第十章 動揺

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ここのところ智己は家を空けることが多くなっている。
現在ウィーン支社長を務める智己は、各国との交渉のために東欧を中心に欧州各地への出張に行くことも多かったのだが、創業家の次男でもあることから本社での役割も大きく、専務取締役という肩書以上に経営中枢としての判断を求められた。
現在、FUWAの、というだけでなく世界中で起きている大きな問題が、深刻な半導体不足であった。次世代移動通信システムインフラの拡大、AI、自動走行技術の拡大、脱炭素で、世界的に需給がひっ迫し、パソコンや家電を中心に品薄状態が続いており、自動車も減産を余儀なくされている。
 多国籍コングロマリットであるFUWAの重要産業の一つである機械分野でそれは重大な問題であった。世界各国に多種多様な企業を傘下に入れているFUWAでは、原材料から製造の主要部分を自社で行える稀有な企業ではあったが、製造工程が非常に多く、それを製造する機械、製造機械自体の部材も多種に渡る半導体の製造の全てを自社グループで賄えるわけではない。自社製品使用分と他社からの注文分との微妙な差配を行っていたのであるが、ここへきて、製造過程の一端を担う取引先があるアジアの国を深刻な水不足が襲った。さらに別の取引先の東南アジアにある工場も台風の被害を受けた。先冬には寒波の影響で自社の北米工場が閉鎖に追い込まれていたことも相まって、同時多発的に問題が起きる事態となってしまった。
 数年前に税制や人件費などの採算の問題から国内工場を閉鎖して外注に切り替えた分野で起こったことでもあったので、智己にすれば、父や兄の経営判断の失策を言いたい気分ではあったが、起こってしまった以上は仕方ないと、各支社や工場の調整、取引先との調整に奔走していた。

来週からまた日本に行かねばならず、いつウィーンに帰れるのか見当がつかない。新妻と離れがたいので、しばらくエレナとともに日本に行くことにした。
「悪いね。付き合わせて。」日本にあまり行きたがらないのは分かっているし、忙しくて家にそれほど帰れるとは思えないのだが、東京とウィーンとでいつ会えるかわからない時間離れるよりはましだと思ったのだ。
「大丈夫ですわ。日本でコンサートの出演依頼がいくつか来てますの。それにお義母様が京都に連れて下さるそうですわ。湯豆腐を頂けるのですって。楽しみですわ。」
エレナの声は明るかった。妻が寂しくならないように母が配慮してくれたらしい。

 状況にはいくつかの問題があった。半導体の製造は前工程と後工程とに分かれる。前工程は完全な装置産業であるが、後工程は人手がある程度必要となるので、人件費が安く、国民性が組み立て作業に向く東南アジアに工場が集中している。FUWAだけでなく、他企業も工場を構え、他に地元企業もあるが、ここを自然災害が直撃した。生産ラインに被害が出たため、復旧には数か月単位の時間がかかると見込まれた。
その他に大きな問題であったのが、需要が旺盛な半導体製造装置の部材不足であり、生産ラインの復旧だけでなく、半導体を使用するあらゆる機器の生産に支障が出始めていた。FUWAは大規模設備投資を急いでいたが、装置の調達難が増産体制のブレーキになる恐れがあった。既存の体制では不十分で、新たな調達先を確保する必要が出て来たのである。FUWAの需要に応えられる品質と数量を生産できる企業はそれほど多くはない。智己はそれら企業との交渉に出向く必要がある。だが、FUWAとしては生産をお願いする立場である。厳しい交渉になることは目に見えていた。

