第三章 甘い生活

 細長い格子窓のカーテンの隙間から差し込む光の眩しさでエレナは目を開けた。
身体を動かそうとしたが、容易に動かない。背中の後ろから逞しい腕が伸びて身体に乗っていた。
何とか身体を捩りさっきまでと反対の方を見れば、整った男の寝顔があった。長いまつ毛は伏せられていて、目の付け根から伸びた鼻筋は通っている。寝息の漏れる唇は薄く、色気に溢れていた。
 自分が枕にしている男の腕の硬くて、しかし弾力のある温もりに頬をすりつつ、男の美しい顔に見惚れていた。肌に触れたくなって、そっと頬に手をやってみる。起きやしないかと内心緊張しつつ、指先で頬から顎のあたりを撫でる。唇の辺りに差し掛かったときに、指先を咥えられた。
 はっと心の臓が跳ねる。今や男は切れ長の美しい瞳を開いて、エレナを見つめていた。
「随分色っぽい起こし方をしてくれるじゃないか。あぁ、これからはキスで頼むね。」智己が美しい顔で笑った。

 コンコンと扉を叩く音がした。
智己はサイドテーブルに置かれた時計に目をやって、けだるそうに起き上がった。
扉の向こうに「しばらくまて」と声をかけ、エレナにの額に軽く口づけをして、
「起きられそうならおいで。」と言った。
恐らく家の人間がいるのだろう。
心地の良い腕枕が抜かれてしまったので、エレナもゆるりと身体を起こした。
昨夜は智己のシャツを寝巻にしていたが、裾の方が心許ないので、バスルームで顔を洗うついでにガウンを取ってそれを羽織った。

リビングに出てきてみれば、智己が誰かと話していた。そろりと顔を覗かせると、恰幅の良い女性。年の頃なら50半ばだろうか。くるりと大きな目が愛嬌があって少女のようだ。エレナと目が合うと、その目をさらに大きく剥いた。
「まぁぁ!なんっって綺麗なお嬢さんなの!さっすが坊っちゃん!!やりましたね!!」興奮して鼻息を荒くした。
「アンナ…僕ももう28なんだから、その坊っちゃんっていうのやめてくれないか…」
「あらあら。ごめんなさいね。私ったら興奮しちゃって!でも坊っちゃんがこんな綺麗なお嬢さんを連れてくるんだもの。落ち着けっていう方が無理ですよ!」

 エレナは可笑しくなった。澤野の離れで勤めていた家政婦の良子のことを思い出す。
「智己様?」紹介してくれるか、と促す。
「あぁ。アンナ・シュミットだ。僕がアメリカに行ったときだから、11歳のときから世話をしてもらってる。アメリカ出身で、夫はドイツ人。夫はFUWAヨーロッパに勤めてたんだ。父の秘書をしていたことがあって日本にもいたよ。アンナ、エレナだ。」
「よろしく。フラウ・シュミット。握手をしてもらっても?」エレナが手を差し出すと、
「アンナと呼んでください。奥様。」と言って手を握り返した。
「おくさま…」エレナが戸惑っていると。
「あぁ…!うれしい!坊ちゃまの奥様のお世話をするのが長年の夢だったのよぉ!!」とまた興奮して踊り出さんばかりだった。
「…アンナ…」智己があきれている。

「わかってますよ。ちゃあんと、お世話しますから。かんっぺきに。」
アンナはにっこり笑った。
「エレナ様、ではこちらでお召しかえを。朝、智己様に電話を頂いて。急だったもので、娘のお古で申し訳ございません。あ、娘は今結婚してロンドンに住んでましてね…」話しだしたらとまらないらしい。おしゃべりを続けながら別室にエレナを連れて行った。
やれやれ…と溜息をつきながら、智己はのんびりと独りの休日を楽しんでいると思われる秘書の佐伯に電話をかけた。

アンナは、エレナを持ってきた服に着替えさせると、
「では、智己様、お連れしてきますね。近くですし、歩いてでも…」とアンナは言いかけたが、
「いや、車を使ってくれ。」と智己は即座に言った。身体を労わったのと、ほんのわずかな時間でもエレナを危険に晒したくないという思いからだった。
アンナにはまだ詳しい事情を話していないが、そこまで彼女を思っているのだ、とアンナは理解した。
「では、そのように。智己様も後からいらっしゃってくださいね。」
アンナはエレナを促して部屋から出た。
エレナは何が何やらわからないままに、アンナに車に乗せられた。

連れていかれたのは数ブロック先にある小さな店。促されて中に入ると、明るい店内に色とりどりのドレスが展示されていた。
上品なマダムに迎えられる。
「急にお願いして申し訳ありませんでしたね。」
「とんでもないですよ。アンナ。それにしても素晴らしいお嬢さんだこと。」
「エレナ様、こちらフラウ・ブリギッタ・ティーレマン。ウィーン随一のドレスデザイナーですよ。」
よろしく、と挨拶を交わしたと思ったら、ブリギッタはにっこり笑って、失礼、と言ってエレナの身体をあちこち触った。
「うん。完璧ね。すぐにとりかかりましょ。どんなのがいいかしらね…」
アシスタントの女性に早速指示を出しつつ、次から次へ繊細なレースのあしらわれた真っ白なドレスを運んでくる。
あぁ…成程ウェディングドレスを用意してくれるつもりか…そこまで本格的にしてくれなくとも紙切れ1枚のことでいいのに…
と思いながらも、エレナはなされるがままだった。
「エレナ様、お好みは?」とアンナがにこにこと聞いてくれる。
「えっと…あんまり露出は多くない方が…」せめてもの希望を言ってみると、
ブリギッタが、エレナの胸の辺りを見て、
「それもそうねぇ」と言った。そして、はた、と何かを思いついたらしく、一着のドレスとスケッチブックをもってきて、サラサラと書きだした。
「ここをこうして、これをこうして……」
見せられたデザイン画は、首の詰まったアメリカンスリーブにケープ状のレースが重ねられたデザインで、若々しさを出しつつも露出を抑えた清楚さを失わないものだったので、エレナも納得した。
「これでしたら、このドレスを活かしますから今日中に仕上げられます。」
「さすがねぇ。ブリギッタ。」アンナも感嘆している。
「では、早速こちらで採寸を…」
と奥の部屋に通される。アシスタントの女性二人かかりで全身のサイズをくまなく採寸された。
ようやく終わって、じっとしているだけ、というのも返って疲れるものね…などと思いながら、先程の部屋に戻ってくると、今度は智己がフィッティングをしていた。
シルバーがかったグレーのフロックコートが凛々しい。
ほぅ…と思わず見惚れてしまう。智己がエレナの視線に気づいて微笑む。
「おや?ドレス姿が見られると思ってたんだけど?」
「駄目ですよ、お式の前に見ては。幸せが逃げますからね。」ブリギッタが笑った。
「成程。じゃあ楽しみにしておこう。」智己は声を弾ませて楽しそうに言った。

