第五章 弟

 次の週末、智己とエレナは、エレナの弟、留加を迎えに空港にいた。
エレナは、到着ゲートから出てきた愛しい弟に駆け寄り、抱きしめた。15歳の留加は半年前に日本を出てから背も高くなって、大人びていた。
「久しぶりね!留加。大きくなったわ。」
目線の位置が前と違う。そのうち背も抜かれるのだろう。
「姉さんも変わらず綺麗だね。」
こういうことを姉に、しかも15歳で言えるのは、流石澤野の血というべきなのか。智己は、淡い髪色にこげ茶の瞳をした色白の美少年を前にしてそんなことを思っていた。髪色や瞳の色は違うが、やはりどことなく似ている。母親の血が濃いのだろうか。
「エレナ。」
掛ける声に若干の苛立ちが含まれている。いつまでたっても離れようとしない二人に嫉妬を覚える。
あぁ、とエレナが留加から手を離した。
「弟の留加ですわ。」
「留加、智己様ですわ。わたくしの…旦那さま…」
恥ずかしそうに言う。
留加が、丁寧にお辞儀をする。
「はじめまして。澤野留加です。素晴らしい方とご縁があって、嬉しく思っています。姉をどうかよろしくお願いします。あの…兄様とお呼びしても?」
なかなか可愛いではないか。
「構わないよ。」
智己は留加に手を差し出して言った。
 

 留加の通う寄宿学校は長い夏休みに入ったところだった。来週には寮が閉まってしまう。実家に帰る生徒も多いのだが、留加はサマースクールを入れるなどして日本には帰らないことにしていた。あんな家、二度と帰るものか、と留加は吐き捨てるように言った。エレナも頷く。今後何かと理由をつけて帰らないつもりでいる。もっとも、澤野にしても跡取りでない息子が日本にいるよりは海外にいる方が色々と都合がいいはずで、帰国を迫られることはないだろうとは思っている。
エレナはアメリカから、留加のいるスイスに行くということにして、またしばらく澤野から時間を稼ぐことにした。それは、佐伯を通じて、智己と弁護士の田島とで相談して決めたことでもある。ちょっと調べたいことがあるから、と智己はエレナに説明していた。

空港らは、智己の運転する車で移動した。
「いつもの車じゃないから慣れないんだ。あまりとばさないから」
「何に乗ってるんですか?」
「レクサスLFAだよ。」
「LFA!? まじで!すっげぇ!」
留加が食いつく。
「留加、あなた車に興味があった?」
「姉さんよりは興味あるよ。というか男子はあの車大体好きだって!」
「そうなんですの?」
「機械として完成された車だからね。機械好きなら好きなんじゃないかな。」
「そういえば、留加は昔から機械いじりが好きだったわね。小さい頃色んなものを分解してよく怒られてたわ。」
「…昔のことはいいから。それよりお兄さん、LFA乗せて下さいよ!」
「もちろん、いいよ。」
「やったー!」
はしゃいでいる留加を久しぶりに見た気がする。エレナは智己が留加を受け入れてくれたようで安堵していた。留加にはきちんと手本となる男性を目にしてほしかったのだ。父親も兄も仕事はできても、ろくでもない人間である。
彼らと同じ血が流れている留加に悪い影響があるのをエレナは恐れていた。

「わたくしも車を運転したいですわ。自動車学校に通おうと思いますの。」
いいんじゃないか、と智己は賛成したが、留加が苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「…お兄さん、ウィーンは車が運転できないと不便ですか?」
「家は中心部にあるし、どこに行くにしても地下鉄とかトラムも通っているからそれほど不便ではないとは思うけどね。そもそも運転手がいるし。」
それなら、と留加はきっぱり言った。
「姉さん、車の運転はやめてよね。」
「どうしてよ?」
「事故を起こすに決まってる。」
「そんなことないわよ。」
「アクセルとブレーキを踏み間違えるとか、そんなことになりかねないもの。」
「失礼ね。」
「いい加減に自覚してよね。姉さんと機械との相性は壊滅的に悪いんだから。家電は単機能じゃないと使えないなんて、今時子供だってもっと使いこなしてるよ?」
「う…。で、でも、スマホだって使えてるわよ。」
「ボタンを押す感覚がないと不安だって、生産終了直前までずっとガラケーに拘ってたよね。」
「ぐ…。」
言い返せない。