創業家の次男はその整った容姿と類まれな能力で社員からの憧れの的であったが、欧州に本拠を移してからは東京本社で見かける機会が減ったので、ここ最近毎日のようにオフィスに来るので、その美しい顔を拝めるという状況は、事態がそれだけ切羽詰まったものであるということを示すものではあるのだが、浮足立つ者も少なくなかった。
FUWAの本社社屋ビルに宛がわれた部屋で、智己は佐伯からの報告を受けていた。
「今度の会合にはサマンの社長と、宍戸の会長がいらっしゃいます。」
「ふむ…。」
いずれも現在の状況を打破する調達先として申し分のない設備規模を備えているはずだ。どちらかと製造装置の供給契約を結んでおかなければ今後の事業部門の存続にも関わってくることになるだろう。
「宍戸、か。」
パリ・オペラガルニエで出会った老紳士。体調を崩していたところをエレナと介抱し、その後食事もともにした。宍戸朔太郎は、宍戸化学工業を興して、一代で業界有数の企業に育て上げた人物である。一恰幅よく一見したところ人当たりの良さを感じさせるが、有能な経営者らしい鋭さと老獪さを兼ね備えた人物である。一筋縄ではいかぬ気はするが、話の通じない人物ではないだろう。ただ、やや気乗りがしないのは、オペラの後に共にした食事の席で、エレナが同席しているにも関わらず、彼の孫娘が送ってきた秋波のせいだろう。
世間には、所謂常識の通じぬ類の人種がいる。普通ならそう行動はしないだろうという予測を裏切ってくる者。突飛なアイデアを思いつくという意味において、このタイプは、芸術やビジネスの面で功績を残せるのだろうが、人間関係、特に男女関係でこれを成されるのは只々迷惑を引き起こすだけである。宍戸朔太郎の孫娘、詩子はその類型の人間であるように見えた。一見清楚で大人しく慎ましやかなのでそうは見えない。いや、だからこそ気をつけねばならない類なのだ。

「その日のエレナの予定は?」
「奥様は池袋の劇場でコンサートのリハーサルです。」
折角日本に来るのだし、どうせ智己は仕事漬けなのだから、と不破の音楽財団の総帥を務める紫乃は、エレナに来ているあちこちのオーケストラからの客演依頼を受けた。その次いでにあちこちで土地の美味しいものを食べたりと母娘旅行を満喫していた。

「わかった。こちらではその方がいいだろうな…」
智己は独り言のように呟いた。

 会合の首尾は上々であった。サマンとは部品の供給契約で利害が一致したし、宍戸も会長から直々に前向きに検討したいとの返答を引き出すことに成功した。智己に付いて参加した佐伯は上司の手練手管に感嘆しつつ、成果を本社に報告できることをさも自分の手柄のように喜んでいた。これでこの先10年の憂いがなくなると。
 一方の智己は嫌な予感が的中していた。宍戸朔太郎に付いて、孫娘の詩子も会合に出席してきていたのだ。老齢である祖父の介助のためなのか、FUWAから智己が出席することを聞きつけてやってきたのかは定かではないが。
「智己さん、お久しぶりですね。」
肩の辺りで切り揃えた黒髪に、椿柄の赤い訪問着。ほんのりと頬を上気させ、紅を引いた小さな口の角をキュッと上げて微笑む。蠱惑的というには年が足りないが、目線には妖しさをもっている。26という年齢よりも年若く見えて、小柄で白い肌の詩子はさながら日本人形のようで、会場でも年配の紳士を中心に注目を浴びていた。
「お二人ともお元気そうで。」
智己はビジネス用の顔を貼り付けて応えた。
「いやぁ。ご無沙汰ですな。ご活躍のようで。エレナさんもね。動画、儂も楽しみに見させてもらってるんですよ。」
「それは、恐れ入ります。会長のように耳の肥えた方に楽しんでいただけるのは光栄ですよ。」
「あれだけの美貌と才能を兼ね備えた演奏家は中々いるまいよ。君は素晴らしい奥方を持ったものだな。」
「でも…奥様が多忙になって、色々と支障がおありではないのですか?」
詩子は上目遣いで媚びるような声色で言った。
「いえ。特には。」
智己はきっぱりと言い切った。万が一にもエレナを貶めるような言葉を吐こうものなら容赦はしないぞ、と目で牽制するのを忘れない。
「そう…ですか。」
詩子はバツが悪そうに目線を床に向けた。
「時に。智己さん、一度我が家に来ないか?儂のコレクションを是非とも見せたいんだ。折り入って話したいこともあるしな。あぁ、もちろんエレナさんもご一緒に。」
緊張した空気を変える意図があったかどうかは定かではないが、その場を取り繕うつもりでそう言ったのではないことは言葉の端から伝わった。詩子は最後のエレナも、というのにはやや眉をひそめたが、祖父の提案を受け入れてくれるよう、期待のまなざしを込めて頷く。
交渉を進めるには、宍戸の全権を握っている朔太郎の攻略は不可欠だ。智己は誘いを受け入れない訳にはいかなかった。
「ありがとうございます。是非。」
朔太郎は鷹揚な姿勢で、満足そうであった。
「儂のコレクションは自分で言うのもなんだが、中々のものでしてな。いや、若い方には中々理解して頂けんのだが。君は相当に造詣が深いから…」
朔太郎は長年かけて蒐集したというレコードやら楽譜やらの自慢話を始め出したら止まらなかった。

