女性は……見覚えがなかった。いや、一度見かけたら決して忘れることはできないだろう。智己の目はその女性に磁石のように惹き付けられていた。息をすることを忘れていた。人垣の後ろの方からもはっきりと分かる、美しく端正な顔。長くて濃いまつ毛に縁どられた青みがかったグレーの目は途轍もなく艶っぽい。弓の動きとともに黒と白の小花柄のフレアワンピースの裾を揺らしていた。薄手のワンピースだから誰の目にもはっきりと分かる、豊かな胸に両手で持てるような薄くくびれた腹、小さな尻の稜線が長く引き締まった優美な脚の曲線に続いていくスタイルの完璧さ。
背中の中ほどまである艶やかで豊かなこげ茶の髪を揺らし、熱心に、でもこの上なく楽しそうにチャイコフスキーの「花のワルツ」を奏でていた。かなりのテクニックに胸のすくような美音、小粋な節回し。気品と情熱。
名作曲家の代名詞。バレエ音楽の華で何度も耳にしたことのある名曲。2人のヴァイオリンの紡ぐ音が聴くものに我を忘れさせ、愉悦を与える。彼女が圧倒的な技術で老人に合わせつつ引っ張っていく。観衆がいることで次第に高ぶってきたのだろうか。テンポに合わせてバレエのステップまで踏んできた。クルっと回って見せて観客がワッと歓喜の声をあげる。
ふと思いかけず、夢見るような眼差しで弓を動かしていた彼女の視線と、見物客の輪の先にいた智己の視線とが一直線に繋がった。ブルーグレーの瞳に見つめられてその瞳から逃れられない。吸い込まれそうになる。心臓を鷲掴みにされたような感覚。時間にして一秒もなかっただろう。でもその刹那、智己は完全に異次元の世界に連れてこられた様な気がした。恍惚と忘我。それは彼が生まれて初めて味わう感覚だった。
曲が終わると観衆の大きな拍手に包まれた。2人のヴァイオリン弾きは手を取って観客に挨拶をし、お辞儀をした。
ここが楽友協会の黄金のまばゆい装飾のステージかと思わせられるほどの優美な振る舞いだった。祖父と孫のような親愛さをもって抱き合い、観衆に手を振った。誰かが何ごとか声をかけ、はっきりとはわからなかったが、「コンサートを楽しみにしている」と言ったようだった。彼女はそれによく透き通った声で「Danke shön!」と答えていた。
アンコールを求める声には老人だけを残して彼女は立ち去ろうとした。智己は追いかけようとして、観衆をかき分けて彼女の元へ行こうとしたがそこにはもう彼女の姿はなく、とっさに反対方向に目をやれば、シュテファン寺院の方にメタリックブルーのヴァイオリンケースが人混みの中に消えていくところであった。
音楽祭に来たロシアのヴァイオリニストらしい、と誰かが言っているのが聞こえた。
ウィーン旧市街の東端に市民の憩いの場、市立公園Stadtparkがある。公園内にはヨハン・シュトラウス2世の金色の像があり、観光客が立ち止まって写真を撮っている。シューベルト、ブルックナー、レハールの像もあり、まさに音楽の都の公園らしい。広大な園内には緑の木々があふれ、美しいイギリス風庭園が広がっていた。園内にはウィーン川が流れている。
エレナは、泊まっているホテルに帰るつもりだったが、公園内をぐるぐる歩きまわっていた。
反省と自己嫌悪が心の中を渦巻く。
「完全に浮かれてましたわね…」
逃亡の首尾は上々だった。ウィーンについたのが2日前のこと。到着してすぐに、アメリカのクレアに連絡した。
「無事についた?どこにいるの?……そう、ウィーンね。ウチのホテルは市立公園の傍だから。部屋用意させるよ。エレナ疲れてるでしょ?迎えに行かせるね。
・・・うん。こっちにもちゃんと着いたよ、スマホ。家宛にメールしたし、あとは電源入れっぱなしにしとけばいいのね。あとうちの親からも、しばらくこちらにいます、って連絡したよ。ちゃんと本家の方にね。事務長?の人が出たって。山村って言った。エレナがいなくなってることには気づいてなかった様子だったって。まぁ、これでしばらくは大丈夫でしょ。」
インターナショナルスクール時代の同級生のクレアは、世界100カ国に5000軒以上のホテルを運営するアメリカのホテル王の一人娘である。父親が日本にホテルをオープンする際に長期滞在することになり、面白そうだからという理由で一緒について日本にやってきて、エレナの同級生になった。
