第八章 幸運

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東京にいる間にエレナには訪ねておきたい人がいた。
田園調布の古くからの邸宅が軒を連ねるエリア。その一角にある一軒家。他の家と比べて大きくはないが手入れの行き届いたイギリス式庭園を持ち、主の慎ましやかだが品格のある性格を映したかのような邸宅である。庭を正面にした大きな開口部のあるリビングに、エレナは、かつての師と対面していた。大崎良子は、アメリカの名門カーティス音楽院に学び、かつては将来を嘱望されたバイオリニストであった。

「久しぶりね。よくいらしてくれたわ。」
厳しくも優しかった師は、年を重ねたが変わらず品よく楚々とした美しさを保っていた。
「先生もお変わりありませんわ。」
「日々学生と向き合ってますからね。若さをもらっているのよ。」
彼女は、キャリアを断念して日本に帰国し、現在は母校で教師の職を得ている。実家は澤野の関連会社を経営していたが、父親が事業に失敗。澤野の支援を得るのと引き換えに日本に戻って、澤野の重役と結婚した。

「そう…。あなたは無事に澤野を出られたのね…。」
良子は、良かった、と微笑んだ。
「でも、色んな人に…夫の家に迷惑を掛けました…。」
「そうね。澤野が「結婚」というだけで手放してくれるはずがないわ。ましてや不破が相手ともなれば、ね。でも、彼はそれも全て織り込み済みだったのでは?ここ最近のSAWANOの報道は突然だったし。」
SAWANOの屋台骨を揺るがす不祥事に発展していることは知っているが。
「あなたのご主人、相当な策略家ね。」
「…準備をした、とは言ってました。」
「そうでしょうね。タイミングが良すぎるもの。だから計算の上だったのよ。あなたがいう「迷惑」なんて。」
「そうでしょうか…。」
「そうよ。気にするなって言われたのでしょ?」
「まぁ…。そうですわね…。」
「どうしても気になるのなら、これからお返しすればいいのだから。」
「ええ。妻としての役目を果たしていこうと思ってますわ。」
エレナは覚悟を決めていた。智己が必要とする限り、その役割を果たしていこう、と。

 良子はにっこり微笑んで、白いウエッジウッドのティーカップを置いた。
「そうね。でもあなたがやるべきことはそれだけじゃないでしょう?私のところへ来たということは、何か目途がついた?それとも行き詰ったのかしら?」
「…後者です。」
「私の助けがいるかしら?あちらの音大への推薦文くらいなら書いてあげられるけど?」
「多分、それ以前の問題なのですわ。」

「…そう。そんなことを言われたのね。」
良子はエレナの話を聞いて、顎に手をやった。
「あなたの技術も理論も十分一流のレベルにあるわ。それは私が保証する。私が全て教えたのだもの。」
でもね、と良子は息を深めに吸ってから言った。
「あなたには圧倒的に経験が足りない。人生経験、という意味でも演奏家としても、ね。」
ほぼ引きこもりの人生を送ってきた。閉ざされた限られた人間関係だけで完結する世界に。さらにコンクールにも、演奏会にも出た経験がないというのは演奏家にとって致命的だ。
「やっと自由を得たのでしょう?あなたの人生はこれからよ。そりゃあ、今のあなたにモーツァルトは無理よ。」
「…どういう意味ですか?」
「モーツァルトは人生だもの。」
良子は品の良い微笑みを返した。夢と希望を抱いていた青春時代、それを犠牲にせざるを得なかった不条理。年を重ねて漸く得た平穏。人の生の何たるかを悟りえた人の表情がそこにあった。
「ヴァイオリニストとしてはともかく。あなたはまだ若いわ。今からだって色んな経験ができる。やっとあなた自身の世界が開けてきたところなのだから。それに、ウィーンにいるのでしょ。音楽と向き合うのにあの街は最高よ。精一杯吸収するの。街があなたを成長させてくれるわ。それに…彼が、最高のものをあなたに与えてくれているでしょう?」
良子は先程に増してにこやかに微笑んだ。
 「あなたには才能がある。澤野にいてはその才能も活かすことはできないと思っていたけれど…。あの家を出られたなら、あなたには明るいところで輝いてもらいたいわ。でも…不破の奥様になったら中々難しいかもしれないけれど…」
 確かに彼の妻という立場だけで一つの職といえるほどの責任が付きまとう。だが、それも期限付きだ。いつかは彼にも他の誰かを必要とするときが来るだろう。澤野との縁を切る、それが目的だったから、エレナとしては目的を果たしたことになる。では智己はどうなのだろう。期限を決められたわけではないというのは、彼が必要ない、と言われるまでということか。いつまで、と言われていないことは却って不安が募る。
いつ、彼の元を離れてもいいように自立をしなければ。自分の力で立っていかなければ。彼が自分を必要としなくなっても、人生は続いていくのだから。それにはやはりもう一度バイオリンと向き合わなければならない。これで身を立てると決めたのだ。きっとやり遂げよう。
エレナは心を決めて良子の家を後にした。