 渋谷区松濤の古くからの邸宅が並ぶ地域の一角。宍戸朔太郎は居を構えていた。コンクリートの打ちっぱなしの地下2階、地上3階の現代的な邸宅である。通りに面した方は上階までスリット窓が1本入っただけでさながら四角い要塞のようで、人を寄せ付けない重厚感を醸し出していた。車を降りてそれを目にしたエレナは敵の本拠地に赴くような気分になった。
しかしながら砂利が敷き詰められた門から玄関までのアプローチには紅葉の木が植えられ、あちこち形よく配された岩は、しっとりと苔の着物をまとっている。現代的な無機質な建物と自然の美しさを融合させた建築の美にはエレナも嘆息せずにはいられなかった。

 コンクリートの無機質な部屋に、スチールと木材を組み合わせた調度品が並び、壁には赤と青の四角を組み合わせた現代絵画が掛かっている。この家の住人が新進気鋭の若手アーティストというのなら誰もが納得するだろう。だが、齢70を超えた老練な経営者である宍戸朔太郎が主である。
「モダンで素敵なお宅ですね。」
「いやぁ。目新しいものが好きでしてな。若い作家の勢いのあるものに囲まれていると生気が湧いてくるんですわ。」
「それが、お元気な秘訣ですのね。」
朔太郎はいつものスリーピースでなく着流しを着て、懐手をする姿はいかにも風雅人といった様相である。逆に孫娘の詩子は着物ではなく、小花柄のワンピースを着ていた。袖のあたりがふんわりと膨らんで、裾をひらひらとさせる様子は、彼女の愛らしさを増幅させている。自分を魅せるものが何かをよく分かっている様子に、エレナの深奥がチリチリと音を立てた。
「もちろん、古いものも好きでしてな。この家には意外に骨董も合うんだ。あぁ、是非儂のコレクションを見て行ってくれ。」
朔太郎の案内で2階へと移る。家政婦が恭しく開けた重みのある扉の向こうは朔太郎の趣味を凝らした部屋であった。最新鋭の音響機器の他に、年代ものの蓄音機がいくつも並んでいた。こちらも見どころは十分にあったが、本命はこちらではなく隣の部屋の方である。こちらには、壁の四方にしつらえられた棚があり、びっしり所せましと楽譜やレコードが並んでいる。部屋の温度と湿度は状態を保つために常に一定に管理されている。
「これはリヒターのマタイ受難曲、これは1936年、カザルスのバッハ無伴奏チェロ組曲。どれも初版なんだ。」
「グールドのゴルトベルク変奏曲も、ですね。」
「グールドはバッハよりもモーツァルトの方が好きなんだが。ゴルトベルク変奏曲は特別だな。」
「活動のほとんどをレコードで行った人ですからね。」
愛好家の男性同士、年齢を超えて通ずるものがあるらしい。不破の家には相当なコレクションがあり、財団の名義にしているものも多いが、朔太郎の蒐集品以上の貴重な品も多い。勿論態々ひけらかすようなことはしなかったが、マニアの域に達している二人の会話はどんどん深くなっていき、興奮度の高まった老人の話は、エレナも詩子も付いていけないところまで到達した。