ブロンドに緑の眼、バービー人形のような抜群のスタイル。華やかな容姿と明るい性格でクラスの、というより学校一のカリスマ的人気者になるのにそう時間はかからなかった。声をかけてきたのはクレアの方からだった。エレナは、なるべく目立たないように、前髪を厚く伸ばし、分厚い伊達メガネをしてメイクでそばかすを施して地味に過ごしていたので、自分になぜ興味を持って近づいてきたのか不思議であったが、クレアに言わせれば、スタイルの良さとか姿勢の良さは世界中で色んなお客を見てれば分かる、そうだ。
なぜ自分を隠してコソコソしてるのか気になったという。クラスでは至って地味に過ごしているエレナが、学校中の憧れの存在であるクレアとの仲をやっかむ生徒もいたが、彼女の傍に居れば自分の容姿が目立たないのは正直都合がよかった。とはいえ明るく気持ちの良い性格の彼女と話すのは楽しく、心安かった。
エレナの事情にずけずけと首を突っ込むわけではなかったが、彼女になら、とエレナの方から明かした。クレアは驚き、憤ったが、何かあれば必ず協力すると約束してくれた。1年ほどでクレアはアメリカに帰ったが、しょっちゅうやり取りをしてきた。彼女のおかげで今回計画を進めることができたのだ。
「エレナがこんなことになるならローザンヌに行っとけばよかったな。ねぇ、こっち(アメリカ)に来たらいいじゃん。ちゃんと匿ったげるよ?」
「・・・だから言ったでしょ?アメリカは澤野の支社がありますし、親戚連中が何人もいてますの。お義姉さまだってそちらですし。どこで見つかるかわからないもの。澤野への連絡も、ホテルのことも、クレアにはお世話になりっぱなしで。本当に感謝してるのよ。」
「いいって、いいって。逃亡の手伝いとか映画みたいでスリリング。」
「クレアはお家を継ぐつもりであることをご両親に言ったの?」
「うん・・・。パパはまだ渋ってるけどね。コーネル入った時点でこれは本気かも、とは思ってくれてたみたい。頑張って勉強した甲斐はあったよ。」
フフフとクレアが笑った。
大規模ホテルチェーン、ダイアモンド・ホテルズ創業者の一人娘。ゆくゆくは婿でもとって継がせようかと考えていた両親は、ホテルスクールでホテル経営を本格的に学ぼうという娘に驚きつつ心配しているようだ。
「すぐにスイスに行くの?そっちも泊まるとこ手配するよ?弟に会うんだっけ?」
そのつもり、よろしくね。とそのときには言った。
だが、ジュネーブにいる弟の留加に連絡したら、
「無事についてよかった。・・・でもアメリカにいることになってるんでしょ?あんまり早くこっちにきたらマズくない?姉さん、外国に出るの久しぶりでしょ。観光でもしてからこっちに来なよ。それに僕試験中なんだよね。」
と至極真っ当なことを言われてしまった。
可愛い弟に一刻も早く会いたいと思っていたが、弟は冷静だった。
小さな頃は母か私の傍にまとわりついて離れようとしなかったあの甘えん坊が、何だかしっかりしてきたと思ったら嬉しいような寂しいような気がした。
それをクレアに報告すると、
「そりゃそうだね。6歳下だっけ?弟くん。あんたも弟離れしなきゃね。まぁ、しばらくはそこでゆっくりしなよ。ホテルの方にはくれぐれも言っておくからさ。偽名で通させるし、怪しいヤツが来たら追っ払うし。あ、|こっち《学校》が落ち着いたら遊びに行くから!ほんとサマースクールなんて入れなきゃよかった。あ、そういや、あっちの計画は本気で進めるつもり?」
「当然よ。そのためにこちらへ来たのですもの。留加に会った後、フランスかイタリアあたりに行ってみようと思って。」
「そんな奇特な人間、いないと思うけどね。いくらあんたの美貌をもってしても。・・・まぁせいぜい頑張って。」
・・・全くもって失礼な話だわ。私だってやればできるはず。手間暇かけて、髪や爪の手入れに肌の手入れもして来たのだから。見た目の美しさは利用しなければ。
クレアと留加のいう通り、せっかくウィーンに来たのだから、と思って、朝食後すぐにホテルを出た。当然のように宝物のヴァイオリンと一緒だ。流石音楽の都である。ウィーンでは道行く人が高確率で楽器を持っている。
栄華を極めたハプスブルク帝国の都は荘厳な建物が並び、気分が華やいだ。黒塗りの観光馬車が行き交う光景は映画のワンシーンのようだ。
