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ウィーン旧市街の一等地に建つ5階建ての広いアパートメントであるが、智己とエレナの身の回りの世話を任されているアンナがほぼ一人で管理をしていて、他に智己のボディーガード兼運転手のレナードが住み込んでいるだけである。
智己自身は身の回りのことは一通りできるし、アンナも家庭があるので、基本的には10時17時で通ってくる。智己はウィーンに来てからは、朝はカフェに行くのが日課になっている。有名どころや小さなところなど日替わりで回って、ようやく気に入った店を数件見つけたところである。
朝は果物と紅茶かコーヒーくらいしか口にしないことも多いエレナであるが、智己と出掛けるのは嬉しい。
今日は市立公園の一角にある智己が気に入っているカフェの一つ、カフェ・アム・ホイマルクトである。典型的なウィーン風カフェであるが、旧市街と離れていて、静かで隠れた場所にある。店内にはビリヤード台があって、少し古めかしい感じはエレナの好みであった。
「素敵なところですのね。」
「会社の人間に聞いてね。自分で調べたり、飛び込みで行ったりもするけど。人に聞くのが確実だよ。何も知らずにカフェ・サヴォイに行ってしまったからな。」
「そのカフェに何かありますの?」
「…ゲイ御用達なんだ。」
トルテは日本のサイズなら優に2人前はありそうなサイズではあるが、智己は朝からこれをぺろりとたいらげる。
「・・・沢山めしあがりますのね。」
「うん? 君も一口どう?」
エレナは首を振る。甘いものは嫌いではないが、朝からその量は無理だ。
「母から砂糖と油には気を付けるように言われてますの。体質的に太りやすいから、と。」
「別に君が3Lサイズでも気にしないけど?」
「・・・わたくしが気にします。というかどうしてそれだけ召し上がってお太りになりませんの?」
「うーん。山に登るための体力作りは欠かさないようにしてるけど・・・。筋トレとか一応してるでしょ?」
アパートメントにはトレーニングマシンをいくつか置いた部屋がある。前の住人がダンサーだったとかで鏡張りになっているので、エレナも母に習ったバレエストレッチをしたりもしている。
「ロサウア・レンデンにいらっしゃるつもりかと。」
ドナウ運河のロサウア一帯はマッスル・ビーチの異名があり、筋骨隆々の若者が懸垂回数を競うバトルをしている。
「やめてくれ。そこまでのものじゃない。」智己が苦笑する。
マッチョというわけではないが、引き締まった細身の身体は女性だけでなく男性から見ても溜息ものだ。エレナ綺麗に割れた腹筋を撫でるのが好きだし、それはカフェ・サヴォイで注目されたことだろう。
智己はエレナに断られた一切れを自分の口に運んだ。
「糖分摂取量が多いのは昔からだ。それだけ脳が活動してるってことだって医者には言われたな。」
ギフテッドと呼ばれる彼の脳は普通の人よりも活動量が多いらしい。それだけ糖分を必要とする。
いくら甘いものを食べても太らないなんて羨ましいですわ、とエレナはソイミルクだけを入れたカフェを飲みながら言った。
「そういえば、クローゼットにアウトドア用品がいっぱい詰まっていましたわ。こちらでも登山をなさいますの?」
「アメリカにいたときにはカナディアンロッキーとかヨセミテとか登ってたけどね。こっちではアルプス縦走したり。」
「・・・それって何時間くらいかかりますの?」
「2泊3日ってとこかな。」
「・・・ジュニアハイのときにバスで富士の五合目に行っただけのわたくしには想像もつきませんわ。」エレナはため息まじりにいった。
智己は、ハハッと声を立てて笑った。
「夏は登山で冬はスキーだな。夏の間にどこかに行きたいとは思ってるんだけど。チロルとかどうかな。ショートコースもあるし、何ならゴンドラに乗ってもいい。山小屋の食事は美味しいし、星空が綺麗だ。」
智己のプレゼンはエレナに響いたようで、顔が輝いた。
「素敵ですわね。ご一緒しますわ。」
断られるかな、という思いが半分あったが、意外に乗ってくれたので智己は嬉しくなった。
「じゃあ、今度登山用品を揃えに行こう。」
こうして夫妻の週末の予定は着々と埋まっていくのだった。
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ゆっくりと朝食を済ませた二人はカフェを出た。智己のボディーガードのレナードとエレナに新しくついたボディーガードのヒルダの二人が付いて歩く。
カフェ前の通りを真っ直ぐ1ブロック歩いて右に行けばFUWAのオフィスがあるので、その角でハグをして別れる。もっとも、ハグだけで済まないことの方が多いのだが。
店を出てから智己は言葉少なだった。少し不思議に思ったが、いつものその角に差し掛かったのでエレナは立ち止まりかける。しかし智己がエレナの手を取り、耳元に口を近づけて低い声で言った。
「走れ。」
角を曲がると同時にぐいと手を引っ張って智己は駆け出した。訳が分からないまま必死で付いて行く。後ろを見るとレナードとヒルダが一人の男の前に立ちふさがっているのが見えた。途中足がもつれそうになりながら、1ブロックほど必死に走り、そして細い路地に入る。智己はまだ余裕があったが、それでも多少息が上がっていて、エレナはすっかり肩で息をしていた。
両手を膝について、身体全体で酸素を吸いこみ、切れ切れの声で聞いた
「いったい・・・なんですの?」
「尾行されている。」
「え?」
「カフェを出たときからだ。」
全く気付かなかった。
「レナードとヒルダが捕まえただろう。相手は一人だ。プロではないとは思う。」
世界的大企業の御曹司として幼い頃から護衛がついた生活をしてきた智己は自らも護身術を身につけ、護衛対象としての対応方法を熟知している。レナードとはアイコンタクトだけでとっさに対応した。
智己は路地の奥にエレナをやり、通りの様子を伺う。
「わたくしを訪ねてきた男でしょうか・・・?」
エレナは不安気に智己のジャケットの袖をぎゅっと掴む。
「うーん。君かもしれないし、僕かもしれない。大丈夫だ。こういうときのために彼らがいるんだから。」
智己はエレナを安心させるように背中をポンポンと叩いた。
道の向こうからレナードとヒルダに引きずられるようにして男が連れられてきた。レナードが男の両手を後ろで掴んで捻り上げていて男は苦痛の表情を浮かべている。年の頃は40代くらい。こげ茶の髪に緑の目。張りのあるリネンのジャケットにスラックスという小奇麗な身なりでビジネスマン風情。穏やかな顔立ちで、およそ人を尾行するような人間には見えない。