 二人の会話に入れなくなって、詩子はあからさまにつまらなさそうな顔を浮かべはじめた。智己が相槌のテンポを変えたおかげで朔太郎もそれに気づくことができた。
「いや、ちょっと盛り上がりすぎたな。智己さん、こちらで座って話しましょう。仕事の話もしなければ。」
当然、今日の訪問の目的はこれである。何の成果も持って帰れないのでは意味がない。それはエレナも理解していた。
「詩子、エレナさんを庭にご案内してはどうだ。あぁ、お前のピアノをお聞かせするのもいいんじゃないか。」
祖父に促された詩子は、そうですねと頷いてエレナの前に手のひらを向けて前へ差し出す。
二人に続いて、朔太郎が智己を別室へと案内する。先に立つ智己の背中を歩きながらポンポンと叩いて、朔太郎は機嫌の良い声で言った。
「いやぁ、君みたいな息子、いや孫が欲しいものだなぁ。」
十歩も離れていない距離だったのでエレナの耳にははっきりと聞こえた。智己がどんな顔でいて、どう答えたのか、振り返らなかったから見られなかったし聞きたくもなかった。エレナは聞こえなかった振りをした。だが、斜め前に立つ詩子がふっと妖しい微笑みをしたのははっきりと目にした。

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 エレナが定期演奏会に客演するということで、池袋のコンサートホールは彼女目当ての客で客席が多く埋まった。コンクールの受賞歴もなく、ついこの間まで無名のヴァイオリニストであったのに、異例のことである。
日本でのコンサートを智己は一度も観に来ていない。義母の紫乃が旅行がてらにと、地方公演を入れたというだけでなく、それほど日本での仕事が立て込んでいた。
 ここ数日続いた寒波がようやく収まったとはいえ、演奏の興奮の余韻を残した身体は、ダウンコートを着込むと暑いくらいであった。どれほど心をざわつかせることがあろうと、完璧な演奏をして見せる。ヴァイオリンを弾く人形、機械は、今や一人のプロヴァイオリニストとなりつつある。今日はプロコフィエルのヴァイオリン協奏曲第一番ニ短調Op.19 情熱的であったり軽やかであったりしなやかに弾いて見せた。

 迎えの車を断ったエレナは、芽以と共に劇場通りを北へ進んだ。細い路地を入ったところに、真新しい小さな店があった。黒い外壁に木の格子扉。暖簾も表札もなく、1枚貼られた酒類メーカーのポスターだけが、ここが飲食店であるということを理解させる。
店内は二次会利用とおぼしき客が2組。それでもわずか7席しかないカウンターは二人が入ってきたことで一杯になった。

 「いらっしゃいませ。」
白髪交じりの店主がエレナと芽以の前に水の入ったグラスを置く。日本に帰ってから週に一二度ここへ来ている。初めはお帰りなさいませ、と言われていたのだが、流石にそれは妙だろうということで止めてもらったのだ。
店主の岸野耕造は、芽以の父であり澤野の離れでエレナ達の世話をしてくれていた人物である。料理の腕をふるうのは家政婦をしていた妻の克子だ。澤野の家を退職して、念願だった料理屋を始めた。小さいながらも料理が美味しく、酒の品揃えも良いと口コミで評判になっている。和洋中何でもござれの料理人で家事のスペシャリストである克子に、スイスで執事修行をしてソムリエも利き酒師の資格も持つ岸野がやっているのだから当然のことではあるのだが。
「お腹が空いてるの。」
「かしこまりました。」
エレナの言葉を聞いただけで、克子は取り掛かる。幼い時から世話をしてくれていたから、好みはもちろん、今どんな状態で何を欲しているのかを察してくれる。食事の前に、と生姜と蜂蜜の入ったブレンド紅茶を入れてくれた。レッスンや稽古の後で疲れているときにはいつも煎れてくれていたもので、克子が茶葉を選んでブレンドしている。
 赤カブと大根のカルパッチョ、どんこのマヨネーズ焼き、和風のポテトサラダ、イトヨリの酒蒸しを芽以とシェアしながら頂く。
「今日は智己様はご一緒ではないのですか?」
他の客が帰ってエレナと芽以だけになったところで克子が聞いた。今日は、というよりは今日も、というべきところで1回智己と来ただけで、それ以来ずっとエレナだけである。一度来て、酒も食事も好みだったようで、智己も気に入っていた。エレナが夕食は岸野の店で、というと智己は「俺も行きたいな…」などと言っているのであるが、会食続きで中々時間が合わない。
「お忙しいのよ。」
エレナはどうということはない、と緑茶をすすった。
克子はカウンター越しにエレナの顔を見つめる。
「お嬢様…。何か…。不安なことがありますか。」
エレナの元々大きな青灰色の瞳が一際大きくなる。だがその変化は僅かで、克子にしか分からなかった。
「いいえ。あぁ…。でも…。大丈夫。そんなことないわ。」
女神のように美しく柔らかく微笑む彼女のその言葉が強がりであることを克子は良く知っている。幼い頃から息を潜めるようにして、容姿も隠して生きていたのを。克子自身が、わずかでも根元が見えたら黒く染めていたプラチナブロンドの髪を、今はエレナが長く伸ばしているのが心から嬉しかったのだ。不破の御曹司がお嬢様を大事に想ってくれていることは、一度二人の様子を見ただけで分かる。今、お嬢様の不安の直接の原因が何かは分からないが、恐らくは、そうだろうと思い当たることが克子にはあった。でも、それは今、自分が言うべきことではない。二人の、夫婦のことだ。だから、克子はエレナの言葉を否定しなかった。
「そうですか。でも何かあったら智己様に仰って、ご相談なさってくださいね。お二人は夫婦なのですから。」
エレナはどこまでも透明感のある微笑みで「そうね、そうするわ。」とは言った。だが、彼女は何をどうするつもりもなかった。不安なのは、自分の資質。自分の問題だ。だが、きっと自分の周りの人は誰も言ってはくれない。ましてや智己は。彼は本当に、優しい人だから。偶々会っただけなのに突拍子もない頼みを聞いてくれて、エレナに危害が及ぶ心配が無くなっても傍においてくれて、幼い頃からのヴァイオリニストの夢も叶えることができた。わたくしは自分のことばかりで、彼に何もしてあげられないのに。そう、それを思い知らせてくれたのは宍戸詩子だった。