ホテルでもらった地図とガイドを手に、国立オペラ座を見て、皇帝の婚礼が行われたアウグスティーナー教会、世界一美しい図書館といわれる国立図書館プンクザール、そしてスペイン乗馬学校で馬のワルツも見て、王宮Hofburgを見学した。
ハプスブルク家が600年以上にもわたって住居としてきた王宮。15世紀から保管されてきたという膨大な数の食器は圧巻だった。金、銀、磁器がずらりと並び、女帝マリア・テレジアのナイフ・フォークセットから日本の古伊万里までコレクションに含まれていた。皇妃エリーザベトの博物館では、ドレスや愛用の小物を見た。エレナはかなりウエストの細い部類だとは思うが、彼女のウエストはさらに二回りは細かった。
王宮見物の後は、コールマルクトを通って老舗のスタンドバーでオープンサンドをつまんだ。ひとりで気ままに歩き回るのは楽しく、ずっと歩きっぱなし、立ちっぱなしだったが、ほとんど疲れは感じない。とはいえ、どこかカフェでも入ってみようか…などと考えながらグラーベンに入って歩いたところで、ヴァイオリンを弾く愛嬌のある老人に目が留まった。
観光客が数人立ち止まって彼の演奏を聴いている。熟練した厚みのある音。折り目のきちっとした安定感のある聴かせるブラームスだった。何より音楽を楽しんでいる様子に好感が持てた。音楽の都なだけのことはある。この街の人はみなこんな風なのだろうか。
小柄でお腹の出た人の好さそうなヴァイオリン弾きは、パラパラとした拍手に礼儀正しく応えると、エレナに声をかけた。エレナのヴァイオリンを指さし、何か弾いてみないかといっているらしい。戸惑ったが、好奇心が勝った。
チャイコフスキーの「花のワルツ」を弾きはじめるとおじいさんが合わせてくれた。人前で、しかもこんな道端で弾くのは初めてだ。だが若干感じた羞恥心はすぐにどこかへ消え、ただ音楽を奏でる喜びに変わった。これほど自分の音に集中したことはなかったし、これほど楽しいと感じたのも初めてだ。
ふと観衆の誰かと視線があった。その視線を感じてさらに気分が高揚した。
曲が終わると思ってもいなかったような数の人に囲まれていたことが分かった。
驚いた。そして、目立ってしまっているという事実に気づいた。
老人と2人で歓声にこたえ、観衆が何事か声をかけてくれたので礼を言ったまでは覚えている。アンコールの声は聞こえていたが、それどころではない。早くここを離れなければ。老人に礼をいい、急いでその場を後にした。
エレナはウィーンの旧市街を環状に囲むリンク通りの東、市立公園内を流れるウィーン川にかかる小さな橋の上にいた。向こうの橋は駅前の通りになっていて、車通りが多いが、音楽家の像のあるエリアと反対にあるこのあたりは静かで人通りも少ない。橋のアーチにはスプレーで描かれたような落書きがあった。東京でも繁華街の路地裏の壁とかシャッターなんかで見られるような落書き。映画の中に迷いこんだような建物や風景を見てきただけに、なんだか夢から現実に引き戻されたかのようだった。エレナは橋の手すりにもたれかかって、深いため息をついた。
東京では絶対にできないし、しようと思っていなかったような大胆な行動をした自分に驚いた。
でも、目立ってはいけない。ヨーロッパは安全だとは思うが、いつ、どこで誰に見られているとも限らないのだから。
自分を戒め、でも、目的のためにはあんまりコソコソ引っ込んでもいられないし・・・どうしたものかしら・・・と思って、川の流れを見ていた。
川といっても運河なので、水は少ない。とはいえ東京では川の多くは暗渠になっているので、エレナには川そのものが珍しかった。
・・・魚でもいるのかしら…?ここからでは良く見えないから下の道に降りてみようかしら…と下の道を覗き込んだ瞬間。
突如、後ろから太い腕が回されて身体をつかまれ、橋の手すりから引きはがされた。エレナの身体はそのまま、後ろに倒れこんだ。
あまりに一瞬だったので頭が真っ白になった。身体は後ろに倒れたが、どこも痛くはない。掴んでいた腕も離されたようだ。エレナは急いで身体を捩りながら上体を起こして、その者の顔を見た。
男が地面に両手をついて、自分とエレナを支えていた。黒髪に美しく整った端正な顔。深く吸い込まれそうな瞳。見惚れるほどの美形だった。走ってきたのか息が上がっている。乱れたシャツの下に覗く厚い胸板から色香が匂い立つ。
アジア人・・・日本人かしら?もしや追っ手?・・・それともスリ?