「そうだったのか?全然気づかなかったな。」
そうか、家のオーブンはアンナが手伝っていたのか、と智己は思い当たった。まだ智己の知らないエレナがいるようだ。
「機械がまったく使えないわけではないんです。ただ、80代の老人に教えると思った方がいいですよ。とにかく、車はやめたほうがいい。」
留加がいうならその通りなんだろう、と智己は思った。
「じゃあ、Fahrschuleの話はなしだな。」
えぇーっ、とエレナは不満そうな声を上げた。車をかっ飛ばしたい気持ちはわかるが、エレナの命の方が大事だ。

ヒルダがいるのだから大丈夫だろう、と智己が言う。護衛のヒルダはエレナの運転手も兼ねていて、フランクフルトにいる智己の叔父のところから来た。
柔道の有段者であり、ボディーガードの訓練を受けた優秀な人物で、彼女を差し向けてくれる代わりに、智己は新妻を紹介しに出向くことを約束させられていた。もちろん欧州本社でのたっぷりの仕事つきの出張である。エレナを紹介する、という名目だが、半年前スイスに来てから学校と寮の往復だという留加も連れて行くことにする。留加は固辞したが、家族なのだから、と説得した。サマースクールが始まるまでの間だ。姉弟水入らずの時間も必要だろう、と智己は思っていた。

留加の夏休み期間には、いわゆる社会科見学をしてレポートをまとめるという課題があるという。
「機械関係に興味があるなら、FUWAの工場でも見学していくか?」と智己が留加に聞く。
「それもいいですけど、僕最近宇宙工学に興味があって。」
「宇宙?初めて聞いたわね。」
「航空機の開発とか、自動運転とか。」
「SAWANOではできないことよね…。」
「そうだね。」
「それこそ、叔父の専門分野だ。フランクフルトに行くのは決まりだな。」

 留加を迎えた夕食にはエレナが母仕込みのロシア料理を振舞った。
留加の好物のピロシキをはじめ、ビーツや牛肉を煮込んだロシア定番料理のボルシチ、ロシア風水餃子ペリメニ、炒めた肉や野菜を煮込んだジャルコーエが食卓を彩った。
「わぁ。姉さん、腕を上げたんじゃない?」留加は感嘆した。
「うん、母さんよりも上手かも。」思春期の食欲は旺盛で、留加は何度もおかわりをした。
小さい頃、祖母から折檻を受け続けた影響もあってずっと食が細く、母とともに心配したものだが、よく食べる留加を見てエレナは心を撫でおろした。
留加はスイスでの寄宿生活の話をした。授業中に居眠りをして先生に怒られた話、あまりにも簡単過ぎてつまらなくなったのだが_や、同級生が女子寮に忍び込んでこっぴどく叱られた話だったのだが、日本で送れなかった当たり前の学校生活が楽しいようであった。それがエレナにも嬉しかったし、智己もまた寮生活の経験があることもあって、楽しんで聞いていた。
 佐伯からの電話で智己が席を外したときに、エレナはさっきは智己と何の話をしていたのか聞いた。
エレナが夕食を作っている間、留加と智己は何やら話し込んでいたのだ。
「何をって…そうだね、主に姉さんの話かな。」
「わたくし…?」
「そう。小さい頃はどんな子供だったのか、とか。」
「…で、何を話したの?」
「2階から階段の手すりを滑り降りてたこととか、裏庭の木をよじ登って屋敷の外に出入りしてたとか。侵入者と間違えられて捕まりそうになって逃げたとか。」
「…おかげで塀の警備が強化されて自由に出入りできなくなってしまったのよね…って!そんなことまで喋ったの!?」
「義兄さん、笑ってたよ。」
は、恥ずかしい…。そんなことまで知られたなんて。恥ずかしがる姉を見て、留加は静かに言った。
「契約だとか何とか言ってたけど、なんか十分に愛されてるね。」
「え…?」ぽかんとして首をかしげる姉の様子に、留加は姉が無自覚であることを悟る。義兄が不憫になった。
そこへ智己が戻ってくる。
「ん?どうした?」
「姉さんが子供の頃お転婆だった、という話をしていたんですよ。」
「あぁ、さっき聞いた。意外だったな。」
「…忘れて下さいませ。大人になったんです。」エレナは口を尖らせ、澄ました顔で食後の紅茶をすする。
「ねぇ、留加。何か弾かない?」この話はおしまい、とばかりにエレナは留加に提案した。
「僕ずっとピアノ触ってないから無理だよ。」
「大丈夫、大丈夫。」そういいながらエレナは渋る弟をピアノの前に引きずっていく。
しばらく鍵盤に触れていないといいながら、留加のピアノは中々のものだった。エレナが合わせていくところもあったが、見事なもので、智己は姉弟の演奏に聞き入った。