 先日、宍戸邸を訪れた際、詩子に中庭を案内された。現代的なコンクリートの打ちっぱなし建築の建物とは裏腹に庭はこじんまりとはしているが立派な和風庭園であった。形よく枝を伸ばした松の木には冬囲いがなされ、乙女椿の木には花が大きく開いていた。
「エレナさんのヴァイオリン、ぜひ聞いてみたいですわ。」
世辞であることは目に見えて明らかだ。
「今日は持って来ていなくて。また機会がございましたら。」
「そう。あなたは随分とご活躍ですものね。」
「お蔭様です。」
「そうお忙しいと、不破の奥様の仕事はままならないでしょう?」
「そんなことは…」
ない、と言えないのはエレナが良く分かっている。エレナが言い切らないのを詩子は見逃さない。
「ない訳ないでしょう?宍戸ですら大変ですもの。私、両親を亡くしてるんです。祖母も亡くなってからはおじい様のサポートをずっとやってきましたから。パーティーとか、こうやって家にお客様をお招きするとか、家の資産のこと、使用人のこと、仕事が沢山あって本当に頭が痛いんですよ。不破の家は我が家の比ではないでしょうね。」
 実際のところ、不破家ほどの規模になれば、資産管理も使用人の差配も組織化されているので、適切に管理されているかどうかも監査が入る。当主夫人の紫乃は財団の総帥などの名誉職でも熱心に務めているし、次期当主夫人の葵も自らワイン関係の会社経営に携わって多忙だし、現実的な問題はない。だが、エレナの心には波が立ち始めていた。
「それに、おじい様のパートナーとしてビジネスの場に出ると分かるのですけど。奥様というものは慎ましくあるべきなんですよ。淑やかにしていなければ、ねぇ。」
詩子は自分よりも背の高いエレナの頭からつま先までじっと舐めるように見た。
「経営者の御夫人には女優とかモデルもいらっしゃいますけど。一流の方ほど、派手にはなさってないわ。そう。社交の場なら着物の似合う人が一番だと祖父はいつも言ってます。慎ましいけれど華やかに見えますからね。エレナさんは…ねぇ。」
そう言って詩子は口元に丸めた手を添えて笑った。エレナはぎゅっと拳に力を入れて耐える。かすれた声で言葉を繋ぐのがやっとだった。
「朔太郎様は、詩子さんのことがお可愛いのですね。」
「そう。私が欲しがるものは昔から何でも買ってくれました。私、大学を出たばかりで両親を亡くしたんです。一人娘ですから、祖父も心配して。祖父のサポートをする人が必要でしたからやってましたけれど、祖父も高齢ですし…。私にはそろそろ良い人と結婚してほしいと考えているようです。見合いの話もあちこちから頂いているのですよ。でも中々祖父の眼鏡にかなう人がいなくて、ね。」
 詩子は小首をかしげてエレナを上目遣いに見た。先程の朔太郎の言葉が頭をよぎる。
「祖父が気に入る男性、というのは珍しいのですよ。」
詩子は愛らしい顔を妖しく歪ませる。
「私も、欲しいものは何だって手に入れるの。たとえそれが人のものでも、ね。」