「ボス、捕まえました。何も持っていません。」
「・・・何者で、何の用だ。」智己がドスの聞いた低い声で言う。
離してやれ、と言われたのでレナードが男を捻り上げていた手を緩めると、男は手を振り払った。
「・・・ケビン・ブルックス。そちらのお嬢さんに用があります。」
「わたくし・・・?」
智己の背後に庇われていたエレナは、名指しされて身を固くした。
ケビン・ブルックスと名乗る男は、ベージュのリネンのジャケットの裾を払って整えると、内側のポケットからビジネスカードを取り出し、エレナに差し出した。
そこには、彼の名前と、「Canon Music」アーティストマネジメント部部長の肩書と記されていた。イギリスの名門音楽レーベルである。
2
自宅アパートメントの下層階はオフィスとしての機能を持たせていて、仕事部屋と少人数の会議室などがある。その中の応接室でケビン・ブルックスは話し始めた。
「後をつけるような真似をしてすみませんでした。先月、グラーベンであなたの演奏を聴きました。とても素晴らしかった。
ぜひとも話をさせてもらいたいと思って、どこの演奏家かと思って調べたのですが3日ほどの滞在では見つけられなくて・・・。あなたの写真を持ってホテルやカフェで聞き込みをしてたんです。昨日また仕事でウィーンに来て、あのカフェに似た人を見たと聞いたので、今日待っていたのです。」そう言ってケビンは頭を下げた。
「いや、こちらこそ手荒な真似をして済みませんね。仕事柄身の危険には敏感でして。」
エレナは自分を探していたのが澤野の関係者でないと知って心底ほっとした。
「・・・エレナさんはあの、FUWAの奥様でしたか。Ffの創業者でもいらっしゃるとか…。いや、私のスマートフォンもffですよ。」ケビンは鷹揚に笑った。細身ですらっと高い身体をソファに預けている。人の良さそうな笑顔に、大柄な割に威圧感のない柔らかな物腰はいかにも遣り手の営業マンと言った感じである。
ところで、とケビンは一転真剣な表情になる。
「エレナさんは日本で既にデビューを?それとも学生ですか?」
「いいえ。ただの愛好家ですの。音大も行っておりませんわ。そもそも舞台に立ったこともございませんの。」エレナは肩をすくめた。
ケビンはまさか、という顔をした。
「…あれほどの腕をお持ちでアマチュアですか?あ…表に出るおつもりがない?」
智己とエレナは顔を見合わせる。エレナは少し考えて話し始めた。
「ヴァイオリンで身を立てたいと思っていたこともありますわ。でも実家の事情で進学を断念しましたの。」
エレナは家の事情をかいつまんで話すことにした。
「成程…」ケビンは腕を組んで手で口を覆って考え込んだ。
「日本にいるときにはどなたに師事を?」
「大崎良子先生とおっしゃって、カーティス音楽院をお出になられた方でしたわ。SAWANOの取締役の方の縁戚で。その伝手で10年以上教えて頂いていたのですけれど、わたくしが芸大に合格したことがおばあ様のお気に障って、大崎先生も辞めさせられてしまいましたの。それ以来お会いできてませんわ。」
「リョウコ・オオサキ…。イザイ門下にいたリョウコ・ミズサワですか?」
「ええ、先生の旧姓ですわ。ピアノもやられていて、元々は義姉のピアノ教師でしたの。義姉はあまり熱心でなくて授業をすっぽかすことが多くて。それでわたくしが教わりましたの。最初はピアノでしたけれど、父のヴァイオリンがどうしても弾きたかったのです。わたくし、何時間でも弾いていられましたの。先生もとても熱心に教えて下さいましたわ。きっとソリストになれるといつも励ましてくださいましたの。我慢の多い日々でしたけれど、先生の言葉にどれだけ救われたことでしょう。自分の持てるものは全て教えたとまでおっしゃって下さいました。」
エレナには才能があると言ってくれた。技術も理論も叩き込んでくれた。死んだ父に教わることはできなかったが、父と同じようにヴァイオリンで食べていけるかもしれない、澤野の家を出られるかもしれないというのはエレナにとっての希望だった。
「彼女は門下でも際立って優秀な学生だったと聞いています。キャリアを断念して日本に帰ったというのは聞いていましたが。」
「…ご実家の事業が傾いたと聞いていますわ。それで澤野の援助を得るために日本に戻られたそうです。今は音大の職を得られたと伺ってますわ。」
「そうでしたか…。あのミズサワ女史がご自分の知識と技術を全て伝えたとおっしゃったなら、実力は保証されたも同然です。
あの…もしよければうちのレーベルと契約をしませんか?」
「…はい?」
あまりに突然の申出にエレナは目を丸くした。何の受賞歴もない、全くの無名の人間とレーベルが契約しようなんて聞いたことがない。
「専属契約ということですか?」それまで黙って聞いていた智己が口を挟む。
「ええそうです。実は…あの演奏が動画サイトにも上がっていましてね。再生回数もそれなりに伸びている。演奏動画ですから顔がはっきりわかるものではないですが、音楽関係者の間では話題になっています。探している人も少なくありません。私自身もあなたのテクニックと響きに魅了されました。しかも容姿も抜群ときたもんです。放っておくわけにはいきません。」
ケビンは力を込めて話した。やっと見つけたのだ。絶対に契約を取り付けるのだ、という強い意志があった。
「でも…わたくし、何の経験もございませんのよ?子供向けのコンクールすら出てませんの。」
「心配いりませんよ。そういうものは後からいくらでもつけられます。まぁ…そうですね。ワークショップにでも参加してみませんか?」
「ワークショップ?」
「ええ。誰でも参加できる類のものですが、一流の教授陣が参加しますから、大学入学への足掛かりにすることもできますし、優秀であればクラスを受講することもできますよ。」
「まあ…!素敵。わたくしもぜひ教わりたいですわ。」
エレナが目を輝かせて智己の方を見る。
「もちろん。行ってくるといい。」
「ここはウィーンですから。この時期はワークショップとか短期レッスンが沢山開講しています。よろしければ私の方で申し込みをしてもいいですか?」
実際のところケビンは、道端のヴァイオリニストを見つけた場合に備え、デビューのための道のりをいくつもシミュレーションしていた。どこかのオケに所属していたら、学生だったら、と考えていた。誰に引き合わせるべきなのかは既に頭の中にある。
「お任せしますわ。」
「あと…契約の件は…」
「エレナ、佐伯ならEU法にも精通している。任せたらいい。」智己が口を挟む。
「わかりましたわ。佐伯さんにお願いします。」
