クレアの実家が経営するホテルチェーンの一つであるダイアモンドホテル・ウィーンは、ウィーンの旧市街を囲むリンク通り沿いにあり、楽友協会やコンツェルトハウスにも歩いていける。
ホテル内の、天井から金のシャンデリアが吊り下がるクラシカルなカフェの一角。智己は、4人掛けの円卓テーブルの一つに腰掛けていた。長い脚を組み、ひじ掛けに肘をつき手をこめかみにつく様は、ファッションモデルのようで、女性客だけでなく、男性客も溜息をつくような美しさだった。
目の前に置かれたエスプレッソに口をつけることもなく、彼はここで待ち合わせをしている女性のことを考えていた。
昨夜、智己は部下に指示して、エレナ・コムレヴァなる女性のことを調べさせた。
不破コーポレーションのリサーチ部門は、普段は信用調査などを手掛けるが、一般的には知られない情報も調べ上げる能力をもっている。部門のトップの高瀬は昨年まで智己の秘書を務めていた。
智己から内密に、との厳命を受けて女性の調査を命じられたことで、高瀬はずいぶんと楽し気に調査をしたらしい。ニヤニヤしているのが、電話からでも分かったが無視した。
「いやー。めちゃめちゃ綺麗な人ですねー。女神様!って感じっすね!」東大にオックスフォードまで出た38歳のエリート。にしては語彙力が無さすぎる。
智己の兄の中高の後輩にあたり、幼いときから知られているので、部下とはいえ、ずいぶん気安い。
「でも本当に同一人物ですかね?インターナショナルスクール時代の写真は分厚い眼鏡にそばかすもいっぱいで、前髪も長くて完全に地味子ですよ。成績は良い方みたいですけど。あ、彼女のお母さんは社長とご一緒した何かのパーティーで見かけたことありますけどね。人形みたいに綺麗な人でしたよ。4番目の奥さんだったんですね。控え目であまり話さない感じでした。連れ子がいるのは知らなかったな。」
総合電機メーカーSAWANO。家電製品は低価格高品質を売りに、東アジア、東南アジアを中心にアメリカなど世界規模で展開している。家電事業以外にも資金力を背景に各国の企業を買収、合併して成長してきた。現在会長職にあるのが、3代目の澤野忠利である。彼の代で東南アジアと北米に販路を拡大し、SAWANOを発展させた立役者であり、男ぶりの良い非常にエネルギッシュな人物とされている。
それは私生活でも変わらないようで、20代前半に最初の結婚をして以降、結婚と離婚を繰り返しており、愛人の噂も事欠かない。最初の妻は政治家の娘で、政略結婚だったらしい。息子を授かって2年後には離婚している。この息子が現在社長を務める幸利だ。2番目の妻と3番目の妻との間にそれぞれ娘がいて、姉の方はアメリカの大学を卒業し、米国企業で働いている。妹の方はエレナと同い年で都内の女子大に在学中。
彼の4番目の妻となったのが、エレナの母、ユリヤだ。なお現在は5番目の妻と結婚している。ロシア人でバレリーナだったエレナの母とは、アメリカで出会っている。当時エレナは4歳。2年後に弟の留加が産まれている。彼女のいう複雑な家庭環境、というのは本当らしい。
連れ子とは言え、あの澤野の家で育ったというのなら、彼女の振る舞いの優雅さには納得だ。きちんとした礼儀作法を身につけているし、母親がバレリーナだったというなら美しく伸びた姿勢も、人前で物怖じしない堂々とした佇まいにも納得がいく。ヴァイオリンも教師をつけてもらったようだ。ただあの腕前がありながら世に出ていないだけでなく、インターナショナルスクール卒業後に芸大に合格しながら進学していないというのは、どんな事情があるのか。
そこまで調べあげさせておいて、智己は彼女にはまだ何か自分の知らないことがあるのだろうと思った。ウィーン川の橋の上で見た彼女の憂いを帯びた横顔を思いだす。彼女は影の中にいるようだ。自分が光を当ててやれれば良いのだが。
ふとカフェの雰囲気がざわつくような感じがしたので、智己は入口の方をみた。
約束の時間より少し前に現れた彼女は、水色のワンピースを着ていた。スクエアネックで首の後ろにリボン。パフスリーブから白く細い腕が伸びる。目が合ったので手をあげて合図する。
「お待たせしたかしら?」円卓の上のエスプレッソに目をやりながら彼女が訊いた。
「いや。僕が早く来たかっただけだ。君に早く会いたくて、ね。」
くすくすと彼女が笑う。本心なのに、ジョークだと思われたのだろうか。でもこんな反応が返ってくるのが楽しいのだ。
行こうか、と声をかけて腕を差し出せば、彼女は躊躇うことなく、すっと手を添えた。客の嫉妬と羨望の視線を感じつつ店を出た。ホテル前の通りを歩いて楽友協会に向かう。環状道路には路面電車が行き交い、車通りも多い。腕を組んで歩く2人はどこからどう見ても似合いの恋人同士だった。
佐伯義孝は自分の目を疑った。リンクに面したショッピングセンター内のスーパーに買い物に行こうとしていたところ、通りの向こうに1組の男女が見えた。
男性の方は自分の上司だ。隣にはロングヘアーの美女。長身でスタイルの良い2人は、連れだって歩いているだけで絵になっている。
そもそもこんな風に女性と連れだって歩いていること自体初めてみるというのに、今まで佐伯が見たことのないような笑顔を彼女に向けているではないか。ちらりと見ただけですぐにわかる。愛おしくて堪らないという顔。普段とあまりに表情が違うので、別人かと思ったくらいだ。だが、それは紛れもない彼のボス。大学院時代の同級生で、といっても佐伯の方が3歳年上になるが、卒業後にFUWAに入り、智己が入社したのを機に秘書となった。学生時代に意気投合し、年齢差も立場も超えて何でも言い合える友人関係でもある。どうしても一緒に働きたくて、智己がFUWAに入るのを見据えて就職先を決めたくらいだ。