 店を出た二人は次の店に向かった。アンナは寄る所があるとかで先に店を出ている。
智己に連れられて向かったのは、高級ブランドショップが軒を連ねるグラーベンにあるブティック。ペスト記念碑がすぐそばにある。一昨日エレナが路上リサイタルをやっていた場所の近くだ。あのバイオリン弾きのおじいさんはいないようだったが、今日も観光客で賑わっており、路上で芸を見せている人もいる。
「今日もやっていく?」智己が悪戯っぽく訊く。
エレナは首を竦めた。
「やめておきますわ。目立つのは懲り懲りです。」と言ってバイオリンをホテルに置いてきていることを思い出した。あと荷物も。あ、クレアに連絡をしなければ。
などと色々思いめぐらせているのを智己は察した。
「バイオリンはここが終わったら取りに行こう。うちで弾いてくれる?」
「ええ、もちろん。」エレナはほっとして言った。

 迎えてくれた店員に上階の部屋に案内され、クラシカルなソファに二人並んで腰かける。
責任者と思われる年配の女性が恭しく持ってきたのは、ホワイトゴールドやゴールドのリングだった。
 智己は一通り眺めて、そのうちの一つを手にとり、エレナの左手を取って薬指にはめた。
「うん。指が長いから存在感のあるリングが似合うと思ったんだけど、思った通りだ。
「あの、」と店員が言いかけたところで、智己は思い出した。
「ああ、こっちでは右手か。」と言ってリングを右手の薬指にはめなおす。

「エレナはどれが好み?」
「そうですわね…」と言いつつ、目線は一つのリングに引き寄せられている。幅のあるホワイトゴールドでシンプルなロゴにダイヤが埋め込まれている。縁に装飾がされていた。
「智己様にはこれがいいと思いますの。」
 エレナが着けたいものを、という意味だったんだけどな、と思いつつ、自分のために選んでくれることが嬉しかった。
「それなら、エレナにはこっちかな」男性用とペアになったデザインには、ぐるりとダイヤが埋め込まれていた。
二人でリングを選び合う様子が可愛らしいと店員の女性は微笑ましく思っていた。
 試着したリングに指をかけたエレナが指輪に施された仕掛けに気づいた。
「…あら?…回る…?」
「こちら、リングが回転するように作られております。精巧なパーツがしっかり組み合わさっているので他は回らないようになっているんです。ドイツの古い言い伝えで、身に着けたリングを3回回すと願いが叶うと言われているんですよ。」
「願いが…」
ロマンティックだが、エレナはほとんど願ったことがない。しかも、願っても母の病は治らなかったし、願ってもあの監獄からは出られなかった。願いは叶わないものだ。エレナにはほとんど無為なものに思われ、寂しく見つめた。

 店を出た後は、エレナの荷物を取りに滞在していたホテルに行った。クレアを通じてトップからくれぐれも、と頼まれていたコンシェルジュはエレナのことを尋ねてきた人間のことを伝えたが、40代くらいのドイツ系の男性で、スマートフォンで隠し撮りしたと思われるエレナの写真を持っていたとのことではあったが、それ以上の情報はなかった。防犯カメラに映った男の映像も見せてもらったが、見覚えがあるわけでもなく、澤野との繋がりを示す有益な情報は得られなかった。だが、自分を追っている人間が近くにいるという事実は、心を寒くするのに十分だった。智己は青白い顔をしているエレナの肩を抱き、髪を撫でた。
「大丈夫だ。必ず守るから。」その声は力強く温かいものだった。

二日ぶりに話したクレアは、言葉を失った。
「……は?結婚した?」
「まだしてませんわよ。」
「トモキ・フワと・・・?あの?」
「彼が受け入れてくれて助かりましたわ。」
余りにあっけらかんとしていて、良かったと喜んでいる様子ではあるが、それはせいぜい予定時刻の航空チケットが取れたという程度の喜びようで、クレアは呆気にとられた。
「……あんた、只者じゃないのはわかってたけどさ。すごいよ。」
「…それは褒めてないですわよね?」
「いや、褒めてるよ。あの、トモキ・フワを落とすんだから。」
「落としてませんわよ。」エレナは憮然として言った。

偶々出会って助けを乞うたら受け入れてくれただけ。面倒ごとを頼んで、報酬は自分自身だ。求められるままに身を差し出した。傍から見たら随分浅ましいことだ。
自分が利用させてもらっているのだから、相手にも利用してもらえればいい。お互い様だ。それは母もそうだった。
「心が自由であればいいの。肉体は支配できても、心までは支配できない。自分は自分だけのものよ。」
母の言葉を思い返す。不自由ない生活を、夫からは一応愛を受けていても、あの家で母は孤独だった。エレナには父母と三人の暮らしの記憶はほぼないが、倹しくも穏やかだったという。若くして夫を失い、幼子を抱えて途方にくれて亡霊のように日々を過ごしていたときに出会った後の夫は、情熱に溢れ、生気が満ちていて自分も生き返るような気がしたのだ、と在りし日の母は笑っていた。ただそうして入れられた、華子が支配する監獄には重い鉄鎖が掛けられていて、関わる者全てを縛っていた。華子自身も家名の重みと家の血に雁字搦めになっている。
エレナはようやくその監獄から出られる。差し伸ばされた手が誰のものであったとしても、恐らく迷いなく手をとっただろう。彼の手を取って良かったのか。いや、所詮は期間限定なのだから。手を取られて向かう先が、監獄であっても構うまい。もう自由に飛び立てる翼は持っている。