 その後エレナは自分が何を言って、そしてどう宍戸邸を辞してきたのか定かでない。
ただ、智己と朔太郎の話し合いは上手く進んだようで、二人とも上機嫌であった。
「いやぁ、君になら私の後を全部安心して任せられるな。」
そう言って握手を交わす二人をエレナは虚ろに見ていた。
 

日本に帰国してから何度か招待されるパーティーのいずれにもエレナは同伴しなかった。
あちらではそれも妻の仕事であったが、エレナの方のスケジュールが空いていてもいつも一人で出かけていくので、自分は行かなくていいのか、と聞いた。
「日本ではどうしても妻を伴わないとならないわけではないからね。面倒ごとに巻き込みたくないし。」と智己はエレナに説明していた。
そういうものか、と一応は納得するが、何度も続くと余程自分を一緒に連れて行きたくない事情があるのか、とエレナの心には猜疑心がもたげてくる。
 今夜の会合にも宍戸が参加するらしい。また朔太郎氏の付き添いで詩子が来るのだろうか。二人で何を話すのだろうか。自分がいては不都合なのだろうか。
自分の知らないところで何かが起こっているようなそんな気がして、不安で仕方ない。
必要ない、と思ったらいつでも言ってくれ、とはずっと智己に伝えている。でも、そうなったときに智己は正直に言ってくれるのか、と思っていた。本当は必要ないのに、用済みなのに、優しさなのか情なのか言ってくれないのではないか。それを告げられることはもはやエレナにとっても耐えがたいことだし、辛いことではある。でも、彼の本心ならちゃんと受け入れる心づもりはしているのに。
 
 エレナは智己が支度をしているのを控室で待っている佐伯に、それとなく聞いてみることにした。佐伯は自分よりも彼と一緒にいる時間がずっと長い。
 「智己さんは、今夜もおひとりで行かれるのね?」
正確には佐伯も同行するのだが、妻を伴わないことは事実だ。
「パートナーが必要な会ではございませんから。交渉事ですよ。」
冷静で穏やかに応えるが、咄嗟に身を固くしたのをエレナは見逃さなかった。間違いなく、何か言い難いことがあるとき、隠し事があるときに人がする反応であると思った。
「何もお気になさることはありませんよ。」
「華やかな場に行きたいとかそういうことではないのよ。向こうではそういう役割を求められたのに、こちらでは行かなくていいのか、と思っただけよ。日本では夫婦同伴でないといけない会はあまりないから、としかおっしゃらないから。」
佐伯は安堵の表情を浮かべる。緊張からの緩和は人に余計なことを話させてしまう。世界的大企業の有能な秘書でも、ビジネスの場でなければつい気が緩むらしい。
「あぁ、それは、エレナ様のことを思ってのことですよ。」
「わたくし?」
「ビジネスの場で余計な嫉妬心を引き起こしたくない、そうですよ。智己様はただでさえ、才覚溢れ、若くしてFUWAの重要ポストについているので、社内外でやっかみも多い。それを、有無を言わさぬ実力で押さえつけてらっしゃいます。華やかな場で美人の若妻など伴えば羨望だの嫉妬だけでなく、ともすれば恨みでも買いかねない、とお考えです。エレナ様のことを守るために、そうしてらっしゃるのですよ。大事にしているからこそお連れにならないのです。」
佐伯はエレナが安心する、そう思ったのだ。だが、エレナは安堵の表情ではなく、より寂寥感を漂わせる。
「それは…わたくしはお邪魔ですわね…」
佐伯は、何かまずかったのかもしれないと思ったが、すぐにエレナが、
「わかりましたわ。ありがとう。」といつもの笑みをたたえて言ったので、小さく首肯した。