「言ってくれればいいのに…」と友人として少し寂しくなりつつ、その場で東京の高瀬に電話をした。
「智己さんが女性と一緒なんですが、何かご存じで?」
「ん?・・・んん? いや?知らないよ?」
・・・高瀬は嘘が下手だ。
「ご存じなんですね。」問い詰めるように言った。
「いや・・・あの・・・内密に、って言われててね・・・」
「危険な人物でないならいいんです。ずいぶん思い入れてらっしゃるようですから。」
先ほど自分が見た智己の様子を報告する。高瀬は吃驚したようだった。
「そんな感じなのか・・・いや・・・全く想像がつかないが。」
それは佐伯も同じである。自分が見た光景が真実なのかどうか。目を疑ったくらいだ。
「まぁ、ボスが幸せになってくれないと、こっちも動けないからなぁ。俺も孝己さんが結婚するまで、結婚の話なんてできない雰囲気だったしな。よかったな。お前はそんなに待たなくて済みそうだぞ」
高瀬は智己の秘書を務める前は兄の孝己の秘書をしていた。智己の秘書になったタイミングで結婚している。
「それもそうなんですが。プライベートが充実するなら仕事にも精を出していただけるでしょうし。」
「お前はほんとに仕事のことしか考えてないな。まぁ、昨日知り合ったばっかりだし、もうちょっと時間はかかるだろうけどな。」
「昨日会ったばかりですか!?」
しまった、というように高瀬は口をつぐんで、
「黙っとけよ。まだ社長にも報告してないし、するなって言われてるんだから。」
確かに昨日の午前中までずっとオフィスで一緒に仕事をしていたし、先週までの出張中などは四六時中一緒だったわけで、彼に特別な人がいるなら電話なりなんなりするだろうから、分からないはずがない。
確かに上司が夢中になれる女性がいれば、とは思っていたが、こんなところで現れるとは。まぁ、良い傾向には違いない。
どうか、ボスの(恐らくは初めての)恋がうまくいくように、と部下たちは願ったのであった。ややこしいことになりませんように、とも。
楽友協会は、ウィーン・フィルの本拠地で、新年に世界各国に中継されるニューイヤーコンサートの会場となる大ホールは、別名「黄金のホール Goldener Saal」と言い、その名の通り、金箔をはった天井や壁画、彫像がまばゆく、絢爛豪華なホールである。
ウィーン・フィルの定期コンサートは一般販売がなく、入手は困難だが、それ以外のコンサートも多数開催されており、チケットの入手も容易である。
智己がエレナを誘ったのも、地元出身のピアニストのリサイタルで、タキシードにドレスといった正装の人はほとんどいない。さすがにTシャツ姿の人はいなくともかなり軽装の人が多く、エレナは、昨日ホテルで聞いておいて良かった、とほっとした。
前日に取ったチケットだったが、1階平土間のサイドの席だった。エレナを前に座らせたので、やや斜め後ろから彼女の美しい首筋から肩のライン、引き締まった腕を堪能する。プログラムはオール・ショパン。ショパンの≪24の前奏曲≫は、ショパンがジョルジュ=サンドと共に、冬の寒さを避け、地中海のマヨルカ島に滞在していたときに完成したものだが、1曲ごとに人生の様々な局面を表現し、全体としてつながっていて、人生そのものだ。中にはサンドへの愛を率直に表現したものもあって、そのまま「好きだ!」と言ってるだけ、と思えるものもあるが、成程、自分の今の状況を的確に表現されているようだった。
癖が少なくて聴きやすい演奏だな、と思いながらもエレナは若干気がそぞろだった。
昨夜別れて半日ほどだが、彼は自分のことを調べただろうか。ネット検索で名前が出てくるわけはないが、あの「不破」のことだ。澤野以上の調査能力はもっているはず。自分のことなんて簡単に調べ上げるだろう。エレナが何者かを知らずに誘ってくれたが、彼女が何者かを知って気が変わってはいないだろうか。それとも「遊び」の女の素性など興味がないだろうか。
右に座る智己から視線を感じる。顔を見上げれば、微笑まれた。どこまでも美しい。彼が私を見る視線の種類を私は知っている。義父と義兄が向けてきたのと同じ種類の視線。ただ違うのは嫌悪感を感じないということ。嬉しいようなくすぐったいような感覚。これほどまでの美形に見られて嫌な気がする女などいるはずがないが。彼が向けてくれる情が、どの程度のものなのかは測りかねる。今日も会うことを望んでくれたこと、昨日で終わらなかったことは多少期待を持ってもいいのだろうか。
クレアは、どうせ遊びなのだから、こちらもそのつもりでいたらいい、と言っていた。「遊び」程度の気があるなら、計画に乗ってくれないだろうか。ただ、もしも、いや万が一「遊び」でなかったら?気持ちを利用するのは気が引ける。ただの単純なる興味であってほしいという気持ちと、それはそれで残念だという気持ちが相克していた。