「そりゃそうか。昨日もパーティーで彼のことを知ってるって人にそれとなく聞いたんだけどさ、あの人が誰かのものになるとかありえないって。まぁ、女除けとしては需要があったのかもね。…エレナ、好きになっちゃだめだよ。あんたが傷つくだけだから。」

あれほどの男性だ。自分のものになどなり得るわけがない。自分も他人のものになるつもりはない。……そのはずだったのだが、彼に強烈に惹かれている自分がいる自覚はあった。そのことはクレアに告げずにおいた。

「…わかってますわよ。彼は助けて下さっただけです。それ以上の感情があるはずないですもの。もちろんわたくしにも。」
「なら、いいけど。まぁ、見かけによらず物好きだってことはわかった。」
「失礼ね…。わたくしだってそれなりだとは思うのよ? あ、でもそういうことになりましたから、ホテルは引き払ったわ。良いお部屋を用意してくれたのにごめんなさいね。」
「ああ…それは仕方ないって。エレナの安全が最優先だから、さ。
あ、いい忘れた。……結婚おめでと。」
 エレナは思わず吹き出した。そうか。結婚は結婚だ。
「ありがとう。」




一方で、弟の留加は呆れていた。
「え…あの話…姉さん本気だったの?」
「わたくし、いつも本気よ。」
「不破智己…。あ、これか…。おお…。すんごいイケメン。姉さんやるね。」
電話をしながら検索したようだ。
「あなた、ずいぶんな言い方ね。」
「いいじゃないイケメン旦那。お、すんごい美女。あ、こっちも。」
エレナも見た例のゴシップサイトにたどり着いたらしい。
「うん。完全に姉さんは範囲外だね。よかった。」
姉の傷をさらっとえぐりにくる。
「どうしてよ。」
「連れてる女性が姉さんと違うタイプの女性だからさ。親父のように手当たり次第ってわけではなさそうだけど、女性には困ってない。だから姉さんに拘らなくてもいいからさ。姉さんが別れたくなったら別れてくれるよ。母さんが不幸だったのは、家を出たくても出してもらえなかったからだ。まぁ、僕がいたからっていうのはあると思うけど、そもそも親父が離さなかったからね。
 いずれにせよ、これで姉さんはあの家から自由になれるんだ。…僕のことは気にしなくて大丈夫。海外に出てしまえば干渉はされない。花穂さんのことなんて誰も口にしないじゃないか。」
花穂は忠利の長女であり、30代半ばになるはずだが、高校卒業後アメリカに渡ってからはほぼ音沙汰がない。
「でも、あなたは男の子よ。おばあ様の興味は逸れたけれどいずれは澤野の家に、って思ってるはずよ。」
「渚さんが男の子を産んでくれれば助かるんだけどね。…まぁ学業は適当に手を抜いてるよ。あんまり成績が良いと目を付けられる。」
 留加はエレナと一緒に家庭教師から学んでいたし、理解も良かったので日本の高校レベルの勉強は終えている。語学も優秀だったから、学校の勉強は余裕があるはずだった。
「必ずあなたも澤野から出すから。」
留加のことは守らねば。これは使命みたいなものだ。
「僕のことは気にしないで。大丈夫だから。来月会えるのを楽しみにしてる。もちろん、お義兄さんにも、ね。」
明るく振舞ってくれる可愛い弟に今までどれだけ救われてきただろう。引っ込み思案の甘えん坊ではあるが、幼い頃の辛い日々がなかったかのように健やかに育ってくれた。今や自立を始めて、自分のことすら気遣ってくれるようになったのが嬉しい。

ダイニングルームに入ると、智己はパソコンを開いて仕事をしていた。邪魔になるかと思ってどうするか躊躇ったが、智己に手招きされた。傍へ寄るとそのまま腕を取られ身体ごと彼の腕の中に抱きすくめられ、そのまま膝の上に座らされた。
「友達に何か言われた?」
「呆れてましたわ、あなたにね。とんだ物好きだって。」
「物好きというか…。只の幸運な男だけどね。こんなに素敵な女性が、自ら結婚してくれないかって言ってくれるんだから。」
こそばゆい言葉は世辞と分かっていてもエレナを喜ばせる。
「お上手。でもうれしいですわ。」
智己がエレナの頬に唇を寄せる。
「弟さんは?」
「喜んでくれましたわ。わたくしがあの家から自由になれるって。あの子は優しい子ですの。」
「そのようだね。」
「弟に会って下さる?」
「もちろん。君の唯一の肉親だ。」
「ありがとう。」
エレナは智己の肩に頭を寄せた。

ホールに続くドアがノックされ、アンナが来訪者を告げる。
「やっと来たな。」
智己はエレナを膝から下ろし、椅子に腰かけさせた。

招き入れられた佐伯正人は、何度も出入りしているその部屋の雰囲気がまるで違って見えることに驚いた。
モダンなシャンデリアが下がる部屋の、滑らかな手触りの肘掛け椅子にその女性は座っていた。
昨日リンク通りで見かけた女性が此処にいるのだろうということは、彼が呼ばれた理由から予想していた。
だが、目の前にいるその女性は、昨日見かけた印象とは違っていた。確かに綺麗な女性だ、とは思ったが、美しく整った顔、青灰色の双眸で見つめられるだけで、ひれ伏しなければならない気持ちになる。神々しいと言っても良いくらいの雰囲気がそこにはあった。佐伯が言葉を失っていると、彼の上司が声をかけた。
「遅かったな。」
気づけば彼女は椅子から立ち上がっていた。立ち姿も美しく整っていた。