それでも、ウィーンに戻ったエレナは忙しかった。不破の次男の妻として、正式に披露されたので、欧州各地で行われる見本市だのパーティーだのに同行する機会が増えたのだ。
華やかな容姿はどこへ行っても目立ったが、彼女がにこやかに微笑むだけで人々を魅了した。彼女の母親がやっていたように、笑って傍にいてくれればいい、と思っていたのだが。数各語を自由に操り、話題も豊富。引きこもり生活をしていたとは思えないほどの社交術を見せ、それには智己も舌を巻いた。

日本からやってきた芽以は、アンナの仕事を手伝いつつ、こちらの生活に慣れようとしているところであった。エネルギッシュに働くアンナであるが、年齢もあって段々と以前のようには身体が動かなくなってきていたので、芽以が仕事を覚えてくれることを喜んでいた。通いではなく泊まり込みで働いてくれるのは、大事な坊っちゃん夫婦を預かるアンナとしても気が楽になったらしい。

 エレナは家にいるときはよく料理をした。芽以と二人でキッチンに立つのは日本にいた時からよくやっていたので、懐かしい感じがした。
今日は昼過ぎからオックステールを煮込んだ。遅い夕食にありついた智己は、
「渋みが欲しいな」といって、芽以に銘柄を指定して地下のワインセラーに取りに行かせた。
「前から思ってはいたんだけど。」
メルローワインを開けながら智己が言う。
「エレナの作るものはどれも美味いんだが。やたらと酒に合うよな?あんまり吞めないのに。」
「そうかしら。料理は芽以の母親の克子さんから習いましたのよ。芽以もそうだから、似たようなものよねぇ?」
給仕をしていた芽以に同意を求めたが、芽以は申し訳なさそうな顔をした。
「私も母から習いましたが…。母がユリヤ様と話していたのは、お嬢さまは絶対にお酒好きの方と結婚なさるだろうから、そういう料理から教えた方がいい、と。」
「え?何それ…初耳よ?」
「私もよく分かりませんが…。母には思うところがあったのかと思います。」
「すごいな。見事に言い当てている。」
克子は母と共に澤野に来てからずっとエレナの面倒を見てくれていた。知らない土地で不慣れな母をサポートし、エレナのことも留加のことも母と共に育ててくれた。母が病に倒れたときもずっとそばにいてくれたし、母よりも、エレナ自身よりもエレナのことを理解してくれている。芽以はもちろん岸野一家がいてくれなければ、自分も留加もどう育っていたかわからない。もちろん結婚相手の胃袋を掴むことなんてできなかっただろう。
「感謝しないと、な。」
オックステール肉を口に運びつつ智己が言った。
「ええ。そうですわね。」
とエレナも頷いた。

 智己は変わらず忙しく、帰宅が深夜になることも多かった。かといって朝が遅いわけでもないので、短い睡眠時間でよくやっていられるな、とエレナは思っている。智己に言わせればエレナと眠れば睡眠の質が違うのだ。短くても熟睡できるので、何も問題はない。出張先で独りで眠るよりもずっと疲れがとれるのだ。

 智己がシャワーから出てくると、エレナはソファに座って何かに見入っていた。タオルで濡れた髪をクシャクシャと乾かしながら、彼女の後ろから何を見ているのかと覗き込む。エレナの髪からはペンハリガンのルナの香りがした。
それは一枚の写真。金髪に整った顔立ちの細面の男性で、落ち着いた様子の繊細な美しい人であった。嫉妬心がチリチリと焼け着く。だが、その手には天使のような幼子が抱かれていて、邪な気持ちは消えた。