エレナはまた、ゴシップサイトで見た彼と一緒に写っていた女性たちのことも考えていた。妖艶で自身に溢れていた。彼女たちとは自分はあまりに違う。エレナは自分の見目が悪くないこと、寧ろ母親譲りの見目の良さは自覚している。だからこそ子供の頃、さらに学生時代は目立たないよう、目を付けられないように地味に過ごしていた。それがあの家で暮らしていくための術だったのだ。でも今はもう自分を押し込めなくていい。髪はこげ茶のままだけれど、カラコンも入れなくていいし、そばかすメイクもしなくていい。堂々としていればいいのだ。この見た目なら、惹き付けられる男性もいるだろう、とは思っている。だが、智己に当て嵌まるかどうかは疑わしかった。昨日、素の自分を見られているので、そのままで来てしまった。クレアのいう通り、自分みたいな小娘は及びでないだろうから。でも、彼の興味を引くなら、せめてもうちょっとメイクを濃くするとか工夫するべきだったしら…とぼんやり考えていた。
エレナは演奏を楽しんでいるようだったが、ふと何事か考えているようなときもあった。ベテランのピアニストで、流石のテクニックだったがショパンらしい甘美さは少なく、いかにも「ドイツ風」だと思った。新鮮で面白かったが、彼女の好みではなかったか、などと案じたが、
「良い意味で決然としているのが一味違って面白かったですわ。」と同じような感想を持っていたのが嬉しかった。
夕食にはホイリゲに行かないかと誘うと、素敵ですわ、と顔をほころばせた。新酒の時期には早いが、ウィーンらしさを味わえる。
「でも、ワインですわよね…」と少し心配そうな顔をする。
「昨日飲めたんだから大丈夫だよ。それに今の時期は、炭酸水割りもおいしいよ。」
「それなら飲めそうですわね。」エレナがまた楽し気になった。
ホイリゲは「今年のワイン」つまり新酒のことを指すが、そこから転じて、ホイリゲを飲ませる酒場もホイリゲと呼ぶ。自然に囲まれた庭や田舎風の雰囲気の店で自家製のワイン、燻製肉を楽しむのだ。夕方から開く店が多く、庶民的な、居酒屋のようなものである。昔ながらの館を改装したホイリゲは市街地を取り囲むウィーンの森周辺のハイリゲンシュタットやグリンツィングに多い。
エレナが乗ってみたいというので、リンクを半周し、ショッテントーアから終点のグリンツィングまで路面電車に乗った。トラムが停車する振動で身体が近づき、彼女の香りが鼻と身体を喜ばせた。
停留所から少し歩いたところにあるホイリゲは、300年前まで修道院だったという素朴な雰囲気の黄色の外壁に花や緑が映える建物で、いくつかに分かれた小部屋はクラシカルなサロンのようだった。2人だと告げれば、緑があふれる広い中庭の席に通された。4人掛けの丸いガーデンテーブルとチェアは白く、中庭の花と緑とコントラストをなしていた。
智己はジョッキの自家製白ワインを、エレナはワインと炭酸水を1:1で割ったクシュプリツターを注文した。ビュッフェコーナーでハムやザウアークラウトを注文する。
「ソーセージも沢山種類があって悩みますわね…」カウンターに並んだつまみを真剣に見ている。
「温かい料理も注文できるよ。」と言えば、
「どうしましょ…」と益々悩み始めた。
その様子が可笑しくて可愛くて、自然と笑顔になる。
ワインの炭酸割りは気温の高いこの時期の乾いた喉に心地よく、つまみも美味しくて、エレナは皮つきソーセージをお代わりした。ふくよかな店員が纏う民族衣装もかわいらしくて、とエレナはずいぶん楽しんで、コロコロと良く笑った。
暗くなるにつれて、次第に地元客や観光客でにぎわってきた。バイオリンとアコーディオンの生演奏が入って、昔ながらのシュランメル音楽を奏で、さらにガーデンは賑やかになった。
テーブルごとに回りはじめ、智己とエレナのところにくると、ウィンナ・ワルツの『酒、女、歌』を演奏してくれた。チップを渡すときに、中年のアコーディオン弾きが智己にウィンクをしてニヤッと笑った。がんばれよ、という意味か。
「酒と女と歌を愛さぬものは、生涯馬鹿でおわる」
大丈夫だ。馬鹿で終わらないことは間違いない。
「あんな風に自分の演奏でお金を稼げたらいいですわ。どんなリクエストがくるか分かりませんから随分とレパートリーが必要ですけれど…」
「エレナなら黄金のホールで演奏できるよ。」
エレナは、くすりと笑って、とんでもない、と首を振ったが、世辞ではない。その気になれば十分にソリストとしてやっていける腕だと思う。祖父母が音楽好きで、FUWAは企業内オーケストラも持っている。小さな頃からクラシック音楽に親しんできたし、祖父母に連れられて一流処のコンサートにも足を運んでいるから、それなりに耳は肥えている方ではある。彼女の腕がその道に進むのに十分なものであるのは、明らかだ。
「音大に通わないのか?」芸大に受かったのに通わなかった理由を訊けるかと思って尋ねると、エレナはちょっと考えこんで、
「そうですわね…。今なら通えるかもしれませんわ。」と微笑みながら答えた。
彼女の事情に踏み込んでいいものかどうか、と躊躇っていると、
彼女のスマホが鳴った。
口に入れたばかりのソーセージを飲み込んで、ごめんなさい、とスマホを取り出す。ホテルからだというので、構わないよ、と促す。
「Hallo? ええ…そう…。そうですの。私の?……。」
先程までワインで血色良く紅を差したようになっていたエレナの頬が、あれよという間に白くなっていく。それどころか、生気が失われてどんどん青白くなってきた。
「どんな人でした?そう…。わかりましたわ。ええ…。ありがとう…。」
電話を切った後すぐにどこかへメールをする。入力操作をする右手の二の腕を自分の左手でつかむが、その二の腕には鳥肌が立っていた。
ふっと息を吐くが、呼吸は浅く動悸がしているようだ。怯えているのが見て取れる。