契約書はFUWAに回してもらうことにして、ケビンは、ふぅ、と息をついた。彼にしてみれば、偶然見つけた金の卵。他のレーベルや音楽関係者に先に見つけられやしないかと気が気でなかったのだ。今回の訪墺で見つけられたのは神の思召しに思えた。不審者と思われてボディーガードに手首を捻りあげられたことくらいどうということはない。直に話してみて彼女の身のこなしの美しさ、立ち居振る舞いの優雅さにすっかり魅了されてしまった。情感豊かで技術も伴っている。加えてその美貌。どう売り出しても売れる、そんな実感を確かなものとしていた。
「あの…会社に持って帰る資料にしたいので、何か弾いてもらえませんか?」
「構いませんわ。何がお好きですの?」
「ええと…バッハとか。」
「…難しいことをおっしゃいますわね。」エレナは苦笑いをする。ケビンは抜け目ないビジネスマンに見えて、素直な性格を時折垣間見せる。
「あ、いや…別のでも…」
「いいえ。やらせていただきますわ。」これは一種の試験だ、とエレナは覚悟を決めた。
父の形見のモダンイタリアのヴァイオリン。一介の楽団員であったエレナの父が買える程度のものであって、最高級といえるほどのものではない。だが、父娘が2代に渡って引きこみ、それまでに何人ものヴァイオリニストが手にしてきたこのヴァイオリンは、彼女の身体になじんで、一体ともいえるものであった。
そのヴァイオリンを手にしてエレナが弾いたのは、バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番シャコンヌ』であった。
何か弾いてくれと乞われたくらいで弾ける曲ではない。30もの変奏がある難曲中の難曲である。
だが、技巧も精神性も問われるこの曲を彼女は難なく弾きこなす。壮大で深淵。華麗で神秘。たった1台のヴァイオリンで世界を、いや宇宙をも感じさせる。ケビンは軽い気持ちで頼んだことを後悔し、ジャケットの襟を正し、ソファに座りなおした。スマートフォンの動画でなく自社が誇るロンドンのスタジオで録音するべき音だ。ケビンは神に祈りを捧げるような敬虔な気持ちで聞き入った。
智己はエレナが時折一心不乱にこの曲を弾くのを聞いていて、はじめは度肝を抜かれたものであるが、このところは慣れてきて、どうだ、うちの妻はすごいだろう、と誇らしげな気持ちでいたのだが、次第に聞き入っていた。
15分ほどあるこの曲を弾き終えて、エレナは、
「あぁ、指が疲れますわ。」などと言ってプルプルと手を振った。
先ほどとは打って変わった気の抜けた様子に、ケビンも智己も思わず声を立てて笑った。
3
智己が仕事をする時間は常にバラバラである。ウィーン支社長だけでなく、FUWA本社とFUWAヨーロッパの取締役、そして自ら興したffの取締役という肩書もあり、ヨーロッパ、日本、アメリカのそれぞれの時間で動いているために、夜も明けきらないうちに会議に出なければならないことも少なくない。
今もアラーム音で目を覚まして、隣で寝息を立てている妻の首の下に差し込んで彼女が枕にしていた腕を、長いまつ毛に縁どられた瞼が開かないようにそうっと引き抜いた。カーテンの隙間から差し込む月の灯りに彼女の金色の髪が煌めく。長いまつ毛に美しく整った目鼻。僅かに開かれて寝息の漏れる唇は赤みがさして、息も止まりそうなその美しさに智己は見惚けた。白磁のような肌を指先で撫で、ほんのりと桃色に色づく頬にキスをして、寝台を出た。
シャワーを浴びて、会議前に資料に目を通さないとな、と思っているところにエレナが起き出してきた。素肌にバスローブを羽織っただけの姿は、今から仕事をしなければならない彼には若干刺激的すぎた。
「起こしちゃったかな?」
「大丈夫ですわ。コーヒーを煎れましょうか。」
「ありがとう。仕事場に行ってるから持ってきてくれる?」
エレナを連れてベッドに戻りたい気持ちを抑えながら智己はそう頼んだ。
プライベートな居住空間となっているのはアパートメントの最上階部分で、下の階をオフィスとして使っている。智己の仕事場、小さな会議スペースも備わっていて、出社せずとも一応の仕事はここで済ませられないことはない。
階下のオフィスに降りてパソコンの電源を入れてメールのチェックや資料に目を通していると、エレナがウィンナーエスプレッソを煎れて持ってきてくれた。ウィーン流はミルクを添えることが多いが、目覚めには優しいアロマをそのまま味わいたくてミルクは添えない。そんな智己の好みをエレナはすっかり理解して、ユリウスマインルの赤いメランジェカップに多めに入れてくれる。
オフィスチェアに腰かけたまま、白いシャギーのパーカーにショートパンツの部屋着に着替えたエレナの手をくいと引いて太腿の上に座らせる。彼女を抱きしめて胸の辺りに顔をうずめると、エレナも智己の首に手を回して智己の髪を撫でる。
「…時間、よろしいの?」
「あんまり良くないな。」
だが、この時間があまりに幸福で手放す気になれないな、と2人とも笑いながら顔を離した。その瞬間、智己の鼻先に香ってきたのは、フローラルシトラスの香りとダークなウッド調の香り。いつものフローラルの香りだけではない官能的な香りを確かめたくてもう一度妻の香りをかぐ。
「エレナ、いつもと違う香りがする。」
くんくんと鼻を鳴らすようにかぐのがエレナは面白かったようで、口を開けて笑った。
「多分、昨日出してきたこの服ですわ。母の形見の香水をサシェにして一緒に袋に入れてましたの」
「母上の?」
「そうですの。父が昔にプレゼントしたものだそうですけど。20年以上経ってますから直接肌につけるのはよくないそうですわ。」
「そうか。いい匂いだ。」匂い立つ花の香りに柔らかな官能さが相まって堪らなくなる。
「お気に召して?でもアトマイザーに入っている分しかなくて。どこのものかもわかりませんのよ。」
エレナは済まなそうに言った。
「ふん…。じゃあマニアに頼もうか。」
「マニア?」
「姉だ。香水オタクでね。どこの博物館かと思うほどの香水を揃えている。彼女なら分かるかもしれない。」
それに、いい加減にエレナを連れて来いとせっつかれているし、そろそろ顔を出さねばならないなと智己は言った。
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パリ16区にある歴史と重厚感の溢れる高級アパルトマンの一室には、四方の壁面にぐるりと天井まで届く白い棚があり、棚の仕切りの一つ一つに香水の小瓶がディスプレイされている。さながら香水の図書館のようである。黒い革張りのソファに腰かけたこの部屋の主人は、真紅のマニキュアを施した白い指で、古い香水をしみこませた匂い紙を振る。