「どうでした?」ほぅ、と息をついて、エレナが、パンパンと手を叩く智己の傍に駆け寄る。
「いや、聴きごたえがあったよ。」
エレナはソファに座る智己の肩に自然に手を伸ばし、智己もまたエレナの細い腰に手を回す。二人のあまりに自然な動作に留加はやや目を見張った後、目を細めた。姉はどうやら相当に愛されているらしい。そしてまた姉も夫を信頼していることが伝わってくる。その感情の名前を彼女が自覚していないようではあったが、留加は安堵し、自然と笑みがこぼれた。
 留加の泊まる部屋は昼のうちにアンナが用意してくれていた。
「姉さんたちの寝室からは離してくれてるよね?健全な青少年の精神を害されると困るんだけど。」
「留加…あなた…」エレナが言葉を失う。
「心配するな。部屋は廊下の突き当りだ。」智己が笑いながら言うと、
「よかった。あぁ、新婚の邪魔をするつもりはないんだ。そうだな…甥っ子でも姪っ子でもどっちでもいいからね。溺愛する自信があるから、安心して。」
「留加!ちょっと…!」エレナが顔を真っ赤にする。
留加は後ろ手にひらひらと手を振って部屋への廊下をさっさと歩いていく。
智己はくくくっと声を出して笑った。そして、あの子ったら…!といいながら赤くなった頬を両手で覆っている妻を抱き寄せた。
「義弟もああいっていることだし、励むとしようか。」そう言ってエレナをヒョイと抱き上げた。
「ちょ、ちょっと…!」慌てるエレナの返事を待たずに寝室へと向かった。