エレナは佐伯の発言で、あぁ、これは自分が完全に智己の邪魔になっているのだ、と悟った。義父は母を積極的にパーティーなどの華やかな場に連れて行っていた。それは、見せびらかし、自慢するための装飾品として、だ。忠利にとっては自分を大きく見せるためのモノだった。だが、不破の妻にそれは必要ないのだ。倹しく淑やかであること、目立ちすぎないこと。大人しく猫を被って淑やかに振舞うのはエレナにとって訳ないことだが、海外はともかく日本で彼女の見た目はあまりに華やかすぎた。そう、詩子のいうとおりなのだ。この国ではどこにいようとやはり自由に振舞うことはできない。

 その知らせは、不破邸の朝食の席に届いた。その日、和食の献立だったのだが、どうも今日は鰹出汁が生臭く感じられて味噌汁もだし巻き卵も小鉢もあまり手が付けられなかった。智己や芽以が心配したが、夕食を食べすぎたからかもしれない、と答えたのだ。
いつもは玄関ホール横の控室で智己を待っている佐伯が、今朝は朝食の席にやってきた。佐伯からその知らせを聞いた智己は、先程までは優雅な振る舞いであったのに、高校生のように朝食を搔っ込んで手早く準備を整え、遅くなるかもしれない、とだけ言い残して家を出た。

 宍戸朔太郎が昨夜、急逝した。高齢ではあるが、つい先日までゴルフコースを回るほど元気だったのに。風呂に入って長く出てこないのを心配した家政婦が見に行ったところ亡くなっていたそうだ。心臓発作だったらしい。

現在、FUWAは宍戸と半導体製造装置の部品供給契約を進めている。需給がひっ迫している現在、宍戸からの供給は生産体制の立て直し、さらに生産体制の拡大に必要不可欠なものである。宍戸にとってもFUWAへの供給は、かつてない規模の大型契約であり、それは会長の朔太郎が専権をもってあたっていた。社内には生産体制をFUWA仕様にしてしまうことで、依存度が高くなるために慎重論も強かったので、朔太郎の死去は、契約交渉の行く末にも関わることであった。
 
 エレナは詩子のことを想っていた。高校生の頃に両親を亡くし、その後育ててくれた唯一の肉親である祖父を突然失った彼女の悲しみは計り知れない。独りになってしまった彼女には支えてくれる人が必要だろう。傍にいて、慰め見守ってくれる人が。それは父母を亡くしたエレナにもわかる。留加がいてくれたこと、岸野一家がそばにいてくれたことがどれだけ心強かったか。わたくしには留加がいた。でも彼女は独りなのだわ、とエレナは思った。
 エレナは智己が宍戸の家に弔問に出向くのかと思っていた。だが、智己は行かなかったようだ。その代わり、詩子が不破の家にやってきた。

泣き腫らして、酷く憔悴した様子の詩子は、一人でタクシーを使ってやってきた。智己に会いに来た、と述べたので、内田が応対し、すぐに智己に連絡した。
既にFUWAの本社に到着していた智己は、しばらくしたら戻る、と伝えてきたので、エレナが彼女を応接室のソファに案内した。
鼻をすすっているので、ティッシュ箱を差し出す。詩子は盛大に鼻をかんだ。彼女の隣に座る。身近な人を亡くしたばかりの人に何と声をかけたらいいのか。母を亡くしたときに岸野は何と言ってくれただろうか、と思い出しながら。
「お祖父様のこと、お悔やみ申し上げますわ。とても元気そうでいらしたのに。わたくしにも優しくしてくださって、音楽のお話も楽しくて素晴らしい方でしたわ。」と語った。静かに、優しく。
だが、詩子には気に障ったようだ。泣き腫らした目をかッと見開いてエレナを睨みつけた。
「あなたに何がわかるのよっ。」
エレナは言葉を失った。
「あなたなんかに…!おじい様はたった一人の肉親なの!その人を私は失ったの!何でも持ってるあなたには私の悲しみなんてわからないわよね!」
強い言葉をぶつけてくる。我を失っているのだと思った。
「ごめんなさい…。ただ…。」素晴らしい人だったと言いたかったが、おそらく何を言っても届かないだろうと思って言葉を飲み込んだ。
「あの…。何か力になれることがあったらおっしゃって下さいね。」
詩子の孤独感を和らげる言葉を選んだつもりだった。
詩子は涙をぬぐう手をとめ、しゃくりあげるのもやめて、エレナの顔をじっと見上げた。
そして、可愛らしい日本人形のような顔を醜悪に歪ませて言った。
「…じゃあ、智己さんを譲ってよ?」