皐月・デル・ゲラデルスカは四十路とは思えない艶やかで腰近くまである黒髪に、首元にレースのあしらわれた真っ白のシルクブラウスに、黒パンツというシックな出で立ちで長い脚を組んで、足元には真紅のパンプスを履いていた。白い肌に整った顔立ち、切れ長の漆黒の瞳に見つめられれば男女となく魔法にかかったように見惚れてしまう。妖艶な魅力というよりも魔力のある女性であった。
エレナは、紙片を抓む白く長い指の動きから目が離せなかった。香りを確かめるために鼻を近づけて目を伏せるときのまつ毛の長いこと。胸の鼓動が速くなるのを感じていた。ふと隣の智己を見上げると、智己が笑みを返してくれる。そうだ、この人とよく似ているのだ。智己の線を細くしてごつごつした身体をしなやかにしたらこうなるのだろう。エレナは皐月に会って、自らの夫の恐ろしいまでの美しさを再確認した。思わずフフと笑みが漏れる。
「どうした?」
「いえ。智己さまがメイクをしたらお姉さまとそっくりになりそうだなと思いましたの。」
「…怖いことを言わないでくれ。」
「あら。あなたが小さい頃はスカート履かせたり私のメイク道具でお化粧したりして遊んだわ。」
「わたくしも留加にやりましたわ。」
「楽しいわよね。」
皐月は妖艶に笑った。
「写真あるわよ。後で見せてあげる。」
まぁ、とエレナは喜んだ。
「姉さん、頼むからやめてください。」
智己が頭をかく。まったくこの姉には一生勝てる気がしない。一回りも離れていればそれも当然か。
「それより、わかったわよ。」若干ハスキーな落ち着いた声で皐月が言う。
「本当ですか?」
母ユリヤの遺品。父が生前母にプレゼントした香水。海外に公演に出た時に買ったものだそうだが、アトマイザーに残っている分しかなく、20年以上も経っていて品質が変わってしまっていてどこのものなのか分からないのだ。
「残念だけど、もう廃盤になってしまっているわ。」
「そうですか…。」
随分昔のものだから仕方ない。予想していたことだ。
「でも、良いものがあるわ。」
そう言って、皐月は立ち上がって部屋一面にある棚のうちの一つから、ある小瓶を持ってきた。ミルキーピンクの瓶で、上部には白いリボンが結ばれている。
「まぁ、可愛い。」エレナは思わずそう言った。
「ペンハリガンのLUNAよ。嗅いでみて。」
皐月が匂い紙にオードトワレを吹き付けてエレナに渡す。その匂い紙を鼻先に近づけて香るビターオレンジ。そして繊細な花の香りからのダークなウッディ調の香り。
母の香水とは違う。だが、フルーティで官能的で、惹き付けられる香りのイメージが似ている。
エレナは紙片をそのまま智己に渡す。智己も同じ印象を持ったようだ。
「あの香水ではないんですよね?」
「違うわよ。最近出たもので全く違うものよ。」
「わたくしは好きな香りですが。シトラスの香りがして。」
智己が瓶を手に取りエレナの手首にひと吹きする。エレナは自分で手首をこすり合わせると智己が腕をとって肌に馴染んだ香りをかぐ。
満足そうに頷く。
「柑橘系の香りは退化しやすいから。そのトワレも10年以上前ならこのくらいの香りがしたかもしれないわね。」
花の香りがして、官能的で。エレナに似合うと智己は思った。
「良かったわ、気に入ってくれて。」
弟とその新妻の反応をみて、皐月は満足気に微笑んだ。
「あなた達相性がいいのね。それとも私、予知能力でもあるしらね。」
そう言って皐月はもうひとつトワレを持ってきた。
こちらの瓶には上部に小さな紺のリボンがかかっている。
「あぁ、それには見覚えが。」
「2年ほど前にクリスマスにプレゼントしたわ。あなた使ってないわね。」
図星をつかれ智己は押し黙った。香水を使う習慣が身についていない。
エレナはそのトワレを匂い紙にとり、香りを嗅いですぐに気づいた。ラベンダーとセージに香りに包まれたシトラスの香り。
「あ。家のクローゼットの香りがします。」
智己も、ほんとだ、と言った。
「アンナが気を利かせて使ってくれているのね。」
全く、この弟は。と言いたげだった。
「これはエンディミオン。こちらのルナとはペアになっているの。ギリシャ神話から名付けられているのよ。エンディミオンはゼウスの息子の美青年。彼と恋をした月の女神がその姿をいつまでも見つめていたいと永遠の眠りにつかせたの。」
「まぁ…。」
「なかなかロマンチックでしょ?他の香水も自由に試していいのよ。」
「わたくし、この香り好きですわ。」
「そう?」
エレナも智己の手首にエンディミオンをひと吹きして香りを嗅いで陶酔の表情を浮かべる。いつも智己の服から漂う香りなのだが、これが好きなのだ、と再確認する。その様子がたまらなく愛おしくて智己はエレナの髪を撫でた。
そこへ、伯爵家の使用人が奥方に相談事を持ってきたので皐月は席を外す。
エレナは智己に付けてもらった香りをまだ嗅いでいた。
フレッシュで透明感のある花の香りにダークなウッド調の香りは官能的でもあって、荘厳な月の光を思わせる。
「では、これでわたくしは智己さまを眠らせて差し上げればよろしいのですね。」
エレナは月の女神よろしく気品をもって、だが少し悪戯っぽく言った。
清らかで官能的な月光。エンディミオンはその腕にLUNA(月)を抱いて眠るのだ。
「そうだな。だからエレナを抱いて眠るとよく眠れるんだ。」
「それって…」
一瞬で別の意味にとったエレナは恥ずかしくなった。
その思いをよそに、智己は、そうか、エレナは月の女神だったかとすとんと心に落ちていた。
世界的企業の経営者の一員として時差の関係なく仕事に追われる日々で、ワーカホリック気味なこともあり、慢性的な睡眠不足な毎日だったが、それを自覚していなかった。エレナとベッドを共にするようになって随分と良質な睡眠を得られている。もっともそれは眠る前の運動のおかげかもしれないのだが。
智己は官能的な花の香りのする彼の月を抱きよせて彼女の匂いを堪能する。
「うん。これで今日からも良く寝られそうだ。」
互いの香りを嗅いで幸せな気持ちになり、二人は微笑みあった。
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皐月の夫、ジャンはイタリアとフランスで爵位をもつ代々の貴族である。各地に所有地があり、昔ながらのいわゆる領地経営というか地主業もしているが、夫婦の職業はジュエリーデザイナーである。石の選定や買付は皐月が行い、ジャンがデザインをしている。軍隊にもいたことがあるというジャンは、元軍人らしく非常にがっしりとした体躯の持ち主で、強面の容貌であってはっきり言ってジュエリーデザイナーの肩書には似合っていない。だが、そのごつごつと骨ばった太い指からは想像もできないほど繊細なジュエリーを作り出している、クリエイターであり、職人なのである。