 「そんなに急におっしゃられても用意できませんよ。ドレスデンの本社まで行って取って来たんです。」
緊張から早口にそして饒舌になる。
「だいたい、結婚するから戸籍謄本もってこいって何ですか。もっと前もって言ってくださいよ。」
「事情があるからな。」
「事情って何ですか。そもそも、昨日今日出会った人と結婚するってどういう了見です。」
「佐伯」低くドスの効いた声で窘められた。
しまった、言い過ぎた、と思った時、可憐で柔らかな声がした。
「わたくしが無理を言いましたの。智己様は助けて下さっただけですわ。」
頭がふわふわするような穏やかで優しい声。
「申し遅れました。エレナ・コムレヴァです。お名前を伺っても?」
佐伯が名乗ると、智己が秘書だ、と言い
「真面目が取り柄で頭が固いことが難点だ」と付け加えた。
エレナは柔らかく微笑んだ。
「上司の間違いを正すのも部下の務めですわ。恵まれてらっしゃるのね。」
「でしたら、」
エレナは真面目な顔で智己に向かう。
「隠し事をするのは得策ではございませんわね。」
「・・・・・エレナ」智己はわざわざ言わなくても、という顔をする。
「良いのです。事情を知っておいて頂いた方がわたくしも助かりますわ。マリアにも話しておこうと思いますの。」
エレナは腹積もりを決めたようだ。
マリアを呼び、夕食の準備の手を止めさせたことを詫びて、エレナは話し始めた。

 澤野とは事業の面で関わることはそれほどなかったが、澤野忠利、幸利とパーティーや会合で顔を合わせたことがある。秘書である佐伯は智己の父の昭孝か、兄の孝己に御供しただけであるが、忠利の仕事ぶりと色好みは耳にしていた。先代夫人が相当な発言権を持っている、とも。
だが、澤野の家がそこまで封建主義で前々時代なものとは想像もしておらず、言葉を失った。アンナはほとんど涙目になって聞いている。

「・・・それで結婚を、というわけですか。」
「ふざけているとお思いでしょ。でも、わたくしにとっては取りうるほぼ唯一の手段なのです。」

「私は、必ず守ると約束した。」
アンナは、身に着けたエプロンの裾で涙をぬぐいながらうなずいている。
「・・・わかりました。智己様がそうおっしゃるなら。私としても、あなたには早く伴侶を見つけて頂きたかったですし。」
「協力してくれるな。」
「もちろんです。まず、腕の立つ護衛をつけましょう。外出される際は必ず護衛をつけて下さい。」
「わかりましたわ。」
「明日式を挙げたら結婚証明書を持って大使館へ行ってくれ。エレナはアメリカ国籍だ。必要な書類は・・・」
「持ってますわ。」
「日本の手続きはやっておけ。両親は・・・明日連絡しよう。」
 智己が佐伯に指示を出す様は的確で、彼の有能さを垣間見た。佐伯も上司の意を汲み、必要な手段を考えていて優秀な秘書であることがよくわかる。
エレナは良い人に頼んで良かったわ、と思った。ただ、智己はどこの誰から見ても結婚相手として恵まれていて、なぜエレナを助けてここまでしてくれるのかエレナ自身には疑問だった。

「秘書さんは男性ですのね。」
エレナが呟くように言った。
「…?まぁ不破は能力主義だから、別に男女問わないけど。」
「智己様に女性の秘書を付けたら舞い上がっちゃって仕事にならないのが見てとれますからね。」
「澤野では秘書さんは例外なくぴったりとしたスーツのスタイル抜群の女性の方でしたわ。」
智己と佐伯は顔を見合わせる。なるほど、そういうことね、と二人は納得した。
「そちらの能力が求められてるんですか。」佐伯があきれた様子でいう。
「秘書から義父や義兄の愛人になる方は多かったですわ。」
智己はちょっと考えた様子で、
「エレナならいいかもな……」
と呟いた。
この上司は何を想像してるんだか、とあきれた佐伯が、
「それは智己様が仕事になりませんから、やめて下さいね。」と先んじて言ったので、智己は小さく舌打ちした。

 アンナはまだ涙ぐんでいた。まだうら若いこの女性が過ごしてきた長く暗い日々を思う。
娘を持つ身であり、エレナの母の想いはどれほどのものであったろうかと考えると身を千切られる思いがした。
「・・・奥様。私、精一杯尽くさせてもらいます。」
エレナはアンナにハンカチを差し出して、背中をさすった。
「ありがとう。」自分を想ってくれる人が、味方となってくれる人が増えるのがエレナには嬉しく、心強かった。

結婚式はウィーン市庁舎にて執り行われた。
ウィーンの中心地ブルク広場の向かいにあるネオ・ゴシック様式のこの建物には高い尖塔があり、その先端には旗を持った騎士の像、鉄のラートハウスマンが街を見守る。

エレナのドレスは、首元にフリルのついたアメリカンスリーブにケープを重ねた全体的にはクラシカルなデザイン。繊細なレースが重ねられたマーメイドラインのドレスの裾がふんわりと広がる。エレナの抜群のスタイルに良く映えた。
「美しいな。」
智己が思ったことを直に口にする。
「そうでしょう?わたくしもそう思いましてよ。」
エレナは悪戯っぽく微笑んだ。
「ブリギッタは流石ですわ。智己様もよくお似合いです。」
智己は襟とジャケットを黒で揃えたシルバーのフロックコート。艶やかな黒髪を撫でつけた姿はこの上なく麗しく、整った美しさは映画俳優のよううだと思った。
正装に身を包み、流し目で微笑まれると、それだけでエレナは酔わされ蕩けてしまうような感覚に陥った。

ウィーン市庁舎で行われる式は法律婚で、市役所の戸籍担当官の前で、書類にサインをし、指輪を交換する。
紙切れ一枚のこと、と思っていたが、ペンを持つ手が震える。
彼の妻になることで、自由になる。自由になるための結婚。期間限定だ、と言ったのは自分だ。
いずれは彼の元を離れなければならない日が来るだろう。その日のことを想うと胸がチリチリと焼ける。
だが、今だけは、彼の腕の中で守られていたい。

サインをして指輪を交換する。ダイヤがぐるりと埋め込まれた回るホワイトゴールドの指輪は、思った通りエレナの白磁の細長い指に良く似合った。
エレナを抱き寄せキスをする。誓いのキスにしては随分と深く長い口づけ。参列者がおいおい、と突っ込みを入れたくなるほどで、エレナはほとんど腰が抜けそうだった。
 こうしてエレナは智己の妻となった。