「どうした?」と問えば、はっとして顔を上げ、表面に笑顔を貼り付けて乾いた小さな声で「何でもないですわ。」と首を振った。
智己はエレナの隣のガーデンチェアに座りなおして、彼女の右手を取り自分の太腿に乗せ、右手で包み込んだ。血の気が引いていて冷たくなっているのが伝わってくる。
エレナは顔を上げ、不思議そうに智己を見た。
「昨日会ったばかりでこんなことを言うのは可笑しいかもしれないけれど」
智己は静かに、でも力を込めて言った。
「君が困った状況にあるのを見過ごすわけにはいかないんだ。僕に助けさせて欲しい。」
彼女の瞳が一瞬、揺らいだのが見えた。
助けさせて欲しいという言葉は、口をついて出た。彼女が何に怯えているのか、どういう状況なのかはわからない。ただ、彼女のために何かをしたい。いや、もっと強い衝動がある。彼女を奪い去ってしまいたいような衝動が。
弛みのない光が智己の瞳に宿っているのをエレナは見つめていた。智己もまたエレナの青灰色の瞳に吸い寄せられるように見入る。ふたつのまなざしが、ひとつに溶け合う。
ずっと胸の中で抑えていたものが波となって押し寄せる。エレナの潤んだ両の瞳の片方から雫が零れ落ち、片頬を濡らした。智己は人差し指でそれを掬った。
「突拍子もないことを申し上げますわ。」小さくやっとの思いで絞り出した声色には静かな決意が宿っている。
「なんでも。」微笑んで、彼女の手を握った。
エレナは智己の瞳を見つめながら静かに言った。
「わたくしと結婚して頂けませんか。」
思いもよらない突然の言葉に智己は驚きと戸惑いを隠さなかった。ただ、それはどうしたら手に入れることができるのかと思い悩んでいたものが、思いがけず手に入ることになったときのような喜びを伴った驚きであった。智己は自分に落ち着けといい聞かせ、冷静でいようと努めた。
彼女の抱えている背景と思いには応えないといけない。
エレナは黙って智己の瞳を見つめていた。
「聞かせてくれ。場所を変えよう」
会計を済ませて店を出る。智己が呼んだ迎えの車はすぐに来た。
宵の中を走って着いたのは、ウィーン旧市街のど真ん中、シュテファン寺院にほど近い建物の地下駐車場である。
「ここは?」昨日この辺りを歩いた気がするが。
「家だよ。入って。」
智己は事も無げに言った。
世界遺産を目の前にした19世紀末に建てられたアールヌーヴォー様式の5階建ての建物の中はモダンに改装されていて、玄関を入ると広々としたエントランスホールがあった。エレベーターで上がった最上階が居室になっている。白を基調とし、マホガニーのヘリンボーンの床が表情豊かな内装になっている。ホールにはスタインウェイのグランドピアノが置かれていた。
「智己様のですの?」
ピアノを弾くことは昨日聞いた。
「家を買ったら付いてきたんだ。時々弾くよ。」
ホールを抜けた先はダイニングとリビングになっていた。パーティーも開ける仕様になっていて、アイランドキッチンとクローズドキッチンの2つのキッチンがあるがまだパーティーをしたことはない。
エレナをリビングのソファに促す。
「ダージリンでいいかな?ティーバッグで悪いが。」
昨日ディナーの最後に紅茶を頼んでいたのを思い出してすすめた。
エレナは、ええ、と答えて、卒がない人ですわね、と感心した。
広々としたソファに並んで腰かけ、エレナは智己の煎れた紅茶を口にした。アウガルテンのウィーンの薔薇のカップを抓む指は繊細で優雅だった。智己はエスプレッソを口に含む。
「かわいいカップですのね。」智己のユリウスマインルの赤いカップを指して言う。
「近くのスーパーのだよ。豆も、その紅茶も。」観光客にも人気だと言えば、弟へのお土産を買いに行こうかしら、とエレナが言った。
他愛無い話をしてくれているのが、エレナが話しやすいように、と気遣ってくれているのがわかり、エレナは嬉しかった。
「お話しますわ。」
小さく息を吐いて、エレナは自分が囚われ、そして逃げてきた「監獄」のことを話し始めた。
エレナの母、ユリヤが澤野忠利と出会ったのは、アメリカ、ボストン郊外の町だった。
ユリヤは夫を亡くし幼子を抱えて、バレエ団のスタッフとして事務をしたり、バレエ教室で教えたりするなどして生計を立てていた。地元で開かれたパーティーに付き合いで出席した際に、当時アメリカに赴任していてパーティーに参加していた忠利が美貌のユリヤに一目惚れをした。シングルマザーであることは早々に伝えたが、随分熱心に口説かれたそうで半ば絆されたような形で結婚をした。忠利は4回目の結婚であった。アメリカで暮らして、程なく留加を身ごもり、その後エレナと共に日本に渡った。
澤野の家は千代田区番町の古くからの屋敷で、母屋に忠利の母と長男の幸利、長女の花穂、次女の沙耶が暮らしていた。子供たちは全員母親が違い、産みの母とは離婚した後子供を引き取っているが、それは忠利の母である華子の意向が大いに関係している。
華子は澤野のゴッドマザーで、家のこと、時には会社のことでも、あらゆる場面で決定権を握っていた。ユリヤが嫁いだ当時、3年前に亡くなった父の跡を継いで事業の拡大に辣腕を振るう40を過ぎた忠利もこの母にだけは頭が上がらなかった。華子は澤野家の繁栄は子供にかかっていると考えており、忠利に内外問わず子供を持つようにと常日頃言い聞かせていた。幸利以降20年近くも男子が産まれていないということは、華子にとって悩みの種であったが、ユリヤが留加を産んだことで母子は歓迎された。