溶接作業を終えて仕事場から出て来たジャンは作業着のつなぎからTシャツにチノパンというかなりラフな服装で二人を迎えてくれた。豪快で朗らかな彼と、貴族というものに対して持っていたイメージとのギャップに初めは多少の戸惑いがあったが、快活で明るいジャンを中心にディナーの席は盛り上がり、楽しかった。
ジャンは妻にべた惚れという様子を隠すことなく、ことあるごとに妻を褒め称え、頬やら手やらにキスをしていた。おかげで智己はいつも以上にスキンシップが多かったのが、エレナには大したことでないように思えた。智己がいつも以上に妻を構ったのは、エレナの向かいのテーブルについた男性が、ひたすら彼女を口説いていたからである。
「ほんっとエレナって可愛い。トモキみたいなおじさんと別れて僕と結婚しよ?」
おじさん、という言葉に智己は苛立ちを露わにしたが、エレナはコロコロと楽しそうに笑っていた。
何せ相手は9歳の男子。皐月とジャンの息子のロランである。
ジャンに似たのか、年齢に比して立派な体格で、エキゾチックさもあるやんちゃ盛りの少年であるが、両親の会話をよく聞いているようで、口説き文句は大人顔負けだ。エレナのことを妖精に例えてみたり、花に例えてみたりと文学表現まで持ち出す。
ジャンは息子に、いいぞ、頑張れと応援するし、皐月は、「エレナちゃんなら義妹でも娘でもどっちでもいいわよ。」などというものだから、智己は気が気でなかった。
「姉さん…ロランに何を教え込んだんですか…」
智己は皐月に恨めし気に言った。
「あら。弟たちに教えたことと同じことよ?良いお嬢さんの見分け方ね。素敵な香りのする人を見つけなさいって。」
「香り…ですか?」
エレナは自分の両腕を前で組んで鼻に近づけた。
「そう。嗅覚で見つけるの。本能ってやつね。自分の好きな香りのする人。他の人には体臭臭くても別の人にはフェロモンに感じるのよ。」
「姉さんのはただの匂いフェチだろ。」
智己は冷たく言った。
「あら、あなただって、エレナちゃんの匂い好きでしょ?」
確かに、エレナからはいつも良い匂いがする。ボディソープやシャンプーが変わっても。いつでも彼女からは良い香りがする。
「同じ香水やクリームを使っても、同じ香りにはならないの。その人自身がもつ香りと混ざり合うから。逆に言えばどんな香水でも消せない香りがあるのよ。自分に合った香りを見つけるとその人が本来もっている魅力を高めてくれるわ。」
エレナにはLUNAが合っているようだ。彼女自身も気分が高まるようだし、何と言っても智己にはずっと嗅いでいたくなる惹き付けてやまない香りだ。ただ、他の人間まで寄せ付けさせるわけにはいかない。
「わかりましたよ。ロラン。君の趣味が良いのはわかった。だが、エレナは僕の妻なんだから、君は自分だけの香りを見つけるんだな。」
そう言って花の香り漂うエレナの艶やかな髪を一筋取って口づけた。
エレナはまぁ、と言って美貌の夫の顔を見上げて微笑んだ。くすぐったい感じはまだあるが、人目があろうとこんなスキンシップもかなり慣れてきていた。
それを目の前で見せつけられて、ロランはちぇ、と拗ねた。
ウィーンに戻る際、玄関で夫妻に別れの挨拶をしていると、エレナと智己はロランに呼び止められた。
「どうしたの?」
「あのさ、僕10年もしたらいい男になるからさ。その時に後悔しちゃだめだよ。」
エレナは、ませたもの言いをするロランがたまらなく可愛いと思った。
「わかったわ。楽しみにしてる。」
そう言ってエレナはロランに微笑んだ。すると、ロランの目線に合わせて膝をかがめていたエレナの頬にロランがチュッと音を立ててキスをした。
「っ…おい、ロラン!」
智己が言った瞬間、ロランはサッと走って奥の方へ逃げた。
「おじさん、エレナを大事にしなよね!じゃないともらっちゃうからな!」
そう捨て台詞を残して去っていった。
「あいつ…生意気だ…」
智己は前髪を手でくしゃっと掻き上げる。
ジャンと皐月は腹を抱えて笑っている。エレナは少年の好意を微笑ましく受け取っていた。昔、弟の留加が頬にキスしてくれていたのを思い出す。
「じゃあ、智己、エレナちゃん、またね。また来るのよ。」
まだ笑いの残った声で皐月が言う。
「ああ、頼まれてるものは出来上がったら送るから。」
ジャンはそう言って、智己と手を握ってハグをした。そうして二人は、パリを後にした。
5
ダイヤモンドホテル・ウィーンは、市立公園の側に立地する、19世紀に建てられた保存建築物指定された本館と、現代的な別館からなる大型5つ星ホテルである。創業者の一人娘で、エレナの同級生でもあったクレアの提案で取り入れられたホテル内のスパが非常に好評で、近年のダイヤモンドホテルチェーンの目玉ともなっている。エレナもホテル滞在中から、今も通って身体中磨き上げてもらっている。
今日は、そのクレアと並んで施術を受けている。
「うあ゛―っ。いきかえるー」
「…おじさんがいるわ。」
「だってさぁ。サマースクールの間ずーっと机にかじりついてたんだよ?」
「背中がかなり固くなってますね。」クレアを担当するスタッフが言う。
「クレア、来てくれてありがとう。」
「いいって。でも、結婚式やるなら来たかったなぁ。」
「あれは…わたくしもそんなつもりじゃ…」
「書類上だけのつもりだったんでしょ?」
「そのつもりだったんだけど…」エレナは口ごもる。
「話を聞く限りだけどさぁ。…溺愛されてるよね。」
「…知りませんわよ。」
大体、結婚するまで異性と付き合ったこともないというのに。智己が夫婦はこういうものだ、というからそうなのか、と思っている。
もっとも、エレナに施術をしているいつもの担当者は、エレナの身体に日々消えることのない、それどころか増える一方の所有印を目にしている。彼女もプロであるから、内心どぎまぎしていても顔には出さない。溺愛どころか執愛ですよ、と思っていたが、もちろん口には出さない。
エレナとクレアの間はカーテンで仕切られていて、顔だけ出して会話をしているのだ。
「スマホも無事に渡せてよかった。」
クレアにはエレナがアメリカにいる、というアリバイ工作を頼んでいた。エレナが澤野から持たされていたSAWANO製のスマホの位置情報からは居場所を特定される可能性があったので、クレアに預けていたのだ。
「結局、うちにエレナの写真を持って訪ねてきたのは、そのケビンって人だったわけね。」
「そうなの。本当にほっとしたわ。」
「うちのスタッフがさっさととっ捕まえなかったからだよね…。心配させたね。」
「いいの。もし澤野の調査部だったとしても身元を明かすわけないもの。」