共に長身で素晴らしく体躯の整った新郎新婦が、赤い絨毯の敷かれた階段の前に立つ様子は実に画になった。
参列者は極めて少なく、新郎側には佐伯とアンナの夫、新婦側にはアンナとブリギッタが付き添った。
これほどまでに美しい花嫁を人目に晒したくなく、いっそのこと自分の目だけに留めておきたいくらいであったので智己には都合が良かったが、ブリギッタが自分のメゾンの資料に使わせてくれとカメラマンを連れてきて、二人に散々ポーズを要求してくるので、くれぐれも内部資料に留めてくれと頼んだ。エレナは、モデルになった気分ですわ、とノリノリで応じていただけに心配になる。ブリギッタが本気になれば、国中の宣伝に使われてしまうからだ。

式の後は自宅に移動して祝杯を挙げた。
アンナの夫のガリオンは、夫人より陽気な人物で酒も入ってひと際上機嫌だった。
「あの坊っちゃんが結婚とはなぁ。しかもこんな美人のお嬢さんをもらうなんて。あぁめでたい、めでたい。」
「だから坊っちゃんはやめてくれって…」
智己の父の昭孝と共に働いていたので、智己のことは赤ん坊の頃から知られている。むしろアンナよりも付き合いは長い。
不破ヨーロッパの取締役等をつとめたが、現在は顧問の肩書だけを残して現場からは遠のいていて趣味のトレッキングをしたり庭いじりをしたりして過ごしている。まだ老後というには少し早いが、妻が智己についてウィーンへやってくることになったのを機に生まれ故郷に近い場所でゆっくりと腰を据えたいと思ったのだそうだ。

エレナの事情を聞いて、忠利と面識のあった彼は、さもありなんという顔をしていた。昔日本にいたときに、澤野の家に取り入ろうとする者が美女をあてがおうとしていたのを目にしたことがある。目を付けられては困る、と澤野が関わる場に娘を出さないようにしている家もあった。ロシア人の妻と結婚して大分なりを潜めたと聞いていた。
「お母上が亡くなっていたとは。残念なことです。」
「母をご存じですの?」
「パーティーで何度か。忠利氏が自慢して回ってましたからね。もの静かで控えめな方でしたな。」
「母は猫を被るのが上手かったんですの。」夫からの貢ぎ物をせっせと換金して財テクに勤しむのは物静かで控えめな妻がやることではない。
ガリオンは、母親譲りの美貌に、生きていくためと暇だったから、という理由で身に着けた豊かな教養を兼ね備え、コロコロと笑う様子は愛らしく、これは坊っちゃんが夢中になるわけだ、と納得した。
二人からお礼に、と智己とエレナは『乾杯の歌』を弾いた。昨日二人で練習したのだ。ピアノを弾くのは久しぶりだったので、音量を合わせるのが精一杯だったが、エレナが合わせてくれて、何とか弾きこなした。ドレスなので肩が動かしにくいと言っていたエレナだが、聴衆が居ればそれだけ盛り上がるらしい。生来の出たがり屋の性格が顔を覗かせる。美貌の花嫁が踊り出さんばかりに奏でる音に、わずかばかりのゲストは、この上なく華やかで贅沢な気持ちになった。

夜も更けて会がお開きになったとき、帰り際のブリギッタからエレナは紙袋を渡された。
「第二のウェディングドレスよ」
エレナにだけ聞こえるように囁いて、にっこりと笑った。

アンナは智己にコーヒーを、エレナに紅茶を煎れてから帰宅した。
ハースアンドハースのサニーアイランド。柑橘系の紅茶を好むことを聞いてアンナが用意してくれた。オレンジの皮が入った爽やかなセイロンティー。南国果実の甘い香りもする。

その夜、エレナは智己に伝えておくべきことがあった。
「結婚」なんて手続きだけで十分だと思っていたし、澤野家にその事実さえ突きつければそれでいいと思っていた。
でも…、気づいたことがある。

「わたくし、お礼を申し上げなければなりませんわ。」
智己がどうした。という顔をしてデミタスカップを置いた。
「ここまでしていただけるとは思っておりませんでしたの。式とか、衣装とか、指輪とか…」
あぁ、そのことね、と智己は納得したようだった。
「僕が勝手にやったことだから、気にしなくていいよ。ブリギッタに話をつけるのはアンナがやってくれたしね。」
「アンナの手際は見事でしたわ。…でも、わたくし、ドレスを身に着けて、誓いを述べて…嬉しかったのです。日本を出るときには、澤野から逃れられるなら誰と結婚してもいい、と思ってましたの。」
あぁ、そうだった、と智己は思い出したくないことを思い出した。そうだ、彼女は結婚してくれるなら誰でもよかったのだ。
「でも…、あなたにお願いして良かったですわ。」
そう思ってくれるなら良かった、と智己はエレナを抱き寄せ、髪を撫でた。

「智己様…好きです。」

 思いがけない告白に智己は目を丸くした。心臓の鼓動が速くなる。

 驚いた表情を見てエレナは申し訳ない気分になった。
「多分、橋の上で出逢ったときから。」
智己はエレナをきつく抱きしめた。エレナも腕を伸ばして抱きつく。胸に頬が押し付けられる形になり、彼の心臓の振動が伝わる。
「エレナ…。僕もだよ。」
「え?」腕の中のエレナが顔を上げる。
「僕も君が好きだ…グラーベンで見たときから。」
「ほんとうに…?」
「ああ。」
「綺麗だと思った。魅力的で…。どこの誰だか知りたくて、話しかけたくて探したんだ。橋で見つけたのは偶然だけど。」
「うれしいですわ…。わたくしは身も心も委ねてよろしいのですね。」エレナはうっとりとする。智己は恍惚を覚えた。
「でも…。わたくしが必要でなくなったら、いつでもおっしゃってください。あなたの邪魔にはなりたくないのです。」