 あくる日、智己と留加は男二人でドライブに出かけた。留加が智己の愛車に乗せてほしいとねだったからである。エレナが同行しなかったのは、単に車の乗車定員が二人だったというだけだ。
二人で大丈夫かとも思ったが1日足らず一緒にいただけで留加はあっという間に智己に懐き、智己もまた留加を可愛がってくれているのでエレナは安心して二人を送り出した。エレナは、ワークショップ参加のためにピアノ伴奏をしてくれるナタリアとの練習にあてることにしていた。
オーストリアのアウトバーンはドイツと異なり制限速度が設定されている。とはいえ日本の高速道路とは速さが比べ物にならない。時速100キロ以下では走ってはならない、という区間がある程である。
智己はLFAのアクセルを踏み込む。高回転型のV10エンジンがよどみなく立ち上がり加速する。
留加はシートに身を沈めてF1エンジンのような迫力のサウンドを全身で愉しんでいた。工業技術の粋を極めた最高峰の日本車である。機械好きな留加には堪らない車であった。
「やっぱりすごいや。」留加が感嘆する。
「ドイツに入ればもっと性能を見せてやれるんだけどな。」
「いや、十分だよ。いいなぁ。僕も運転したい。」
「免許とったらあげるよ。」
「へ?」
留加はかなり間抜けな声をだした。それもそのはずである。数千万円の車をぽんとくれてやるというのである。
「FUWAに入っちゃったからね。あんまり大っぴらにこういう車に乗れなくなってきたんだ。」
FUWAは脱炭素の推進企業である。創業家の息子であり、取締役の一人でもある智己がガソリンをまき散らす車を何台も所有しているわけにはいかないのだ。車好きの彼としては辛いところでもあるが、立場上致し方ない。
「学生時代に買ったんだ。こういう車はもう作れないだろうから、大事にしろよ。」
留加はこくこくと頷いた。嬉しいが、責任重大だ。
 アウトバーンを飛ばして車はオーストリアの古都グラーツに入った。2時間半近くかかるはずの道のりをかなり巻いたのは道路が空いていただけではない。
グラーツのシンボル、時計塔。13世紀に建てられたもので、岩山の上に立つ。文字盤の直径が5mあり、長針が時間を、短針が分を示す。ガラス張りのエレベーターもあるが、二人は岩山の260段の階段を上った。
「大丈夫か?」
「も、もちろん。」
山登りで鍛えている智己とは違い、若いが引きこもり気味だった留加は息が上がった。
時計塔は城山に築かれたシュロスベルクにあり、難攻不落の要塞だったが、現在は公園になっている。ここからはグラーツの市街がよく見渡せた。木製のベンチに腰掛けて留加は息を整えた。
「綺麗なところだね。ウィーンでも、ジュネーブでも思ったけど。世界には色んな綺麗な場所があるんだね。」
そういえば、エレナも似たようなことを言っていた。
「東京はコンクリートジャングルだからな。」
「うん…。でも、僕はそもそも家の外の世界をほとんど知らないんだ。学校もろくに行ってなかったし。病弱って設定だったからさ。」
身体が弱いという理由をつけて華子の教育という名の折檻から逃れたのだった。
「エレナが君を養子にしたいと言っていた。」
「あぁ…。うん。澤野の家を出るならそれがいいだろうって。まぁ、血の繋がりが消えるわけじゃないんだけど。」
「日本の法律だと結婚していたら夫婦で養子縁組をすることになる。」
「あ、そうなんだ?ということは…。」
「僕の息子になる、ということだね。」
「…それは…大丈夫?さすがにそこまで…」
姉からは二人の関係は一種の契約だ、と聞いている。自分を澤野の家から出る手助けをする代わりに妻として振る舞うという。
「別に問題ないよ。二人とも澤野から出してやれる。君が成人する前だと忠利氏の同意が必要だけど。そこは交渉次第だな…」
「不破の家として問題はないの?」
「子供が増えたって喜ぶんじゃないかな。」
「それだけ?」何の血縁もない人間が養子になるというのだ。伝統ある名家では大変な重みをもつのが普通だが。
「そんなものだよ。もちろん親類縁者だの会社関係の付き合いとか面倒なことは山ほどある。だからそういう圧力に負けない人間でないといけないけどね。エレナも君も、問題なくやっていけるよ。まぁ、妻となるとそういうものは関係ないけどね。不破の男は執着深いからこの女性と決めたら離さない。父とか兄の話は聞いていたけどまさか自分に起こるとは思ってなかったよ。」
 留加は智己の姉に対する態度に、自分のそれまでの認識と違和感があった。
「…姉さんはそこまでの話は…」
自分は必要なくなれば離婚するつもりだ、とそんなことを姉は言っていた。
「それが問題でね。」智己は溜息をつく。
「…一生離すつもりないんだけど。どれだけ言っても分かってもらえた感じがしない。」
愛している、と言葉にして彼女もそれに応えてくれているが、共に歩む未来を想像してはくれていないように思えるのだ。
「結婚してくれって先に言われちゃったからなぁ。もっと早く言うべきだったんだ。真剣だということを分かってもらうチャンスだったのに。」
「…姉さん、会った次の日に言ったんだよね?もっと早くって…無理じゃない?」
「親父はお袋と初めて会ったときに30分話しただけでプロポーズしたらしいよ。」
14歳の留加に聞かせる女性へのアプローチの仕方としては極端な事例だったが、彼にも義兄が様々な意味で並外れているということは分かった。
「姉さん、そのあたりはどうも疎そうだしね。義兄さんの執着も分かってないかも。…そもそも澤野の家では結婚の意味が軽いんだ。単なる事業拡大の手段だし、簡単に破られる。永遠の愛だなんて甘いものじゃないんだ。」
留加は吐き捨てるように言った。幼くして母を亡くし、妻や愛人をとっかえひっかえする父と兄を見てきたのだ。そのままではまともな結婚観が育つはずもない。留加の唯一の良心は姉だけだ。
智己は留加の茶色く柔らかい髪を大きな手でくしゃくしゃと撫でた。
「それなら時間をかけるしかないな。引き下がれないところまで連れて行ってしまうか。」智己は悪戯っぽく笑う。
「そうだな、君のことも利用させてもらおう。」
「僕?」
「そう。君が僕たちの養子になったら、そう簡単に離婚はできなくなるね。」
「そういうことね。いいよ。利用して。僕も澤野姓を捨てられるならそれでいい。」
「なら、君も僕に対して引け目を感じる必要はない。エレナの気を引くために利用するんだから。」
「わかった。」と留加は頷いた。