母屋は純和風の日本家屋で、ロシア出身のユリヤには暮らしにくいだろうということで、邸宅の敷地内に洋風の離れが建てられ、母子はそこで暮らすことになった。瀟洒な一戸建てで庭には季節の花々が咲いていた。世話係として使用人一家が母屋から移って住み込んでいて、夫が使用人頭、妻が家政婦として働いていた。エレナの7つ上の娘がいて、姉のように接してくれたので、エレナはすぐに日本語を覚えた。
留守がちな幸利がいない間、ユリヤは離れで暮らしたが、母屋の子供たちとも打ち解けようとしたがった。実際、義母となったユリヤは、幸利とは9歳、花穂とも10歳しか離れていなかったし、多感な年ごろだったので、あまり受け入れられているような感じはしなかったとエレナは思っている。花穂は高校卒業後渡米して、その後どうしているのかエレナは知らなかった。次女の沙耶はエレナと同い年で、ユリヤには懐いているようだった。幼い頃は一緒に遊んだりもしたが、本家の娘と連れ子があまり親しくするのもどうか、という華子の苦言と、学齢期にエレナがインターナショナルスクールに進学し、沙耶が女子大附属の一貫校に進学することになったことがあって疎遠になった。
留加の話をするときに、エレナの顔は曇った。
留加は澤野に久しぶり産まれた男子として、3歳頃から母屋の華子の元で養育されることになった。専属の家庭教師がつけられ、母親であるユリヤと引き離されて滅多に会えなくなってしまった。幼いうちから厳しい教育が施されて、時には体罰も含まれた。
「幼いあの子を鞭で打つのですの。離れに逃げてきたあの子が引きずられるように母屋に戻されることが何回もありましたわ。」
エレナは手を強く握り、目には涙が溜まっている。折檻されていることが分かって、何もできなかった。悔しくて、悔しくて堪らなかった。
智己はエレナの背中を優しくさすった。
ユリヤは留加があまりに酷い仕打ちを受けているのを夫に訴えたが、取り合ってもらえなかった。躾なのだ、と自分もそうやって育てられてきたし幸利もそうだったと。
母に任せておけばしっかり育ててくれる、とも言われた。我が子を守ってやれない不甲斐なさと無力さに母は涙し、エレナと抱き合って泣いた。
だが、あるとき、留加が流行性感冒になって離れで静養することになった。ユリヤは一計を案じ、医者に頼み込んで、留加は高熱のために難聴になったことにした。実際は中耳炎を起こした程度だったのだが、医者は留加の身体中にある蚯蚓腫れを目にして事の深刻さを悟り、協力してくれた。その後耳の具合は回復したものの、すっかり病弱になってしまった、という設定にしたのだ。「使いもの」にならなくなった留加に華子は興味を失い、留加は離れで養育されることになった。
「あの頃のことがありますから。半分しか血は繋がっていませんけど、何が何でも弟は守らなければなりませんの。」エレナは力を込めて言った。
ユリヤは華子からさらに子供を産むように強いられたが、妊娠することはなかった。薬を飲んでいたためである。ユリヤに子供が望めないとなると外に子供を作るように忠利に迫り、忠利は外に女性を作ったようであるが、ユリヤには執着した。
夫の自分に対する執着を見たユリヤが心配したのは、成長するにつれて自分と似てくるエレナのことであった。見目の良い女性に目がない忠利のことである。いずれこの子が成長したときに目を付けられるのではないだろうか、と。
そしてエレナにはなるべく目立たぬように暮らさせることにした。ブロンドの髪を染めて茶色にし、前髪を長く伸ばし、分厚い眼鏡をかけさせ、そばかすメイクを施した。
そのうちエレナを澤野の家から逃がさなくてはならない、と考えたユリヤは、エレナのためにスイスの銀行に口座をつくり、忠利からの贈り物を換金するなどして蓄財した。運用担当者に安くない手数料を払ったようだが、エレナが贅沢をしなければ一生困らない程度の財産を築いている。
一方でエレナには一人で暮らしていけるよう、様々な教養を身につけさせた。いずれ海外へ逃がすことも考えて、語学にマナー、自分で資産の運用ができるように金融知識も学ばせたし、料理などの家事も一通りできるようにした。ユリヤが用意した家庭教師だけでなく、本来なら沙耶が学ぶはずだった音楽教師もエレナの教師となった。沙耶があまり良い生徒ではなくさぼり気味だったためだが、アメリカのカーティス音楽院出身のその教師がエレナのヴァイオリンの才能を見抜いた。日本に来たときから習っていたヴァイオリンだったが、これで身を立てることができるかもしれない、とユリヤは真剣に学ばせた。自らバレエも教え込んだが、エレナがバレリーナになるには背が高くなりすぎたのでこちらは断念した。ユリヤが必死にエレナに学ばせたのは、その頃からユリヤの身体が病魔に侵されていたためである。自らの命がそう長くないと悟ったユリヤは、エレナには母どうなっても一人でやっていけるように、留加を守れるように、と母は常に言っていた。
「母はあれよあれよという間に悪くなって、あっという間に亡くなってしまいましたわ。今でも現実感がないくらいで。最期まで、必ず逃げるのよ、と言ってましたの。でも15歳の私にはどうすることもできませんでしたわ。」
忠利の嘆き様は尋常ではなく、1年ほど廃人のようですっかり覇気を無くしてしまい、これにはさすがの華子もどうすることもできなかった。忠利は、ユリヤのために墓を建て、澤野の名を刻み、好きだった薔薇をあしらった。その後徐々に精気を取り戻し、母にあてがわれた5番目の妻、渚を迎えていて、現在渚は妊娠中だ。ユリヤの遺児たちには興味を示さなかったが、追い出しはしなかった。