 エレナはわかっていない。自分がどれだけ執着されているのか。智己はもはやエレナを離すつもりはない。
エレナが好意を向けてくれたのは嬉しい。だが、もっと求めて欲しいと智己は思った。自分は好きだのという段階はもはや超えて、執愛というところまで来てしまっている。彼女にもここまで来てもらわねば。
幼い頃からあらゆることを分かりすぎるくらいに分かっていた。好奇心の赴くままあらゆるものを手に入れた、というよりは簡単に手に入った。生まれながらにして地位も財産も誰もが羨む容姿も持っていたし、人生なんてこんなものだろうと思っていた。諦観。家業ではあるが仕事はやりがいがあるし、趣味もあるし楽しいと思えることもあった。だが、それらは全て表面的なものだったと気づかされた。仮初を生きていたのだと今ならわかる。そう、死んだように生きていた。
エレナと出逢ったときの衝動、それは紛れもない生への衝動だった。彼女は自分に生を与えてくれた。

「そんなことがあるはずがない。君はもう僕の妻なのだから。こんなに美しくて…」
エレナの頬を手指の背で撫でる。
「色々と…相性も良いみたいだしね。」
「そんな…美しいなんて…」
そっち?と智己は思った。
エレナは、「ええ、そうでしたわね。」と頷く。だがその瞳には陰りが残る。
智己はそれを振り払うようエレナの頬に手を添え、甘い口づけを落とした。

 智己が目覚めたとき、右腕の中の妻はまだ可愛らしい寝息を立てていた。
長いまつ毛に縁どられた双眸は閉じられ、薄い薔薇色の唇がほんの少し開いている。そのまま貪りつきたいのを何とか我慢した。
エレナのこげ茶色の髪を撫でる。ふわふわと柔らかく、緩いウェーブを描いている。
一筋髪を掬ってくるくると指先に巻き付けて弄んでいた。ふと見ると根元の方は色が薄くなっていて黄金色になっていることに気づいた。
 エレナがうぅんと身を捩る。起こしてしまったらしい。
青灰色の瞳がとろんとしている。長いまつ毛をぱちぱちとさせた。
「起きてらした?」
「寝顔を見ていたよ。」
「わたくし涎を垂らしていなかったかしら?」
智己は思わず吹き出した。
「大丈夫だよ。それに涎くらい構わない。
あぁ、今気づいたんだが髪の根元が金色になってる」
「日本を出る前はバタバタしましたから1か月近く染めてませんわ。」
「そうか、これが君の地毛か。綺麗なブロンドだ。」
「長く自分の地毛を見てませんから今どんな髪色かわかりませんの。小さい頃はブロンドで。日本にいるとブロンドの子はどうしても目立ちますからずっとブラウン
に染めてましたの。」
「それは随分傷むんだろう?もう必要ないんだから戻すといい。」
「でも…」エレナは言いよどむ。
「ご両親とか…気にされない?外国人と結婚する上に、どうしても派手になりますわ。」
あぁそうだ、連絡しなければ、と智己は面倒を思い出した。
「別に気にしないよ。姉が髪を赤くしたときも面白がっていたし。
結婚相手は人間であればいい、くらいのものだよ。あぁ君を見たら妖精と結婚したと思われるかもな。」
まぁ、とエレナは頬を赤らめた。

日本の実家に電話をすると、使用人頭の内田が出た。父は仕事で出ていて、母が在宅していた。
「あら、智己さん、珍しいわね。どうかした?」
「ええ。結婚しましたのでご報告を。」
「ああ、そう。結婚、……した!?」
「はい。」
「はい、ってあなた、この間帰ったときにはそんなこと一言も…」
「三日前にあったところですからね。」
「三日前!?……随分思い切ったわね。」
「ええ。逃げられたら困ると思いましてね。兄さんの二の轍は踏みませんよ。」
兄は二年ほど付き合った女性に婚約寸前で逃げられた。紆余曲折の上結婚できたのだが。
「……それもそうね。よくやったわ。」
跡取り息子が嫁を逃しかけたのは苦い記憶だ。
「で、彼女を…妻を紹介したいんですが。カメラ切り替えられますか。」
「え!? あ…そうね…ちょっと待って。化粧直してくるから。」
母の紫乃は、旧華族の血筋を引く生粋のお嬢様である。深窓の令嬢がそのまま旧家に嫁いだので、60を過ぎたというのに少女のような純粋さを残している。

「まぁぁ…!智己さんあなた妖精さんと結婚したの?」
パソコンの画面越しに挨拶をしたエレナを見て、紫乃は歓喜の声を上げた。さっき二人で話していた通りの反応で、顔を見合わせて笑う。
「智己の母の紫乃です。遠慮なく母と呼んでね。」
「ありがとうございます。お母様。」
上品な和風美人。黙っていればとっつきにくそうに見えるが、優しそうな方だとエレナは思った。
「それで、いつ日本に来れるの?お父様にも顔を見せて差し上げてほしいの。」
「来月になりますよ。クロアチアの仕事がありますから。」
「そう。じゃあ色々準備しておくわ。」紫乃は楽しそうに言った。
「手続きがありますから佐伯を帰国させますから彼から聞いて下さい。」
「わかったわ。」
紫乃にとって智己は10年の間を開けて久しぶりに生まれた子であった。専属のシッターがついての子育てであったが、上の子供2人を産んだ若いときには余裕もなく、今度はゆったりと子育てをしようと思っていたのに、産まれた子は非凡な才を持って生まれてしまい、早々に手放さざるを得なくなった。
学業は早熟だったが、環境故か精神的にも早熟というよりは老成してしまい、恋というものとは無縁で来てしまっていることを心配していたが、出会ってすぐに結婚を決めるようなそんな情熱があの子にあったのか、と驚きつつも母としては嬉しかったのだ。
紫乃は通信を切った後、いそいそ準備を始めた。次男夫婦の滞在中の部屋を設えないと…。でもあの子の部屋は二人だと手狭ね。いっそ改装しましょうか。インテリアも揃えて…などと本人たちの想像もしない大がかりな計画が進みだしていた。

 不破智己の腹心の秘書である佐伯正人は、電撃結婚した上司の日本での婚姻手続きのために帰国していた。
明日はFUWAコーポレーション社長直々の呼出しを受けているので、赤坂の不破本家に伺うことになっている。根掘り葉掘り聞かれる覚悟はできている。だが、佐伯にはその前に訪ねておくべき場所があった。