「そっか…。でも、すっごいチャンスよね。あのカノンと契約なんて。」
「受賞経験もないのに、どうやって売り出すのかしらね。自信はないけど…。でもワークショップは楽しみなの。」
「音大の教授に教えてもらえるっていうやつ?」
「そうなの。試験があって、合格したら直接教えてもらえるんですって。落ちたら聞いているだけらしいのだけど。」
「聴くのも勉強のうちってやつね。でも受からないとデビューとか言ってる場合でないんじゃない?」
「う゛…。そうよね。頑張る。」
熟練のエステティシャンに全身磨き上げてもらって二人はぴかぴかのツルツルに仕上がった。ハーブティーを飲んでくつろぐ間中、クレアはSNSに上げるための写真や動画を撮っていた。彼女はインフルエンサーとしての一面もあり、数多くのフォロワーを抱えている。ダイヤモンドのスパが人気になったのも、彼女のSNS作戦に功があったからだ。
「あ、エレナも入る?」
「やめてよ。いらない、いらない。」
「アリバイにもなるじゃない。友達とウィーンにいますってね。」
なるほど、とエレナはクレアと写真に写った。タオルを髪巻いたすっぴん姿だったが、二人が頬を寄せて写る写真はクレアのフォロワーから沢山のgoodを獲得し、隣の美女は誰!?とのコメントが相次いだ。
「スマホも無事に返せたし。今度はわたしにつきあってよね。」
「ありがとう。クレアのおかげで助かったから。でも何をすればいい…?」
「パーティーよ。うちの新ホテルのオープニングパーティー。」
「はぁ…。それに行けばいいの?」
「そうよ。あ、場所はブダペスト。もちろん、旦那様もご一緒に。」クレアはにまっと笑った。
あぁ…。そういうことね、とエレナは納得した。智己に会わせろということか。
「別に普通に紹介するわよ?」
ノンノン、とクレアは人差し指を立てて左右に振った。
「うちのパーティーに来てくれることが重要なのよ!FUWAの御曹司が参加した、って事実が欲しいの。それも、あたしが呼んだっていうね。
パパとママの話じゃアメリカでも来てくれたことないんだって。他のパーティーで面識はあるって言ってたけど。パパとママにあたしの人脈見せつけるチャンスでもあるの。
しかもあんた、まだどこもパーティーとか行ってないんでしょ?新妻つれて初参加とか話題性抜群じゃない!だから、おねがい!
それにさ、FUWAは東欧進出してるんでしょ?向こうの政財界の人達も呼んでるし、彼にとっても悪い話じゃないと思うのよね。」
うんうん、と一人で勝手に納得してまくしたてるクレアに圧倒され、でも澤野から逃れる助けをしてもらってるし…。と考えたエレナは、
「分かった…。きいてみる。」と返答した。
久しぶりに再会したクレアとはいつまでも話が尽きなかった。智己は出張で留守だったので、クレアと一日一緒に過ごしたが、クレアは両親と合流して欧州各地のホテルの視察に出かけるという。ブダペストで会おうと、絶対旦那連れてくるのよ、と念を押された。
6
パーティーは面倒だから好きじゃない、といっていた智己だが、エレナがブダペストのダイヤモンドホテルのパーティーに一緒に行ってくれないかと頼んだところ、二つ返事で了承したので、エレナは拍子が抜けた。それどころか、自らブリギッタに電話をしてエレナにドレスを用意してくれるように頼んでくれた。
ブリギッタが仕立ててくれた濃紺のワンショルダーのドレスは、エレナの身体のラインにぴったりと沿い、見事なS字曲線を描いていた。すっかり元の髪色をとりもどしたブロンドの髪はブリギッタの店から来てくれたヘアメイク担当者によってアレンジされて、メイクも施された。
胸元とそして耳朶を彩るサファイアのネックレスとピアスは、智己が手ずからつけてくれた。
「これは…。」大きなサファイアを中心にして、大小いくつものサファイアが連なったネックレス。とても美しいのだが。
「こんな高価なものいただけませんわ。」
はっきりと言い切るエレナに智己は苦笑する。
「妻に宝石やドレスを買うのが夫の務めなのに。君は何も買わせてくれないじゃないか。」
「必要なものとか欲しいものは自分で買えましてよ?」
母がエレナのために残してくれていた財産があり、投資顧問に運用を任せてもが、エレナは自分でも勉強してそのうちの一部を自分で運用している。重役クラスとはいえないものの会社員の平均を超える収入はある。
「うん。それは知ってるけどね。」
エレナは一人で生きていく、そして弟を養っていくための準備は整えている。智己としては美しい妻をドレスや宝石で着飾りたいと思っているが、エレナは結婚指輪以外受け取ってくれていない。
エレナは、義父に囲われていた女性を何人か見ている。義父に強請ったと思われる宝飾品や派手なブランド品を身に着けた姿は、あまりに安っぽく、哀れに映った。ああはなりたくない、と思ったものだ。智己に着るものだの宝石だのを受け取るのは気が進まないのはそのせいだ。
「これは、ジャンが結婚祝いにって、作ってくれたんだ。」
「ジャンさんが…?」
「そう。本業の合間に作ってくれたからこの前は間に合わなくて、出来上がったら送るって言われてたんだよ。」
祝いの品として頂いたというなら断る理由はないか、とエレナは思った。
実際のところは、智己が最高級のサファイアを探してきて、ジャンに製作を依頼したのだ。そういう形にしないとエレナが受け取ってくれないと考えたのだが、実際上手くいって智己は安堵した。智己が思った通り、エレナの白磁のような肌にサファイアブルーはとても良く映えた
ハンガリー、ブダペスト。
市内の一等地にオープンしたダイヤモンドホテル・ブダペストは、伝統的な18世紀建築様式と現代アートを融合させた建物で、建築界、アート界からも注目される存在であった。成長著しい東欧に対しては世界中から金とヒトが集まっている。世界を代表するダイヤモンドホテルチェーンが、満を持してオープンしたこのホテルのオープニングパーティーには、東欧各国をはじめとする欧州中、米国、アジアからも政財界の重鎮がやってきていた。
パーティーの華はもちろんオーナー令嬢、クレア・デイビスである。メッシュがかったブロンドのストレートロング、良く焼けた褐色の肌に鮮やかなピンク色のドレスが映える。深く入ったスリットからは美脚を覗かせていた。クレアは、彼女を取り巻くタキシード姿の男性陣の間から一組の男女が会場に入ってくるのを見た。男性の方は背の高い端正な顔のアジア人。女性は透明な肌にウェーブのかかったブロンドでそれほど露出の多くないドレスだが明らかに分かる抜群のプロポーション。
主催者であるはずのクレアが、えっと誰だっけ?と思ったその時、彼女の方から、「クレア!」と名前を呼ばれた。