切れ長の目に見覚えがある。さっき観衆の中にいた人だ。やっぱり追っ手?
「早まるな・・・思いとどまれ・・・」
息を切らしながら男が懇願するように言った。1回目は日本語で、2回目はエレナの目を見てロシア語で。
一瞬男の言葉が理解できなかった。この人は何を言ってるんだろう、と思ったが、先ほど自分が何をしようとしていたかを思いだして、理解した。申し訳ない気持ちになっておずおずと真実を告げる。
「あの…。もしかして私が飛び降りるかと思いましたの? ごめんなさい。川に魚がいるのかと思って覗き込んだだけですのよ」
男は一瞬驚いた様子だったが、次第に自分の勘違いに顔が赤らんできて、うつむく。
すまない気持ちもあったが、先ほどの彼の必死さとこの状況に、何だか可笑しくなってしまって思わず笑ってしまった。
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智己は、グラーベンでヴァイオリンを弾いていた女性の影を追っていた。彼女は道端で見事な演奏を披露したあと、風のようにその場から立ち去ってしまった。シュテファン寺院の方に向かったのが見えたので急いで走って追ったが、そこから先は道がいくつも分かれている。手前から順に通りの入口を覗いたが、どこの通りにも見つけられなかった。小さな通りに入ってしまったのかもしれないし、地下鉄に乗ってしまったのかもしれない。もう二度と会えないのかという思いと諦め切れない思いと、もしかしたら、という思いでケルントナー通りを歩いた。
あの美しさ。華奢ながら完璧といっていいスタイル。伸びた背筋に美しい振る舞い。見事なヴァイオリンの腕。彼女のいる場所だけ周りと切り離されたようだった。人に見惚れるということは初めてだった。どうしても彼女にもう一度逢いたい。そして…
ケルントナー通りをオペラ座まで歩き、そこからリンクに入った。昼間は青く高く澄んでいた空だったが、夕刻を過ぎると、徐々に黒い雲が立ち込めてきた。
これは一雨くるかもしれない。ウィーン旧市街を囲むリンクを回ったら自宅に帰ろう。そう思っていたのに市立公園に足が向いたのは幸運だった。それともこれを運命というのか。
ウィーン川沿いの道を歩いていると、向こうの先の小さな橋の上にメタリックブルーのヴァイオリンケースが見えた。
彼女だ。間違いない。
ブラウンの髪、細い腰に長い脚。横顔と後ろ姿しか見えないが、見間違えようがない。鼓動が高鳴る。歓喜の歌が頭の中に鳴り響く。
彼女は橋の欄干にもたれかかっているように見えた。横顔が悲しげで、うな垂れているように見え、先刻の華やかで堂々とした雰囲気は消えていた。橋の下から、声をかけようかどうか逡巡したその一瞬。
彼女の身体がふわっと飛ぶように見えた。あっと声を出すのと駆け出すのとどちらが早かっただろうか。
階段をかけ上がり、橋の中ほどにいた彼女の身体を、後ろから抱きすくめて橋の手すりから引きはがした。勢い余って後ろへ倒れ込む。地面に手をついて彼女の身体と自分の身体を支える。腕の中に抱きしめた彼女からは、花のような香しい匂いがする。
手を離すと彼女は身体を捩り、智己の顔を見た。驚きと怯えが浮かんでいる。早まるな、と日本語で言ってから、彼女がロシア人だと言っているのを聞いたことを思い出し、ロシア語で言い直した。一瞬で自分の心を捉えてしまったこの人が、命を散らしてしまうなどあってはならない。
彼女は美しい眉をひそめて戸惑っていた。そして、申し訳なさそうに、「魚がいるか覗いただけだ」と言ったのだ。
恰好の悪いところを見せてしまった。恥ずかしい。だが、彼女がとびきりの笑顔と軽やかな声で笑ってくれたので、思わず一緒に笑ってしまったのだった。