「写真?」
「あら。ええ。父ですわ。」
物思いに耽っていて智己が後ろにいるのに気づかなかった。振り返るエレナはその男性と変わらぬ青い目をしていた。
「よく似ているな。」
「母はそう言っていましたわ。でも周りの人は父を知りませんから母似と言われますわね。」

 顔も覚えていない頃に亡くなった父。オーケストラの練習からの帰りに交通事故に遭い、あっという間に亡くなってしまった。若くして幼い娘と二人残された母は必死で働いて育ててくれた。母は後悔を口にしない人であったが、目立たぬよう息を殺すようにして過ごさねばならなくなってからは、エレナに何度も謝った。だが、エレナは義父の求婚に応じた母を責めたことはない。若く身寄りもない女性がひとりで子供を育てるのが容易ではないことは幼いエレナにも理解できたからだ。
 エレナの祖父母は旧ソ連時代にアメリカに渡ってきた移民である。両親だけでなく、父方の祖父はチェリストだったし、母方の祖父も舞台芸術に携わっていた。芸術に才があるのは、両親の、そして祖父母からの賜物であるとエレナは感謝している。
だが、父はどう思っているだろうか。母を、そして今の自分を。

「ここで…。こんなところで諦める訳には参りませんの。父のバイオリンを手にしたときから…。これとともに生きていくと決めたのです。」
自分自身に言い聞かせるような言い方だった。これが、いやこれだけが父に顔向けできる唯一のものなのだ。
エレナの細い肩がふるふると震える。智己はその肩を後ろから抱きしめた。
「そのバイオリンは君と共にある。きっと父君も。
・・・本当は、コンクールの入賞とか世間の評価とかが欲しいのではないのだろう?それを、父君のバイオリンを奏で続けることが大事なんだ。違うか?」
「そう…。そうですわ。」

自分の奥にあって、でも自分では未だ自覚していない思いを智己は見抜いて言葉にしてくれる。そんなことをしてくれる人は彼が初めてだ。そもそも狭い人間関係ではあるが。母よりも弟よりも、傍で世話をしてくれた人たちよりも短い時間しか共有していない彼が誰よりも自分を理解していることが不思議で、心臓をくすぐられるようなこそばゆさがあって、それは幸せであった。
「わたくしの気持ちがどうしてお分かりになりますの?」
「全てが分かるわけじゃない。でも、エレナの全てを知りたいと思ってる。」
エレナの顔を両手で包む。小さな頭に細い首。繊細で今にも壊れそうだ。大きくて青灰色の瞳は神秘的で吸い込まれそうになる。

「それに…。欲をいうなら、僕のことも理解してくれると嬉しいかな。」
智己は柔らかく笑う。部下が見たら腰を抜かすのではないかという表情を、智己はエレナにだけ見せる。常に冷静、怜悧で冷たく、時に残酷。ビジネスの世界で生きていくのに必要な仮面を、もういつからだったか分からないほど幼い頃から身に着けてきたので、それが自分の顔だと自分も周りの人間も思っていた。それほど穏やかな面があったのかと自分に驚く。

「わたくしも…知りたいと思っていますわ…。」
なぜ自分にここまでしてくれるのか。その本心が分からずにいる。智己は言葉にしていても、エレナは自信が持てずにいる。自分が家を出るために彼を利用しているという負い目、彼の家に、仕事にとって何のメリットもない「妻」であることの負い目。それらが、エレナの心を縛っていた。
 だが、智己はエレナのその言葉に舞い上がっていた。
「全部…教えてあげる」
智己はエレナの白い頬にキスをする。エレナは大きな手に頬をすり寄せ、その温もりに身を委ねた。

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 アパートメント近くに、モーツァルトハウス・ウィーンがある。モーツァルトが1784年から3年間住んだ家であり、彼の生涯と作品、時代背景をたどる展示がなされている。オペラ『フィガロの結婚』はここで作曲され、彼が人生で最も幸福な期間を過ごした場所だ。1階はカフェになっているのだが、そのカフェの一角で、濃いめに入れたモカにミルクを少し加えたブラウナーのカップを前に、エレナは、ケビン・ブルックスと対峙していた。