エレナと留加は今まで通り目立たぬよう、ひっそり暮らすことにした。学校に通いつつ、家庭教師から学び続けた。エレナは、成人すれば留加を連れて家を出ようと思っていた。
「バイオリンで大学に行きたいと思ったんですの。でも、沙耶さんが受験に失敗してしまって。連れ子が本家の娘より良い学校に行くのは筋が違うとおばあ様が反対なさったの。」
智己が気になっていたのはこのことだった。エレナは留加の世話係としての役目があったから澤野の家においてもらっているようなものだったので、逆らうことはしなかったが、そのとき華子から告げられたのは、いずれは澤野の一族か澤野の仕事上利益になるような人間と結婚をさせるつもりである、ということだった。
「そのときはそれも仕方ないと思ってましたわ。澤野の家に世話になって金銭的な支援を受けたことは間違いないのですから。むしろ家から出られるならそれでも良いとも思ってましたの。」
問題だったのは、澤野家の長男、幸利がエレナに興味を示したことだった。幸利は澤野の大口取引先企業の令嬢である由奈と結婚をし、美奈という女の子を授かっていたが、父に似て、好色な人物だった。その幸利が、エレナに目を付けた。
「庭に出ているときに声をかけられましたの。ただの一度も離れにきたことなどなかったのに。」常に地味な格好をしていたので、目立つことはなかったはず、とエレナは言うが、どんな格好をしていようと、彼女の優美で清楚な気品はなかなか隠し通せるものではない、目を付けられるのは時間の問題だったのではないか、と智己は思った。
「大きくなったね、と言われましたわ。母に似てきた、とも。こんなところで寂しくはないのか、と。私なら出してやれるが、と言われましたわ。」会話はそれだけだったが、熱を持った視線で、舐め回すようにねちっこく全身を品定めするように見られたことで、これはまずい、と思ったのだ。嫌悪感と恐怖である。
「その後、おばあ様からお義兄様の愛人にならないか、と持ち掛けられましたわ。」
エレナは平静を保っていて、別段どうということはないように言ったが、智己にはおぞましく、背筋が凍る思いがした。血縁がないとはいえ、そのような形で愛人に宛がおうとするとは。
「でも、わたくし、というより母が予測していたことではありましたの。義兄は義父とよく似ていますもの。女性に対する興味も。母には思うところがあったようですわ。ですから、わたくし、おばあ様には、前妻の連れ子が義兄の愛人、というのはあまりに外聞が悪いのでは、と申し上げました。妻となるのであれば考えます、とも。由奈さんは取引先企業の令嬢で、そう簡単に離縁はできませんから。義兄が、本当にわたくしを自分のものとしたいのでしたら、それなりの手順を踏まねばなりませんから時間を稼げると思いましたの。」
エレナは時間稼ぎのついでに、留加を海外にやろうと思っている、ついては義父に口添えしてくれないかと持ち掛けたのだ。留加を先に逃がそうと思ったのだ。自分はもうすぐ成人するのだし、自分一人ならどうとでもなる、という思いもあった。華子が義父に勧めてくれたので、留加はすんなりとスイスの寄宿学校への入学が決まった。このときに自分もついていけばよかったと未だにエレナは後悔している。
その後、義父までも自分に興味を示してきたのだ。
忠利は息子の幸利が気にかけているらしいと耳にしたのがきっかけだ。ユリヤは、それは美しかったが、連れ子の娘は地味で似ても似つかなかったはずだが、と思っていたが、母までも幸利の愛人にさせようと考えているらしいと聞いて、興味を持たざるをえなかった。ほとんど足を踏み入れていない離れに立ち寄ってみることにしたのだ。連れ子を一目見て、髪の色は似ていないが、出会った頃のユリヤと雰囲気がそっくりだった。
思いもよらぬ訪問に、エレナは驚いた。
「母が何やら面倒なことを頼んだそうだが、と遠回しに言われましたわ。若造では満足できないだろう、と。気持ちの悪いことですわ。」吐き捨てるようにエレナは言った。
「渚様が妊娠したから妻にしたが、腹も出てきたしもう興味はない、子供が産まれたら離婚する、とも言われましたの。」
それがどういう意味かは明らかだった。
親子で一人の女を取り合おうというのであるから、状況は最悪である。
「おぞましいな。」智己の声には怒気がこもっていた。
エレナはふるふると首を振り、溜息をついた。
「二人とも見目の良い女性には目がありませんのよ。義父が母に執着したのが珍しいくらいで。見境がない、というだけですわ。本当におぞましいのはおばあ様ですの。」
華子は、忠利と幸利がエレナに興味を持ったことで、面倒なことになった・・・とは思わなかった。エレナがどちらのものとなっても良い、結婚しようが愛人となろうが。ただ澤野本家の子供を、男児を産んでくれさえすればよい、と考えていた。由奈は確かに政略的な結婚だが、もう7年子供を産んでいないのだし、もう離縁してもいいだろうと思っている。渚も子供を置いていってくれればそれでいい。華子は「女」を子供を産む道具としか思っていないのだ。
母屋の華子の居室に呼ばれてそれを告げられたエレナは戦慄した。不幸なことに、エレナは忠利と養子縁組をしていないから忠利とも幸利とも結婚が可能である。そのことを持ち出し、結婚が可能なのに愛人になるのは嫌だ、どちらか決めてくれと場だけを取り繕う言葉を言って華子の元を辞した。