彼女の手を取って立ち上がった。差し出した手を取る様子も優雅で、きちんと礼儀作法を学んだ振る舞いだ。
「私の勘違いで驚かせて申し訳ない。日本語を話すんだね?」
先ほどのやり取りが日本語だったことを聞いてみた。
「長く日本にいましたわ。両親ともロシア出身ですけど、母が日本人と再婚して。」
「グラーベンで君の演奏を聞いたよ。」
メタリックブルーのヴァイオリンケースに目線を向ける。
彼女は決まりが悪そうな顔をした。
「ヴァイオリンを弾いてらしたおじいさんに誘われて、ちょっと弾いてみるだけのつもりでしたの。いつの間にか人に囲まれててびっくりしましたわ。」
「プロじゃないのか」
「亡くなった父がヴァイオリニストでしたの。3歳のときだったので直接習ったわけではないのですけど。5歳のときに習い始めましたわ。でも、人前で演奏したことはありませんのよ。このヴァイオリンは父の形見ですの。」
愛おしそうにヴァイオリンケースを撫でた。
「観衆の誰かが、音楽祭に来たロシアのヴァイオリニストだと言っていたが」
「そうでしたの?ドイツ語が分からないので、Danke shön(ありがとう)を適当に言ってましたわ。」
橋の上で話していると、夕闇の中、ぽつりと雨が垂れてきた。風も出てきたようだ。半袖の彼女が寒そうだったので、ジャケットを脱いで掛けてやる。
公園内にカフェを併設したレストランのあるのを思い出し、
「雨宿りをしようか」と誘えば、彼女は「ええ」と頷いた。
店に足を踏み入れた途端に雨が強くなった。そうすぐには止まなさそうなので、レストラン営業が始まった時間だったこともあり、カフェではなくディナーにすることにした。
ウィーン川の畔に立つミラーが貼られた近未来的な外観で、昼は緑を眺めつつ食事ができる。ミシュランで2つ星を獲得し続けるオーストリア随一の名店で、予約は必須だが、幸運なことに席が空いていた。
彼女は昼食にサンドウィッチをつまんだだけでお腹が空いているというので、コース料理を注文し、アミューズにパン、”カレーハーブ、ヨーグルトとインゲン豆のひまわり”や”カリフラワー、ロマネスコのチョウザメ”、”ヤーコン、スイカ、グレープフルーツを添えた子羊”といった独創的な新ウィーン料理を堪能した。
ワインを勧めてみたときに、エレナはちょっと困った顔をした。
「お酒はよく分かりませんの。2週間前に20歳になったばかりですから。」
とてもそうは見えなかった。智己は彼女が25、6歳だろうと思っていたのだ。ずいぶん大人びて見えるのは、洗練された振る舞いからか、整いすぎているといってもいいその美貌からか。だが、智己の話にコロコロと笑う彼女は、少女っぽさも垣間見せ、すっかり彼を夢中にさせてしまった。
じゃあ、お祝いに、と生まれ年のボルドーワインを入れることにした。それは屈指の当たり年で価格も高騰している。
エレナは、「マナーレッスンで、ぶどうジュースで練習しましたの」とスワリングして口をつけた。おそるおそる口に含んで、「ん。おいしいですわ」と微笑んだ。
ロシア出身の両親の元にアメリカで産まれた。亡くなった父親は、智己も何度か通ったボストンのオーケストラで奏者をしていたそうで、ちょうど渡米した時期と重なっていたため、演奏を聞いているかもしれないという話をすると、ずいぶん距離が縮まったような気がした。
「チャイコフスキーが好き?」
「嗚呼、先程の。私はアメリカで生まれましたけど、両親はロシア人ですし。自分のルーツは大事にしたいと思ってますのよ。」
「ウィーンにはどのくらい?」
今日限りの出逢いにするつもりは当然ない。
「スイスに弟がいますの。父親違いで6歳下ですのよ。会いにいくつもりだったのに、試験中だからしばらく来るなと言われてしまって。」