「よりによって、ここですの?」
「まぁ…。そう言わないでください。どうせしょっちゅう通る道でしょう?」
「それはそうですけど…。」
「そろそろ、考えてくれましたか?」

ワークショップに参加した初日にイルーゼにこき下ろされた、ということはケビンにも寝耳に水であった。一流のソリストへの足掛かりにして、自分のレーベルから華々しくデビューさせようと思っていたのに。教授のクラーラでさえ、イルーゼがノーを突き付けた相手を改めて自分で見てみようと言う気にはなれないようだった。だからといって完全に道がなくなったわけでもない。エレナさえその気になればいくらでも方法はある、とケビンは思っていた。

「コンクールに出る、ということですわよね。」
「いきなりCDデビューというのも面白いですけどね。」
それはさすがに突拍子すぎるとエレナは思ったが、ケビンとしてはまんざらでもなかった。実力を備えた若き美貌のバイオリニスト。そんな売り出し文句も彼女にとっては誇張でもなんでもない。

「コンクールは出てみたいとは思っていますの。人前でほとんど演奏したことがないので。」
「あなたが音楽への情熱を失っていなくてよかった。手始めに地元のコンクールからはじめましょうか。とはいえここはウィーンです。簡単にはいきませんよ。」
覚悟はできているか、とケビンはいつもの穏やかな表情をこわばらせて挑むような目をした。
澤野の家を出られたのだから、もはや憂いはない。そしてもう一度バイオリンと、音楽と向き合うと決めたのだ。エレナは力強く頷いた。青灰色の目には決意が宿っていた。





シェーンブルン宮殿は、ハプスブルク家の夏の離宮である。外壁の色は女帝マリア・テレジアが好んだ色でテレジアン・イエローと呼ばれる。豪華な宮殿内部だけでなく、背後の広大な庭園、動物園、それらを展望する高台にある記念碑グロリエッテなど見所が多い。
宮殿内の劇場は、女帝が家族のために造ったものであるが、シャンデリアが輝く絢爛豪華な劇場であり、時折オペレッタやコンサートが行われている。

エレナと智己は、揃ってコンサートを鑑賞したあと、庭園に出た。
「それで、コンクールに出ることにしたのか。」
「ええ。今から間に合いそうなものを見繕ってもらってますの。ちょっと、練習が必要ですわ。」

庭園から小高い丘の上にあるグロリエッテまでは日陰のない坂道をひたすら歩く。カジュアルなコンサートであったので足元がバレエシューズだったから良かったが、パンプスなら厳しかっただろう。薄っすら汗を浮かべて登った丘の上からの景色は十分にその価値があった。市街地も、ウィーンの森までも見渡せる絶景だった。
一休みしようとこちらも宮殿と庭園の眺めが素晴らしいグロリエッテ内のカフェに入る。
ウィーンで最も多くの観光客が訪れる場所とあっていつも人が多いがこの時間は比較的すいていた。店員が眺めの良い席に2人を案内してくれる。
 アーチ状の窓から覗く庭園の緑を横目で見ながら丸テーブルの間を抜けていく。景色に注意を持っていかれて、横から人が来ていることに気づかなかった。気づいたときには肩と肩が触れていた。
「Verzeihung」
向こうから謝られてしまったので、私こそ、と言いながら相手の顔を見る。
背はエレナよりも若干高いすらっとした女性。ウェーブがかった黒髪に、切れ長の目の東洋人。年齢は50代くらいだろうか。整った顔立ちの美しい人であった。
「エレナ、どうかした?」
「あ、ちょっとぶつかってしまって…」
そのやり取りが日本語だったのを見て、女性が笑顔になった。
「日本からいらしたの?」
「ええ。夫が日本人で。」
夫、という言葉がすんなりと出てくるようになったことにエレナは嬉しいような恥ずかしいような気持ちがした。
「そうなの。うちも国際結婚よ。夫がこちらの人なの。ああ、そこにいるわ。」
彼女が手を振る方を見ると、恰幅の良い白髪交じりの男性が手を振っていた。