そして、エレナは逃げた。
エレナは澤野の家から逃げる決意をした。
いずれ来るこの日のため、あらかじめ荷物はまとめていた。逃亡の際に頼ったのは、弁護士の田島。忠利の秘書をしていたこともある顧問弁護士である。彼はユリヤに恩があって、エレナのための資産をつくることや、留加を海外に出す際の学校などあらゆる面で母子に協力してくれていた。
エレナが澤野の家から逃げるために、田島が計画を練った。
エレナはクレアに協力してもらい、クレアに招待されてアメリカを旅行してくる、ということにした。エレナには家からSAWANO製のスマホが渡されており、これは澤野の調査部を動かせば位置情報が知られる可能性があったので、これをクレアの元に送ることにした。そしてエレナ自身は変装をした上で、田島の準備したパスポートを使ってヨーロッパに飛んだのだ。ヨーロッパはSAWANOの支社や子会社がないので比較的安全、と思われたためである。
忠利率いるSAWANOコーポレーションは、資金力を活かして各国の企業を合弁・買収することで成長してきた。だが、現在ヨーロッパに支社を置いてはいるものの実質活動はしていない。辣腕を振るってきた忠利の唯一にして最大の失敗が欧州進出だった。10年前、忠利はヨーロッパ進出を思いつき、自らの専管でロンドンの現地企業の子会社を買収してヨーロッパ法人とし、欧州市場に進出した。
しかしながら、巨額の赤字を計上し、撤退を余儀なくされたのだ。現地の人間に経営を任せたが、本社の意思がまったく浸透せず、経営を支配することができなかった。もっとも買収自体、忠利が強引に推し進めたものだったので、市場の見通し自体も甘く評論家たちにそもそも何故買収したのかと首を捻られ、酷評された。1500億で買収した会社は800億で元親会社に売却し、700億を寄付する結果となったのだ。SAWANOそのものも、忠利が事実上の経営決定権は握ったままだが、形の上では引責をして忠利は会長職に退いていて、面目を潰されたと思っているので、忠利はヨーロッパそのものを嫌っているし、幸利にも欧州には決して二度と手を出すな、と厳命している。
ヨーロッパに逃げればひとまずは安全だ、そう考えてエレナはここにやってきた。
「澤野が君をどう扱おうとしているのかは分かった。それで、君は僕と結婚すれば助かるのか?」
エレナが智己に洗いざらい話したのは、それを頼むためだった。時間がない。
「ええ。あの家を出て、まずしなければならないのが、それでしたの。」
義父も義兄も女に、美女に対して見境がない。年齢も上下問わない。ただ、母、祖母である澤野華子には決して逆らわない。華子の許可が無ければ結婚も、外に囲うことも許されない。華子の出す条件は2つ。年齢は問わないが、子供を産むことのできる年齢であること、そして何より重要なことが、既婚者でないことである。
華子の夫であった忠利の父もまた、色好みであった。手当たり次第、という言葉がぴったりで、夫のある女性にも遠慮なく手を出していた。そして、その夫に刺されて死んだのだ。
それは三面記事や週刊誌、当時のワイドショーを賑わす大事件で、SAWANOの屋台骨をも揺るがした。忠利はまだ若く、経営者としてはかなり未熟だった。父の死をきっかけに会社を乗っ取ろうという動きもあって、経営権を掌握するのに多大なる時間を要した。
父が死んだ経緯は、非常に苦い経験となって、華子を、そして忠利を縛っている。だから決して既婚者には手を出さないことにしているのだ。
「澤野の女にならないためにはどなたかと結婚するのが一番ですの。ですから、いずれ、どこかでどなたかにお願いしなければならないと思っていました。」エレナは申し訳なさそうに言う。自分でなくてもよかった、ということではある。智己は少し残念な気持ちになった。
「アメリカに遊びに行っていることにはしていますけど、いずれは義父か、義兄か、おばあ様か。誰かが探しに来るとは思っておりました。でも、まさかこんなに早いとは」
エレナは両の二の腕を自分の手で抱いた。鳥肌が立っている。
「さっきの電話か。」
エレナは頷いた。
「ええ。先ほどホテルから連絡がありましたの。わたくしを探しに来た人間がいる、と。わたくしの写真を持っていて、この人が泊まっていないか、とフロントで聞いたそうですわ。前もってクレアを通じてお願いしておきましたから、追い払ってくれたそうです。」
忠利も幸利も華子も。誰もが澤野の調査部を動かせる。その気になれば見つけ出すだろう。
「ここで捕まったら、わたくしはあの家から二度と出してもらえないでしょう。
だから、どうか。わたくしと結婚して頂いて、わたくしが既婚者であるという事実をつくっていただきたいのです。」エレナは智己の目を真っ直ぐに見つめて懇願した。
「別に構わないが」
智己は冷静な口調で言った。
「え? 本当に?」エレナが思ってもみなかった、というような顔をする。了承してもらいたいと思いつつも、断られる確率の方が高いと思っていた。懇願しつつ他に説得材料はないかと頭を回転させていたところだ。
「でも…あなたと結婚したがる女性は沢山いらっしゃるでしょう?」
頼んだのは自分なのに、否定する材料を探してしまう。
「確かに僕と結婚したい女性は多いが、僕が結婚したい女性はいなかった。」
そう、昨日までは。
「それならいっそのこと人助けに使うのも悪くはない。さっき、助ける、と約束したしな。それより君は本当にいいのか?昨日会ったばかりの人間だぞ?」