「え…?エレナ?」
その瞬間クレアを取り巻いていた男性陣は全員サッと脇にどいた。
「クレア、すっごく素敵ね。」
「あんたこそ。一瞬誰だかわかんなかったわ。」
クスクスとエレナが笑い合う。
「化けたでしょ?」という。学生時代はもちろん野暮ったい格好だったし、この前会ったときも地味な服装だった。正統派東欧美女だし、スタイルが良いのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。そうか、全てはこの夫のおかげか、とエレナの後ろの智己を見る。
エレナに紹介された、彼女の夫となった男性は、恐ろしいまでに整った顔をしていて、柔らかい物腰ではあるが、怜悧な瞳の人物だった。間違いなく美男子ではあるが、クレアは見惚れるというよりは畏怖を感じていた。
「妻がお世話になったようですね。」にこやかに挨拶をしてくれるが、クレアは恐ろしくて、はぁ。としか言えなかった。
「クレアが居なければ出国できませんでしたのよ。」僕からもお礼を、と言われて何と返しただろうか。定かでない。
そこへ両親がやってきた。
「エレナちゃん!?まぁ。見違えたわ。」クレアの母ジュリアは、今は貫禄すら見せているが、若い頃はミスコン荒らしだった美女で実業家としての才能も持ち合わせている。
「おばさま、ご無沙汰しております。家のことではお世話になりました。」ジュリアはエレナを抱きしめる。クレアが日本にいた時には自宅にも招いてくれた。
クレアの実家から澤野の家に連絡を入れてくれていたから、家の方ではエレナがクレアと一緒にいることは疑われていないはずだ。
「いいのよ。貴女の力になれて私たちも嬉しい。ねぇ、あなた。」夫人は夫の方を向いた。
「本当にあのエレナかい?」学生時代とは似ても似つかないエレナの様子に、クレアの父イーサンは信じられないと言った様子だ。
「そうですわ。おじさま。」クスクスとエレナが笑う。
「いやぁ女の子は化けるなぁ…。」
「あら。私はエレナちゃんの元が良いのは分かってたわよ?不破の御曹司を射止めたのも不思議じゃないわ。」
ジュリアがふふんと鼻を鳴らす。
イーサンとジュリアは智己が来てくれたことを喜んでいる。両親と智己が話している横で、クレアはエレナに小声で囁く。
「あんた、よくアレに結婚してくれなんて言えたわね。怖いわよ。怖すぎる。」
「そう?初めて会ったときからずっと、とってもお優しいわよ?」
「はぁ…。そう…。」
優しいなんてもんじゃない。あれか、エレナにだけ優しいのか。あれは女を信用してない人間の目だ。パーティーなどで彼と話したという友人が言っていた。どんな美女が寄ってきても軽くあしらわれて終わりだと。エレナが持ち掛けた話に乗ってくれたという時には、友人が言っていたことを疑った。そこまで冷酷な人間じゃないのではないかと思ったのだ。でもさっきの一瞬で分かった。そうか、エレナが例外だったのだ。クレアは、エレナがこれまで彼について話したことと、この間ちらりと見えたエレナの首元の痕。それらをつなぎ合わせて、これは相当執着されているぞ、と踏んだ。
クレアは、エレナの肩をポンポンと叩いて、頑張れ、と言った。エレナは何が?ときょとんとした顔をしていた。
7
デイビス夫妻は智己とエレナに東欧各国の政財界の人間を紹介して回る。
「経済大臣、こちら娘の親友のエレナですわ。最近結婚しましたの。彼が、トモキ・フワですわ。ええFUWAの。」
不破の御曹司と娘の友達が結婚したのだ、と自分たちが結びつけたかのようにそれはうれしそうに触れ回ったのだ。
智己にとって顔を繋ぐのは重要な仕事である。世界各国の重鎮とコネクションをもつフレイザー夫妻に可愛がられている女性の夫、という立場は会話の取っ掛かりが良く、次々に人脈が繋がっていった。エレナは愛想を振りまくだけで、綺麗だ、美人だとはやし立てられただけだった。智己は次第にあちこち引っ張られていき、エレナはあれよという間に智己とはぐれてしまった。そこへぐいと手を引く人があって、顔を見るとクレアであった。
クレアはバーカウンターにエレナを連れていき、二人分のシャンパンを頼んでくれた。
「パーティーって結構疲れるのね…何の会話をしていいのかさっぱりわからない。」
「まぁ、ビジネス関係だとこういうものよ。相手の顔とか覚えて趣味の話とか話題を作るのよ。」
「そうか。社交ってこういうことなのね。ママはこういうところで役に立つつもりもなかったからニコニコしておけばいいのよ、くらいしか言ってなかった。」
「そのうち分かるよ。こういうのは場数だから。」
同い年なのに、既に様々な公の場に出ているクレアは、場慣れしていてずっと大人っぽく見えた。智己の妻の立場なら、これも仕事か、とエレナは思った。
二人で話していると、そこへ近づいてきた女性がいた。こげ茶のショートヘアの片側が長く、サラサラとなびかせていた。黒い目は長く、目力が強い。真紅のドレスもまたアシンメトリーで、ミニ丈の方からは引き締まった脚を晒している。自信満々、といった笑みを浮かべて熟れた妖艶な美しさを放っていた。
「あなたが、トモキと結婚したって?」
女はぶしつけに言った。何だ、この女は、とクレアは睨みつけるが、女は一瞥もくれなかった。
「そうですけど。」
エレナは顔から表情を消した。ふぅん、と言って女はエレナの頭からつま先まで値踏みするような目で眺める。
そこまでじろじろと見なくとも、身に着けたものも、彼女の立ち居振る舞いも一級品であることは一目瞭然であったが、それで引き下がるのはプライドが許さないらしい。
「あなたいくつなの?」
「…20歳ですけど。」
女は目を見開いた。
「やぁだ、彼ったらそんなおこちゃまと結婚したの?酷い冗談ね。」あははっと女は笑う。
「どういう意味ですの?」
「あら、怒った?」
「…怒ってませんけれど癪には触りましたわ。」
「あら、言うわね。私、デボラよ。トモキとはプリンストンで同期だった。今は地元のドイツで銀行務めなの。」
智己は2年飛び級して卒業しているから30歳くらいか。才色兼ね備えて身体から自信が溢れる姿は派手な顔立ちに濃い化粧が合わさってずっと年上の女性に見えた。もちろん老けているという意味である。
「彼とはそうね…Freundin(トモダチ)だったわ。招待客リストに彼の名前を見つけてこれは久しぶりに挨拶しないと、と思ったの。仕事で外せないパーティーだったけど別の意味で外せなくなったわ。」ふふんと鼻にかけるように笑みを浮かべる。
今はLGBTへの配慮もあって見直されつつあるが、異性間で(Freund、Freundin)と言えば恋人のことを指す。