丸の内の三十階建てオフィスビルの一角にある弁護士事務所。代表弁護士一人とアソシエイト一人、パラリーガルが一人の小さな事務所で、上司の新妻の名を出せばすぐにアポイントをとることができた。約束の時間丁度に事務所に行けば、代表弁護士の田島健司が直々に迎えてくれた。こじんまりとした簡素なオフィスで、一般の事件を扱っていないのは明らかだ。田島は50過ぎの細面で痩せていた。白髪の混じった髪をきちんと整え、鋭い目をしていて、遣り手の風情をしていたが、年若い佐伯にも礼儀正しかった。

「そうですか。エレナ様が…。いや、こんなにも早く結婚されるとは思ってませんでしたが。しかも不破家とは…。さすが、エレナ様といいましょうか。」田島は相好を崩す。
「何故エレナ様に手を貸されたのです?しかも非合法な手段まで使って。澤野忠利の懐刀といわれるあなたが。」
田島はコーヒーを一口飲んで、カップを置いた。
「母上のユリヤ様に恩がある、という話は?」
「ええ。ですが具体的なことは。」
「まぁエレナ様にも詳しいことは申し上げてませんがね。
 私が、というより私の妹を助けていただいたのです。私にはどうしようもありませんでしたから。私は、忠利様に、というか澤野に逆らうことはできません。あぁ、あなたはお若いから澤野の先代のことはあまりご存じないでしょうが…」
田島の父は、忠利の父の運転手を務めていた。忠利の父忠元は、愛人の夫に刺されるというショッキングな亡くなり方をしたので、亡くなる直前の出来事はほぼ忘 れ去られている。
忠元が亡くなる1年前、澤野から、時の大臣や官僚に対する巨額の贈収賄疑惑がもち上がった。海外進出への便宜を図る見返りに、料亭で数千万円の現金が授受されたのではないか、というものであったが、大臣も、忠元もその時間にその場所に行ってはいない、と言い張っていた。重要な証人となるべきだったのが、運転手田島の父だったわけだが、捜査の手が及ぶ直前に睡眠薬の過剰摂取で死去している。その後疑惑はうやむやのまま闇に葬られた。
 当時健司は高校生、妹の友香はまだ小学生だった。田島一家の生活は澤野に支援された。結婚以来専業主婦だった母の生活を変えることなく、学費の安くはない私立の中高一貫の進学校を卒業した後、有名私大を卒業できたのも、友香が澤野の令嬢と同じ名門女子校を卒業し、名門私大を卒業できたのも、澤野の支援のおかげである。健司は大学在学中に司法試験に合格し、その優秀さを買われてSAWANOに入社して、忠利の右腕として働いた。今は専属の顧問弁護士となっている。妹の友香もSAWANOに入社している。
「それがなぜエレナ様の母上に救われるような事態に?」
田島は深いため息をついた。
「…忠利様が友香に目を留められましてね。…忠利様は目的のためなら手段は選ばない、という人です。妹には交際している人間がいましたが、男の方に圧力をかけましてね。別れさせたのです。そして妹は忠利様に付いて、というより社命でアメリカに行きました。そこでユリヤ様と出会われたのです。」
初めて出逢ったときから、忠利はユリヤに執心した。ユリヤは幼い娘との倹しくも平穏な暮らしを望んでいたが、自分と歳の変わらない友香が恋人と引き離され女性として最も美しい時期を忠利に囲われて過ごすのを見過ごすことはできなかった。自分と結婚したいのなら、女性関係は全て清算するように迫ったのだ。
ユリヤのおかげで友香は忠利の元を離れることができ、現在は結婚して家庭に恵まれている。
 「妹が忠利様を拒否できなかったのは、私が澤野の世話になっているからです。当時私は若く、仕事に精一杯で友香の身に起こっていることに全く気付きませんでした。友香も何も相談してくれませんでしたし、私も無力で何もできなかったでしょう。ユリヤ様のおかげで友香は救われました。ですから、ユリヤ様のためなら何でもして差し上げますと申し上げていたのです。…本当ならエレナ様を早く国外に出して差し上げるべきでした。目立たぬようにしているから大丈夫だ、とおっしゃってましたが、やはりユリヤ様のお子様ですからね…。」

 エレナの学生時代の写真は佐伯も見ていた。ヘアスタイルとメイクであの美貌をよく隠していたと思う。だが、彼女の魅力はその立ち居振る舞いに現れている。それはどんなに偽っても偽り切れないのだろう。
「エレナ様はあの家で息を潜めて生きてこられました。非凡な才をお持ちなのに、お好きなヴァイオリンも諦めてしまわれました。やっと国外にお出しできて私もほっとしているところです。」

だが、エレナのことを探している人物がいる。それを伝えると、田島は眉をひそめた。
「え?…ウィーンでエレナ様を探している人間がいる…?まさか…。こんなに早く?調査部が動いている様子はないんですがね…。ご友人のところに行かれていると、皆さん信じていると思うんですが…。私の方でも調べてみます。そうですか。安心していられないわけです。それで結婚を急がれたわけですか…。」
 この様子だと本当に知らないようだ、と佐伯は思った。

田島は佐伯に頭を下げて懇願した。
「どうかエレナ様をお守りいただきたい。澤野の家から離れて自由に、そしてお幸せになっていただきたいのです。」
佐伯は田島が心底エレナのことを考えて動いているのだと確信した。そして田島を安心させるように言った。
「智己様は全力でお守りすると約束なさっています。」
良かった、と溜息をついた田島は心底ほっとした様子だった。

 FUWA創業本家の御曹司が、たった4日間の休みのうちに結婚相手を見つけて式まで挙げたというニュースは、国内外を問わず、社内を静かに、しかし熱く沸かせていた。
智己が支社長を務めるウィーン支社の人数はそれほど多くはなかったが、欧州各地から精鋭が集められていた。自分がお相手になれるとは思っていなくとも、目の保養としての役割は
大いに果たしていたので、女性社員は一様に沈んだ顔をしていたし、誰なんだ、どんな人なんだ、と秘書の佐伯は社内のあちこちで聞かれた。
かなりの美人らしい、若いらしい、という程度の話は回っていたので、佐伯は、どこから漏れたのだろうか、と訝しんでいたが、どうやら情報源は高瀬らしく、そんなことでセキュリティ部門のトップが務まるのだろうかと心配になった。