期待を込めて聞いてみる。
「そのことですけれど。」智己に頼もうと考えたときに言おうと思っていたことがある。
「わたくしとしては、澤野が諦めてくれさえすればいいのです。わたくしが結婚して、しかも不破家の息子の妻となれば、諦めもつくはずです。そのうち他の女性に心が向くでしょうから、そうなれば離婚してくださって構いません。2年もすれば諦めてくれると思いますわ。もちろん、智己様が結婚したいという女性が出来たり、政略的に結婚が必要なときもございますでしょ。その時はすぐにでも離婚してくださいませ。あ、今のところは特定の女性はいないということですわよね?」
智己は目を白黒させた。
いや、確かにいないけど…というと、エレナはにっこり笑って、よかった。と言った
「離婚なさりたいときは何時でもおっしゃってくださいませね。智己様でしたら大丈夫ですわ。バツイチになっても女性からの評価はそう下がらないでしょうし、言い寄ってくる女性にも困らないでしょう。
あぁよかったですわ。こんな事をお願いするなら女性に困ってない方である必要がありましたから。バツイチだからと再婚できないのはあまりに申し訳ありませんもの。」
エレナは大きな瞳をキラキラさせて言った。
智己は若干眩暈がした。何だか妙な方向で評価されている気がする。
「…じゃあ君は離婚したらどうするつもりなんだ?澤野の家から逃れて、その後は?」
エレナはちょっと考えて言った。
「…留加をあの家から出したいですわ。やっとスイスの学校に出してあげられましたけど、澤野の家の男子であることに変わりありません。ひ弱で役に立たない、と思われているから今のところは大丈夫でしょうけれど、いつ澤野の家の犠牲になるともしれませんから。あの子をわたくしの養子にすることも考えてますの。あの子がもうすぐ15歳になりますから澤野の了解も要りませんわ。
…あとは、自分で自立して生活したいですわね。やはりヴァイオリンで身を立てたいとは思ってますの。そしてご縁があれば普通の方と普通の結婚をして穏やかに暮らしたいですわ。家柄とか、財産とか、わたくしには必要ありません。」
エレナははっきり言った。
「人目を気にせず、何にも怯えず、自由に生きたいのです。」
昨日も今日も、智己の傍で笑っている彼女は自由に見えた。あの笑顔をずっと見せてほしい、自分の傍で。
「でも…」エレナはちょっと困った顔をした
「わたくし智己様に何をして差し上げられるでしょうか…?たとえ一時であっても戸籍を汚させてしまいますから、お願いする方には、報酬を差し上げるつもりでしたの。でも智己様には必要ないですわよね…。どうしましょうか…。」真剣な顔をして悩み始めた。
そんなことを考えていたのか、と他の男に頼んでくれなくて本当によかったと思う。と、同時にちょっと揶揄いたくなった。
エレナの小さな顎に手をやり、こちらを向かせる。
「そうだな…報酬は、君自身でいい。」
「は…はい?」
エレナが頬を赤らめる。多少は意識してくれただろうか。
「君が結婚の形式的な面が欲しいのなら、僕は実質的なものが欲しい。」
エレナは智己の言葉をそういう意味にとった自分が酷く恥ずかしくなった。
「だって…。実質って…。」
智己は確信犯的な笑みを浮かべる。
「僕も君を利用させてもらうよ。結婚することで面倒ごとが減るからね。僕も28だし、そろそろ身を固めてはどうか、とはあちこちから言われている。縁談は日々相当な数が来ているから、それを一々断るのに親も僕も辟易しているんだ。そうだな、一種の契約と思ってくれればいい。」
「あぁ、そういうことですのね」と、「契約」という単語にエレナは少し安堵したような、だが少し残念な表情で頷いた。
「でも外国人が妻でも問題ありませんの?不破の家にとってメリットがありませんわ。」
澤野の家よりも古く、事業規模も大きい不破の家なら政略結婚はつきものだろう。。
「露骨な政略結婚はないよ。両親も、兄姉も、祖父母も、恋愛結婚だな。何代か前に政略結婚させて家が乱れたことがあったらしいから、基本的には待ってくれる。おかげで兄は38まで独身だった。跡取り長男だから大分周りはやきもきしたが。」
はぁ…そんな家もございますのね…とエレナは言ったが、
「澤野の家の方がよっぽど特殊だけどね。」と智己は苦笑した。
「まぁ、そんなわけで、僕が君と結婚する、といえば家族も親戚も反対する者はいない。縁談も来なくなるし、これだけ綺麗な妻を連れていれば女性に変な色目を使われなくて済む。僕にとっては立派なメリットだ。」
こう言えば彼女は納得してくれるだろうか、と咄嗟に考え付いたことだ。だが、エレナには腑に落ちたようで、激しく首肯した。
「そうですわね!わたくし、言い寄っていらっしゃる大抵の女性の戦意を喪失させられる自信はございましてよ。」
エレナがフンッと鼻息を荒くする。「契約」ならば、妻の役割を見事にやりのけてみせようではないか、
大した自信だ。だが、誰もが納得する美貌。その通りなのだからしょうがない。
智己はそれも可愛い、と微笑ましく思った。
「じゃあ、お互い納得できたところで。」
智己は恭しくエレナの両手を取って、言った。
「私と結婚していただけますか?」
「はい。よろしくお願いいたします。」
エレナは美しい微笑みを湛えて答えた。智己はこの上ない幸福感をもって彼女を見つめた。
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