「え?そこにお住まいですの?」
エレナと智己はギンター夫妻とともにシェーンブルン宮殿の美しい庭園を見渡せる窓辺で丸テーブルを囲んでいる。
「そうよ。宮殿に住んでるの。」
貴子・ギンターは夫のルカスよりも背が高く、品の良い女性だった。
「それは素敵ですわ。」
シェーンブルン宮殿内にはアパートメントが35室ある。ギンター夫妻はそこの1室に住んでいる。世界遺産内に住むという特別な体験を夫妻は10年続けている。
「観光客の間を縫って買い物の荷物を運ぶのはちょっと大変よ。」
「騒がしくはないんですか?」
「夜には閉まるから、音はそれほど気にならないんだよ。風向きによって動物園のライオンの唸り声は聞こえるけどね。」
エレナと智己の質問に、気さくに応えてくれる。二人はすごい話だ、と感心しているが、他人から見ればウィーン中心部シュテファン寺院の目と鼻の先に暮らすのも似たようなものではある。

「人の声よりこの人のピアノの方が音、大きいもの。」
「ピアニストでいらっしゃるのですか?」
「曲を作ったり歌ったりしてるんだよ。」
「あなたは…バイオリンを弾くのね?」
貴子は自分の顎を指す。エレナの顎にはバイオリンを支える時にできるタコのようなものがある。小さい頃には腫れあがって潰れて、治った頃にまた潰れて、というのを繰り返していたが、近年は大分小さくなっていたが、分かる人にはすぐに分かる。
「ええ。勉強中ですの。」
「へぇ。ねえ、この後時間ある?うちに招待したいわ。うちから見るグロリエッテも綺麗なのよ。ねぇ、あなた。」
人の好さを表すような丸い腹を撫でながら、ルカスは頷いた。



 こんな時間からお邪魔するのも、と遠慮する二人を半ば強引にギンター夫妻は宮殿内にある自宅に連れて来た。
広いリビングの窓からは真正面にグロリエッテを見ることができた。これほど最高の景色をわが物にできるなら、観光客に混じって買い物バッグを下げることも、何段もの階段を上ることも苦ではないのかもしれない。
リビングには、貴子の写真が数多く飾られている。ドレスや着物、古代ローマ風の衣装を着てスポットライトを浴びている。
「貴子さんは…女優さんでいらっしゃるの?」
「そうよ。日本では映画もドラマも舞台もやってるのよ。」
早くから日本を出た智己はともかく、引きこもりのエレナは色々なことに疎い。恐縮するエレナに、いいのよ、と貴子はあっけらかんと笑った。

「僕が作曲したミュージカルに出てたんだよ。そう、これがそのときの写真だ。」
「これは…モーツァルトですか…?」
鋭いね、とルカスは智己の勘の良さを褒めた。写真の貴子は、長い髪をウェーブさせて一つに纏め、ダメージデニムを履いていて、肩からかけた赤いフロックコートは金糸で刺繍がされていた。言われれば確かにモーツァルトの肖像画で見る衣装だ。
「モーツァルトがもし女性だったら、という設定のロックミュージカルなのよ。」
背が高くスラリとした貴子には中世的な魅力があり、自然な振る舞いの中にもスターらしさがあった。
 