 当の智己は休暇明けに出社をして、デスクに座るやいなや、
「帰りたい。」と言い、日本から戻ったばかりの佐伯をあきれさせた。
「今いらしたところですよ?」
「エレナに会いたい。」
「朝、家でお会いになりましたよね?」
「足りない。帰りたい。」
いい大人が子供のように駄々をこね始めたので、未決の赤い表示がずらりと並んだ画面を見せ、
「これを全部片づけてくだされば帰ってもいいですよ。」と言った。
智己は深いため息をついて、画面に目を遣った。
「だいたい。慶事休暇が2日っておかしくないか?兄貴はハネムーンだとか何とか言って2週間は休んだよな?」
「孝己様は1年前から予定されてましたからね。智己様はあまりに急でしたから。」
「俺も休みが欲しい。」
佐伯は呆れた声で言った。
「わかりましたよ。どこかでまとまった休みがとれるようにしますから。」
「言ったな?」
智己は溜まっている仕事に取り掛かり始めた。
上司が手を動かし始めたので佐伯はふぅっと安堵の溜息をついた。

「この前まで女性は面倒だのうるさいだの、香水臭いしか言ってなかったあなたが、こうなるとは思わなかったですよ。」
「エレナは話していて楽しいし、いい匂いがするが?」
「…骨抜きですね。」
「まぁ、反応の予想がつかないというか、見ていて飽きないな。」
「はぁ…左様ですか。」長い付き合いになるが、こんな惚気っぱなしの上司を見るのは気持ちが悪い。

「そういえば」
思い出したように智己が言った。
「しばらくこちらにいるならドイツ語を話せるようになりたい、というから会話集とか辞書を貸したんだ。」
「あぁ、すみません。ご用意するべきでしたね。あれ?式の時とか…話されてませんでした?」
佐伯は訝しがった。
「ここへ来て1週間くらいでなんとなく聞き取れるようにはなったんだそうだ。」
「で、しばらく辞書とテキストを眺めてるな、と思ったら、昨日から俺とアンナに全部ドイツ語で話せって言われて、夜にはちゃんと会話できてたな。」
 尋常でない速さで習得したというのだ。
エレナはどこの国に行っても困らないようにと、語学は真剣に学んだので、英語とフランス語、スペイン語、中国語、そしてロシア語が話せる。
耳が良いのも幸いして智己ほどではないにせよ、常人とはけた違いの速さでドイツ語をマスターした。智己やアンナにも協力してもらってなるべくドイツ語で話してもらったのも大きかったが、智己が面白がって猥雑な言葉を仕込もうとしてくるのは問題であった。
「…ギフテッドということですか。智己様と同じですね。」
「そういうことになるか。」
「才能をそのままにしておくのはあまりに勿体ないですが。」
「エレナの場合は、興味と必要がないと動かないタイプだ。ヴァイオリンで身を立てるつもりだったそうだが。」
「あまり音楽に造詣はないのですが、この間の演奏は素晴らしかったです。」
「ソリストの素質は十分にあると思ってる。ウィーンにいれば学校にも通えるだろ。うちの財団のこともあるしな。」
祖父母が興した不破の音楽財団は、現在母の紫乃が理事をしている。
「ただ…澤野の件を片づけないとどうにもならない。」
「色々探ってはいるのですが、まだ奥様のことを探していた男の正体は分かっていません。ですが、こちらから澤野に知らせるか、挨拶をする必要はありますよね。」
「挨拶、ね。義理の娘を愛人にしようとしていたんだ。それなりの仕方を考えないとな。」
智己は苛立たし気に言った。
「それは…当然ですね。」佐伯も大きく頷いた。




  
 エレナは若干暇を持て余していた。今日は智己が出社している。家のことをやろうかと思ったが、アンナに自分の仕事を取るなと言われ、散歩に行こうとしてもまだ護衛が来ていないので一人では危険だと言われ、それも確かにそうだと思ってソファにもたれかかる。折角澤野で家政婦の克子に教えてもらって家事もできるようになったのだが。
ヴァイオリンの練習は3時間半と決めている。これ以上やると手を傷めるのが分かっているからだ。
 さて何をしようかと考えてふと、やりたいことがあったのを思い出したので、アンナに聞いて冷蔵庫や戸棚をあさり始める。

 夜、智己が家に帰ると、ダイニングから香ばしい、おいしそうなにおいがした。
茶色の長い髪を髪を一つにまとめて、白いエプロン姿のエレナが迎えてくれる。アンナに借りたらしいエプロンはフリルがついていて、細い彼女が着るとふんわりとドレスのように見えた。
「いい匂いだね。」
「そうでしょう?ピロシキを作りましたのよ。」
「ピロシキ?」
「母のレシピですの。」
ロシアの有名な伝統的な家庭料理。小麦粉で作った生地をこねて、中に肉や野菜を餡にして焼くのだ。
揚げたものが多いが、エレナの作ったものはオーブンで焼いたものだった。
「揚げてないんだね。」
「母はオーブンで焼いてましたわね。バレリーナでしたから。普段は食事制限がきつかったみたいですけど。たまのご褒美だったみたいですわ。少しでもカロリーを抑えようとしていたからかもしれませんわね。」
「カリカリしておいしい。中の餡も味がしっかりしていて合うね。」
自分の料理をおいしく食べてもらえるのは素直にうれしい。
「そっちは?」エレナの食べているものを指す。
「こちらは卵のフィリングを入れましたのよ。召し上がります?」
うん、と言ってエレナの手にあるピロシキにそのままかぶりついた。
必然、あーん。の状態になり、エレナは恥ずかしくなったが、智己は口の端についた中身を親指で拭ってそれをなめとった。
「こっちもおいしい。」ニッと笑う仕草に心臓の鼓動が激しくなる。
アンナがあらあら、仲のよろしいこと、と微笑ましく見ていた。
智己は空腹だったこともあって、4つをぺろりと平らげた。
「弟に会うときには作っていこうと思いますの。あの子はジャムが入ったものが好きですわ。」
「お菓子のようなものもあるんですね。それも食べてみたいですねぇ。」と6個目に手を付けながらアンナが言った。

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