訊けば、ヴァイオリニストの父は若くして亡くなり、バレリーナだった母は日本人と再婚した。弟が産まれたものの、その後患い、5年前に亡くした。母は義父の後妻で義兄と義姉が2人いる。複雑な環境で、血の繋がらない家での居心地は良くなく、弟もスイスの学校に進学したのを機に家を出てきたのだ、と話した。
「暗い話でごめんなさい。」
彼女は申し訳ないという風で微笑んだ。
「でも、私、今とても自由ですの。ここでは自分で好きなときに好きな場所に行けますもの。」
好きな格好で、好きなものを食べられますし、と笑う彼女にこれまでどんな生活をしてきたのかと、彼女の影に触れてしまった気がしたが、今が幸せと笑う彼女には暗さはなかった。
「智己さまはご家族は?」ラム肉にナイフを入れつつエレナが訊く。
「両親と兄と姉がいるよ。姉と12歳、兄と11歳離れてる。年が離れているから小さい頃はずいぶん可愛がられたもんだよ。今は2人とも結婚して子供もいるし、兄はアメリカ、姉はフランスに住んでる。」
「お小さい頃はさぞかしかわいらしかったでしょうね。」と彼女は微笑んで、「うちの弟もそれはそれは可愛いんですのよ。」と弟への溺愛ぶりを隠さなかった。
美しく五感を揺さぶる料理を心ゆくまで堪能し、市立公園を抜けたところにあるホテルまで彼女を送った。明日ウィーンを案内するよ、と言えば、彼女は了承してくれた。明日も彼女に会える。智己は軽やかな気持ちで帰路に就いた。
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クラシックなテキスタイルで整えられたパークサイドのホテルの一室。楕円形の窓の向こうには昼間観光した王宮が見える。エレナは橙色の一人掛けソファに浅く腰掛け、ガラステーブルの上の紙片を眉間に皺を寄せ、睨んでいた。
クレアに電話して相談したいが、向こうはまだ夕方だ。時間が空いたら連絡をくれとメッセージを残しておいた。
紙片は、先ほどまで食事を共にしていた男性から渡された名刺。
そこには、
『不破コーポレーション 専務取締役、不破ヨーロッパ 専務取締役 オーストリア支社長 不破 智己』と記されていた。
「不破」って、あの『FUWA』ですわよね…。
幅広い分野で事業を展開する世界的大企業。しかも苗字も「不破」ときた。創業家か、それにつながる血縁の人間だろう。
ウィーン川に架かる小さな橋の上で出会った男性は今まで見たこともないような美男子だった。いきなり後ろから抱きすくめられて、犯罪者かと思ったのに、思わず見惚れてしまった。初対面なのに、音楽の話や身の上話で随分色々なことを話した。これほど誰かと話し込んだことは珍しかった。心躍る出会いだった。
それでも、エレナは智己に「澤野」の名前は出さなかった。母が再婚したときに養子縁組をしていないためエレナの名前はずっと母の姓のままだったので、それでいいといえばいいのだが。智己が義父と面識があるかどうかはわからないが、一族の誰かと既知であってもおかしくはない。そんな人間と知り合いになってしまったことに背筋が冷える。だが、彼は、見惚れるほどの美男子。心ときめかないはずがない。あの見た目にあの物腰。女性に困っていないことは明らかだ。彼は協力してくれるだろうか。
逡巡しながらスマホを眺めていると、智己から、明日の昼に楽友協会のコンサートがとれたので一緒に、とメッセージが来た。
断る理由は…ない。エレナは「えい、ままよ」とばかりに、是非、と返信した。
「トモキ・フワ? そりゃ、こっちじゃ有名人よ。」電話をしてきてくれたクレアはさも当然だという様に言った。