 ここでもモーツァルトか…。どうにも彼の楽聖からはもはや逃れられないのかもしれない。智己はエレナの表情から彼女が何を思っているのか察して、肩に手をポンと置いた。
「彼女はモーツァルトを勉強中でして。」
あ、言ってしまうのね…とエレナは不安気に智己を見上げる。夫は大丈夫だよ、というように、にこっと笑った。
「あら、そうなの?」
「ええ、実は…」
エレナは、イルーゼ女史と大崎女史に言われたことを夫妻に話した。一度は自分の音楽を見失いかけたこと、今改めて向き合おうとしていること。自分なりになるべく整理して伝えるつもりだったが、感情的になって揺らぐ言葉も、夫妻はときに頷きつつ、心を寄せて拾ってくれた。
「ときに技巧に偏るのは悪いことではないんだよ。技術がなければ表現できないのだから。」
ルカスは包み込むように諭す。
「感情は後からついてきてもいいんだ。感情の赴くままにして技術が疎かになるよりはね。大丈夫。君はちゃんと感情がある。それを出し切れていないだけだ。ずっと抑圧されてきただろう?分かるんだ。自分の感情に、気持ちに向き合ってごらん。素直に。今の君にはできるはずだよ。」
 どうして、会ったばかりだというのに、エレナが置かれてきた環境が分かるのか、これが優れたアーティストだからなのか。エレナは記憶の奥底に残る父の温もりと同じ種類のものをこの作曲家から感じていた。
「モーツァルトが人生だ、というのはその通りね。」
大崎女史の言葉を貴子は繰り返した。
「人生の栄光も苦難も、喜びも悲しみも。どうしようもない部分も。全てがあるもの。彼を確信しているわ。私は曲を演奏するわけではないけど、そういうことでしょう?」
うながされたルカスは、うんうんと頷いた。
「私は夫と出会って、人生の悦びを知ったわ。それと同時に失うことの怖さと孤独を知ったの。それまでずっと一人で生きてきて何ともなかったのに、ね。あなたも…そうなんじゃないかしら?」
貴子は、エレナと智己を交互に見た。
 彼と出会って、肌を重ねて。自分が孤独で弱いものだった、と初めて知った。母も弟もいたし、支えてくれる人もいたから、孤独を感じたことはなかった。留加を守るために強くあろうと思っていたし、自分は姉としてしっかりしていて、強いとも思っていた。だが。結局自分の力だけで澤野から逃れられたわけではないし、演奏を批判されて心を折ってしまった。彼が傍にいてくれなければ、今自分はどうなっていただろうか。考えるだけで怖くなるし、自分が弱い存在だと思い知らされてしまった。だが、それと同時に悦びも。女としての人としての悦びも知った。彼と過ごすことの悦びを。

「そう…だと思いますわ。」
色々な思いを巡らせて出た言葉は、あまりに短かったが、貴子は全てを理解してにっこりと笑った。
「ねぇ。何か弾いてみてくれない?この人が伴奏するから。」
貴子がルカスの腕を取る。
「息子が昔使ってたヴァイオリンがあるのよ。コンクールで入選したこともあってね。バイオリニストになるかと思ったら、バンドやりはじめてね。」
ルカスが別室から持ち出してきたヴァイオリンは、イタリアのオールドヴァイオリンで、中々の銘品であった。

「じゃ、モーツァルトでお願いね。」
貴子は中々のスパルタだ。
だが、ルカスがベーゼンドルファーのピアノで奏で始めたのは
明るく楽しい曲を選んでくれたルカスの優しさを感じた。
優しい音。跳ねる音。
ひとつひとつが包み込むようで、エレナは上手に乗せられて楽しい気分で弾いた。

貴子が二人の演奏をスマホで撮り始める。そして自分も合わせて歌い始めた。
長く歌はやっていない、と言っていたもののブランクを感じさせない美しい歌声であった。偶然の出会いから始まった即興コンサートのあまりの豪華さに、智己は感嘆した。
いつまでも聞いていたい。そんな時間を独り占めできる贅沢。

作りおきで悪いけど、というルカスの絶品のグーラッシュまでご馳走になって、エレナと智己は歴史ある宮殿を後にした。楽しくてずっといたくなる、そんな時間の余韻に浸っていた。
ただ幸せで充実した時間が彼女を取り巻く環境を大きく変えることになるとは、露にも思わなかった。

 オーストリアは、音楽、歴史、文化のイメージの強い国であるが、環境先進国でもある。脱炭素推進政策の下、再生可能エネルギーの活用に力を入れていて、発電力量の6割近くは水力発電で賄われている。もっともこれ以上の発電所建設は環境負荷が高すぎると、別の再生可能エネルギーを増やす方向に向かっている。特に太陽光発電に関しては、積極的に建設が進められ、投資が奨励されている。
FUWAのエネルギー部門も、水力発電所の建設に関わってきたが、近年は太陽光発電に力点を置くようになってきている。