この「トモダチ」をわざわざ強調した意味深な言い方をするのは何の意図だろうかと思ったが、それを突っ込んでは負けだとエレナは思った。
血の気が若干多めなクレアはどこで殴り掛かろうかと考えていた。
「そうですの。お会いできて光栄ですわ。」
エレナはにっこりと、だが威厳のある笑みで返す。
デボラはこの子はよっぽど鈍いのかしらと思った。
「どういう意味か分かってるの?」
「…ein Freund von ihm(彼のただの友達)にお会いできてうれしいという意味でしてよ?でも、あなたが昔のFreundinでいらっしゃるなら特別なご挨拶が必要ですわね。」
ミランダは、あら殊勝ね、と口元をほころばせた。その内心は怒るのかしら、それとも泣くのかしらと期待していた。
「わたくし、彼の昔の女性たちには感謝していますの。だっておかげで毎晩満足させていただいているのですものね。」
その言いようが意味するところである卑猥さを全く感じさせない品の良い、美しい笑みをたたえた言い方に、頭の回転の速さには自信のあるデボラも、そして側にいたクレアも一瞬思考が止まった。
デボラは徐々にその意味を理解して、それとともに顔を赤くした。
「あ…なたねぇ…。」
この綺麗で汚れを知らないようなお嬢さんに経験豊富を自負する自分にこんな風にやり返されるとは思っていなかった。ちょっと揶揄ってやろうと思っただけなのに。デボラが羞恥と敗北感で二の句をつげずにいるところへ、挨拶回りを終えた智己が妻の側に戻ってきた。
「只今。エレナ。」
智己はエレナの腰に手を回し、額にキスをした。
「面識を作りたかった人達に会えて良かったよ。招待ありがとう。」クレアにもそう礼を言った。
とんでもない、とクレアは言い、エレナは智己の役に立てて良かったと思った。
そこでようやく智己はデボラの存在に気づいた。
「ええと…。あなたは…。」
「…デボラ・ハーン。大学で一緒だったわ。」何とも苛立たし気な様子である。
あぁ、と思い出した様子ではあるが、平然とした智己の様子に、彼女が匂わせていたような過去の男女関係を思わせるものはなく、それはクレアはもちろん、経験値の低いエレナでも分かった。
「ああ、そうでしたね。お久しぶりです。」
学生時代から彼は、端正な顔立ちと際立った優秀さ、年下にも関わらず放つ色気で女子学生の注目の的であった。人当たりは悪くはないが、どこか醒めた雰囲気はミステリアスでどうにか彼を自分に夢中にさせたいと思っていた女性は少なくない。もちろんデボラもその一人であった。彼と身体の関係を持った女も知ってはいる。だが、誰一人として彼の心をとらえた女性はいなかった。
その彼がどんな女と結婚するのかと思えば、こんな女とは。確かに美人で容姿も美しい。だが、大人びて見えても実年齢はまだ小娘ではないか。
しかし、智己はエレナの腰から背中の辺りを撫でまわし、時に艶やかな金髪を指に巻き付けたりして弄んでいる。彼女と見つめ合う瞳は熱を帯びていて、自分が、いや彼を知る人達皆が未だ知らない表情を見せている。
「あなたが、結婚したと聞いて奥様にご挨拶をしたのよ。」
とんだ挨拶だ、とエレナは不快感を隠さなかった。智己はそれに気づいてか、エレナの腰に回した手に力を込め、密着度を高める。
「そうでしたか。」
「みんな聞いたら吃驚するわね。そう…、ビアンカとかマチルダとか。」
それらの女性の名前を聞いたときに智己のこめかみが少し揺らいだことをデボラは見逃さなかった。
だが、智己は意にも介さないと言った様子でエレナの右手を持ち上げた。薬指には真新しいリングが煌めいている。
「そうですね。同級生に会ったら言っておいてください。智己は新妻を悦ばせるのに夢中だ、と。」
そう言ってリングにキスをした。エレナは陶酔した微笑みを浮かべる。
デボラは二人の様子を見て、軽い気持ちで揶揄おうとした自分が馬鹿らしくなった。完全に二人の世界が出来上がっていて入り込み余地などなさそうだ。自分はゲームの敗者なのだとまざまざと知らされた。そもそもの参加資格もなかったようであるが。彼女は退き時を見失うほど馬鹿ではなかったので、わかったわ、とだけ言うと、モデルさながらのウォーキングで自慢のヒップを揺らしつつさっさと去って行った。
彼らのやり取りを傍で固唾を飲んで聞いていたクレアはふぅっと息を吐いた。
「何よ?今の…。あんたよく言い返せたわね。」
「えっと…いや、あの…咄嗟に出ただけでね…」
エレナは自分が言った言葉に今更恥ずかしくなった。
「ん?あぁ、彼女に何か言われた?」
クレアが智己にデボラとのやり取りを話そうとするのを、エレナは必死で止めようとした。
「やめて!クレア、言わないでよ!」
焦るエレナの口を塞いでクレアから顛末を聞いた智己は、驚きと喜びで目を開いた。そしてエレナをぎゅうっと抱きしめる。
「エレナ…嬉しい。」
「ちょ…ちょっと!待ってくださいませ!」
親友の前で熱烈なキスをされそうになってエレナは必死で智己の腕から逃れようとする。
クレアはもはや笑いを堪えられなかった。
パーティーに遅れてやってきた夫婦をフレイザー夫妻が智己とエレナに紹介してくれた。
何とイタリアの貴族であるというクレッシェンス夫妻は、イタリアの爵位を持つ智己の姉夫婦と知り合いであった。エレナはマナー講師に教わった時には使う場面が本当にあるのかと疑ったが、さすがはヨーロッパだと思いつつ、優雅に腰を低くして礼をとった。
「ジャンと皐月は元気かい?」夫のアルフォンソ氏が尋ねる。
「ええ。でも実はまだ妻を紹介していないんです。」智己が肩をすくめる。
「それは皐月が首を長くして待っているだろう。早く行ってあげなさい。」
そうします、と答えて二人はクレッシェンス家の現在のビジネスの主戦場である南米経済の話をし始めた。
貴族といえども、爵位で食べていけるわけでもなく、夫妻はその親の代から貿易会社を設立してビジネスをしている。また、広すぎる館はホテルにして、家族は最上階を住まいとしている。そのホテルがダイヤモンドホテル・ローマである。
「そうだ。エレナ。ピアノ伴奏をナタリアにお願いすれば?」クレアが思い立って言う。
「あら、いいと思うわ。あの子ったら休暇はうちに帰ってこないんですって。どうせ遊んでいるんだから丁度いいわ。」アンネッタ夫人も同意する。
ナタリアは、夫妻の末娘で、ウィーン音大でピアノを専攻しているという。クレアも友人だというが、伯爵令嬢なんて緊張する。
だが、クレアが気さくな子よ、というのと、いずれ誰か探さないといけないと思っていたところだったので、紹介してもらうことにした。
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