 エレナはもう何も言えなかった。動悸が速くなる。何か言おうとするが声が出ず、唇が行き場なくヒクヒクと震えるだけだ。瞬きすらできなかった。詩子はエレナをその漆黒の瞳で見つめている。あまりに恐ろしくて目をそらさなければ、と思ったそのとき、帰宅した智己が応接室に入ってきた。

 応接室に漂う不穏な空気を智己が感じたのはほんの一瞬で、ほとんど気のせいかと思うようなものだった。智己と佐伯が部屋に入ったのと入れ替わりにエレナは、
「わたくしは失礼しますわ。」と言って部屋を出た。とてもこの場にはいられない。早くここを出たい。だが、取り繕うのに慣れきったエレナの表情には何も浮かんではいなかった。それでも智己はエレナの様子が違うのに気づいた。だが、後で話せばいい、と思ってしまった。
彼は、「あぁ」と声をかけただけだった。

 智己と詩子は不破家の応接室で一時間ほど話していた。
詩子が帰るときに、一応エレナも玄関ホールまで見送りに出たが、隅の方に控えていた。二人の様子を目に入れたくなくて、詩子の顔はおろか、智己の顔もまともに見られなかった。
「では、智己さん、よろしくお願いいたしますね。」
「ええ、こちらこそ」なんてやり取りが聞こえる。何をどうよろしくというのだろう。心の中に醜いものが沸き上がる。

タクシーに乗り込む詩子の横顔がちらりと見えた。いや、見たくはなかったのだが、見えてしまった。ここへ来たときとは違う、にこやかで晴れやかな顔をしていた。智己が車のそばまで付き添っている。その様子を見て、エレナは気分が悪くなり、吐き気がした。朝、ほとんど食べていなかったのだ。気持ちが悪くなって足元がおぼつかなくなる。一瞬ふっと気が遠のいたのを、側にいた芽以が支えてくれ、なんとか卒倒せずにすんだ。

 自室の部屋の天井をぼんやりと眺めている。日本に来たときにはそうではなかったが、もはや見慣れた天井だ。
扉が開く音がして、耳慣れた足音が聞こえる。慣れた心地の良い温もりが頬を撫でる。
「目が覚めた?」
「ええ。」ぼんやりした声で答える。
「食事は?」
ふるふると首を振る。起きたばかりで食欲が湧かない。あとでスープでも持ってこさせよう、と智己が言う。
「お仕事は?」
「これからまた戻る。」
自分のために待っててくれて申し訳ない、とエレナは言った。
「詩子さんは…大丈夫ですの?」
「…あぁ。少し…話したら落ち着いたようだよ。朔太郎さんから色々と…頼まれているからね。」
言いよどむところがあるのを、エレナははっきりと聞くのは怖かった。
聞かずに済ませられるならその方がいい。智己は傷つけるようなことは言わないだろうし、エレナも聞きたくない。だから聞かないでおこうと思ったのだ。

智己には澤野の家から救ってもらった。留加もあの家を出ることができた。感謝してもしきれない。
きちんと恩を返さないといけなかったのだが、役には立てないようだ。
なら、自分ができることはひとつではないか。

「智己様…?」ベッドから身を起こす。
「ん?」
「わたくし…ウィーンに帰ってもよろしくて?」
「え?」
智己は少し驚いた。エレナが帰りたがっているとは思っていなかったのだ。
「向こうで頼まれているコンサートもありますから。ナタリアとも練習しておきたいですわ。」
「そうだね…まだこちらでの仕事も時間がかかりそうだから…。わかったよ。」
渋々、という様子で智己は了承した。
エレナはほっとしたような寂しそうな表情を浮かべた。
「先に帰ってますわね。」
「あぁ。全部終わったら、行くよ。」
ええ、とエレナは頷いた。

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