 今日、プラーター公園隣のメッセ・ウィーンで行われた見本市も、再生可能エネルギーに関するものであった。エレナを伴ってFUWAの取締役として参加した智己は、ヨーロッパ中からやってきた政治家や企業の重役に次々に顔を繋いでいく。アメリカで学生生活のほとんどを過ごした彼にとって欧州での人脈は太いわけではない。だが、プリンストンだのINSEADだのにおいて培った人脈は、短時間で数多くの人に会う場面では容易に繋がりを見つけることができる。ましてや美しい妻を連れていれば、華やかな場で人目を惹くことこの上なかった。もっとも、「お綺麗だから話してみたかった」人間から、彼女に不躾な視線を送る者まで有象無象ではあったが、智己は冷静に人を見極めて顔繋ぎに利用した。

「経済大臣と知り合えたのは大きいですね。」
智己が佐伯と本日の成果について話し合っている。
「奥方はエレナを相当気に入っていたな。」
そこへエレナがスウェットにデニムというラフな服装に着替えて入ってきた。
「わたくし、お役に立てまして?」
「あぁ。本当に助かるよ。茶会に呼ばれたって?」
「ええ。てっきりティーパーティーだと思ってたら、昔ご夫妻で日本にいらしたそうで茶の湯がご趣味ですの。大使夫人が、どういうわけかわたくしが茶名を持っていることをご存じで。お教えすることになりましたのよ。」
エレナはちょっと困ったというように眉を寄せた。
「それは…」
「母さんだろうな。」
FUWAの当主夫人である母紫乃は、大使夫人とも懇意だ。あちこちで次男の妻のことを自慢して回っているという事実は智己の耳にも入っている。
「本当は誰にも見せずに隠しておきたいんだけどな。僕の妻の出来が良すぎて皆が放っておかない。」
智己はエレナの頭を胸に抱き寄せ、ラフにまとめた髪にキスをする。
会議だのレセプションだのは何枚か猫を被って振る舞うので肩がこる。だが、智己はいつもこうやって労わってくれるし、感謝の言葉も伝えてくれる。
彼の役に立てているという実感はエレナにとって今や自分の存在意義であった。
「付下げやら訪問着やらを随分送り付けてきたみたいだ。すまないが呼ばれてきてくれるか。」
「分かっておりますわ。」
紫乃は、こうなることを予想してか、期待してかは分からないがエレナのためにとせっせと着物を誂えていた。
「アハマドからも、アルワリードへ来る際には国王陛下にお茶を点ててくれないかと言われておりますの。しばらくやっておりませんから練習しておかなければ。」

 FUWAではいつの頃からか、あるジンクスが囁かれている。不破家に個人的な慶事があったときには、会社の業績に大きな影響を及ぼすことがある、ということである。結婚や出産などがあった際に、大型の買収案件や投資案件が舞い込んできたり、大規模な事業が突然決まったりする。社員は突如大忙しになることがあるので、不破家の人間の個人的な動向を注視しているのだ。近年では、長男の孝己の結婚の際には、葵が滞在していた南米で豊富なレアメタルを産出する鉱山が手に入ったし、夫妻に娘が生まれたときには、無理筋だと思われていた東南アジアの某国の発電所の入札に成功した。
それらは思ってもみないところから起こるので、結局は誰もが予想できないのだが、次男の智己の結婚はあまりに唐突だったので、さて、何が起こるかと不破の人間も、FUWAの人間も身構えているのであった。
 そして恐らく、今回の慶事で引き起こされるFUWAにとっての大事業はアルワリード王国での鉄道事業となりそうだった。エレナの友人、ナタリアの恋人アハマドは王国の王子であり、国の近代化政策の先頭に立っている。世界各国から投資を引き出すことに成功し、目玉政策となるのが、首都と第二都市をつなぐ鉄道計画であった。その他に、増えた人口に対処するための発電所事業も控えている。アハマド王子と智己の、エレナとナタリアを介した個人的な付き合いは、一会社を超えて国家間の関係へと発展しつつあった。
「あの暑苦しい顔を、今度は暑い国でみないといけないのか。」
ここ最近、互いの事業を超えて、欧州各国の出張先で食事をしたり、飲みに行ったりしているようだ。
「随分と気が合ってますのね。」
「あいつが勝手に絡んでくるだけだよ。」
つっけんどんな言い方ではあるが、自分を特別扱いしない気の置けない関係であるのは彼にとっても、アハマドにとっても得難いものであることはお互いが一番よく分かっている。