「日本に帰ったとは聞いたけど、今はそっちにいるのね。日本に帰るっていうのでニューヨーク中の女性が泣いたとかなんとか。ググってみれば?ゴシップサイトに載ってるんじゃない? ・・・そう、お相手は彼より年上の女性ばっかりよ。あたし達みたいな小娘はお呼びでない感じ。・・・へぇー。ディナーご馳走になって、コンサートに誘われた? それは驚き。まぁあんたなら20歳には見えないかもしれないけど、年下には興味ないイメージだな。にしても計画に乗ってくれるか? ムリでしょ。」
「やっぱり難しいかしら…あまり時間があるわけではないから私に興味を持ってくれたならすぐにでもお願いしたいところなのだけど」
「まだ30にもなってないでしょ? 次男で、長男はすでに結婚してて。独身貴族まっしぐらだよ。向こうにメリットが無さすぎる。」
クレアの言う通り、彼の名前を検索すれば、妖艶な美女たちとの2ショットが出てきた。ついでにFUWAの創業本家の御曹司という事実も。
「何?好きになっちゃった?やめといた方がいいよー。遊ばれるだけ。あぁ、遊びの相手にはいいんじゃない?向こうが本気なわけないんだから、エレナも気楽に楽しんでくればいいんだよ。ここらで男慣れしてから、探してもいいんだし。ひと夏の思い出ってやつ?」
身も蓋もないことを気軽に言ってくれる。言い寄る男は数しれず、ティーンの頃からボーイフレンドを切らしたことのないクレアにとってはそんなものか。
「女慣れしてるのは間違いないし、そんな変なデートにはならないでしょ。顛末教えてねー!」と楽しそうにクレアは電話を切った。
これから大学のパーティーなのだそうだ。学生生活を満喫しているクレアがふと羨ましくなる。
エレナはインターナショナルスクールでバカロレアを取って、芸大の音楽科に合格した。だが、エレナと同い年の、義父と前妻との間の娘が大学入試に失敗してエスカレーター式で女子大にそのまま進学することになり、血のつながりのない義理の娘が、より良い学校に行くのは外聞が良くないという義父の母、澤野のゴッドマザーの判断で進学を断念したのだ。
早く海外に出してくれるように頼めばよかったのだ。そうすればこんな風に逃げるように日本を出る必要はなかった。だが、母が眠る地を離れることはそう簡単に決断することができなかった。留加を海外に出したときに一緒に出てこればよかった。だが、亡母の傍を離れがたく日本に残ることにした。心配する弟に自分の身は自分で守れると言ったのだった。だが、生前の母の危惧はあたってしまった。もっとも母が入念に準備してくれていたおかげで、今、自由にヨーロッパ生活を送れる経済的余裕があるのだから感謝すべきだろう。
エレナは今を楽しむことに専念しよう、と思った。今後のことは後々考えよう。まずは明日のことだ。クレアのいう通り、あの人は自分のような小娘に興味はないだろう。向こうは、たまたま助けただけ。それも勘違いで。でもあれほど魅力的な男性に誘われて断れるはずがない。こちらも本気にならなければいいだけの話だ。楽しんで帰って来れば、それでいい。
でも…彼なら…とチラと考えて、彼と一緒に写っていた女性たちのことを思いだし、「無いわね。」と呟いた。自分は彼の好みではない。
智己からは気楽なピアノコンサートだ、とは言われていたが、あの黄金のホールを擁する楽友協会のコンサートだ。ドレスが必要だろうか、と思ってホテルの部屋付きのスタッフに聞いてみると、ウィーン・フィルの定期演奏会ではないこの時期なら、かなりラフな格好の人が多いとのことだったので、手持ちのワンピースにすることにする。エレナは、今日は雨も降った上に夜には冷え込んだので、上着を持っていこう…。明日はスパへ行って手入れしてもらって…。などと、人生初めての“デート”に向けて、いそいそと支度をするのだった。
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