 エレナがクスと笑う。
「ナタリアも。もっと彼を受け入れてあげても良いとは思うのですけれど。」
「求婚の返事を保留されているらしいな。」
「どうしてもあの国の制度が受け入れられないのだそうですわ。妻を5人まで娶ることができるという。」
「昔からの慣習だな。」
「ナタリアに、5人なら少ないほうじゃないの、と言いましたの。」
「…」
智己は押し黙った。
「…ちょっと言い過ぎましたかしら。ともかく。一夫一婦制であってもハーレムを築く人もいるのだから、制度など意味がないと思いますの。結局は二人の関係に尽きますわ。」
「あいつはそれも変えようとしてるけどな。」
「…?」
「古い慣習だし、社会保障制度的な意味合いもある。だが経済発展すればその意味もなくなるから。」
「一夫一婦制にしようとしていますの?」
「そうみたいだな。障害になるものは片端から失くそうとしてるんだ、あいつは。それもあって経済政策に力を入れている。」

 制度など何の意味もない。そもそも心だって簡単に離れる。妻の立場などそのときの状況によって簡単に失われるものだから、法の上で妻が1人でも5人でも一緒だと思ったのだが。一国の制度まで変えるほどのものなのか。

「ナタリアは随分と尽くされてますわ。」
彼女との結婚のために国の制度を変えようというのだから大したものであると言わざるを得ない。だが、それが愛ゆえのものだとエレナには理解できなかった。そもそも彼女のためにそこまでしてくれているのだから応えてあげれば良いのでは、という感覚である。それはエレナ自身の智己との関係においてもそうであった。

「僕も妻に尽くしてるよ。」
上司が妻の頭やら肩やらを撫でさすりながら話す一連の甘い動作に、最近の秘書は随分と慣れてきたもので何でもないことのように振舞う。
「アルワリード王国訪問の件は、詰めておりますので、後日にいたしましょう。」
「ところで。」
佐伯は、声調を整えた。
「例のSNS投稿の件ですが。随分と話題になっているようです。ブルックス氏もギンター氏もこれを機会に売り出しては 、とお考えです。」
「そのことだったのですね。クレアとナタリアが随分興奮して連絡してきて、何事かと思いましたの。」
 シェーンブルン宮殿で出会ったギンター夫妻。夫のルカス・ギンターが作曲家であり、映画音楽を手掛けてアカデミー賞を獲っていることを知ったのは、彼らと楽しい夕食の時間を過ごした後のことであった。エレナがヴァイオリンを使わせてもらった彼らの息子もロックバンドのギタリストで、今年のグラミー賞にノミネートされている。
貴子が撮影したルカスとエレナのセッションは、ルカスのSNSに上げられ、息子のエルマーの「僕が雑音しか出せなかったヴァイオリンがこんな音を奏でるなんて!」というコメントと共にシェアされ、拡散した。もちろん現代インフルエンサーのクレアがチェックしないわけもなく、時差を完全に無視して「ちょっと!どういうことよ⁉」と連絡というより詰問をされたのである。以前クレアのSNSにチラリと出たこともあるし、路上で演奏したときの動画もネット上にある。このネット社会、それらが全て同一人物であると特定されるのはもはや時間の問題であった。
「動画配信でもするか?どっちにしろコンクール応募で撮らないといけないんだろ?」
「そうですわ。でも機材とかも必要でしょうし…」
「それは、うちのスマホさえあれば問題ないさ。」
智己は何でもないというように笑った。

智己が 創業メンバーの一人であるff。最新発売のスマートフォンの売りは先進的なカメラシステムで、誰でも映画だって撮れてしまう機能性である。
実際、機械にはとことん弱いエレナでも簡単に美しく奥行のあるビデオが撮影できた。もっとも芽以は手助けをしたが。
老舗レーベルの重役を務めるケビンは、エレナの演奏の自撮りをそのまま開設したSNSに載せた。コンクールの一次は演奏動画で審査されるためアパートメントの部屋で課題曲を弾いたもの、公園で、スタンドを立てて、気分によってただ好きな曲を弾いたもの、それだけの動画である。ただそれは、世界的ミュージシャンが、インフルエンサーがシェアしたというだけでなく、演奏者の類まれなるルックスと、これまた美しい演奏で、瞬く間に拡散し、ケビンの元には彼女についての問い合わせが殺到することとなった。

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