「さて、飯でも食べに行くか。エレベーターとケーブルカーがあるけど?」智己がニヤっとして聞いた。
「歩けるよ。」留加はふくれっ面で答えた。
グラーツの顔ともいうべき市庁舎の前のハウプト広場には、シュタイヤーのプリンスと呼ばれるヨハン大公の像が立ち、その周りには軽食やドリンクを売るスタンドが立ち並び、活気があった。広場から続くヘレンガッセはグラーツで最も華やかな通りで、フレスコ画や漆喰飾りのある豪華な館が立ち並ぶ。市庁舎と州庁舎の間の通りを通って、ムーア川を渡った先のレストランで昼食をとる。留加は名物のクリスピーチキンを頬張った。ここでは、シュタイヤマルク産のワインを扱っているが、運転で飲めないので、併設のショップでワインをジャムやチョコレートと共に買いこんだ。グラーツ名産のカボチャのオイルも忘れてはいない。
中世の鎧甲冑が保存された武器博物館や王宮を観光し、再びアウトバーンのドライブを堪能してウィーンのアパートに着いたときにはすっかり夜になっていたが、留加は大満足で、機嫌よく帰ってきた。

 その夜、智己が仕事の連絡で席を外している間に、留加はエレナに智己と話したことを報告した。
「だから、僕二人の養子になることになるんだ。」
「そう…二人でしなければならないの…。わたくしだけでは駄目なのね…。」
「義兄さんは養子にしてくれるって言ってくれたから大丈夫だよ。」
「でもそこまで迷惑をかけるわけにはいかないわよ。」
「それはそうだけど、義兄さんはそう簡単に姉さんを手放したりしないと思うな。男がみんな澤野の男みたいなのとは限らない。」
留加が大人びた表情で真剣に言うので、一瞬自分の知らない人間のように見えた。漂い始めた深刻な空気に耐えられず、エレナは努めて明るく茶化すようにふるまった。
「そうね。あなたがあの人達みたいにならないように願ってるわ。」
「姉さん…」
「そうね、私もちゃんと、彼の妻を務めるわよ。役立ってみせる。そういう約束ですもの。」
留加は姉が、智己の心にも自分の心にも無自覚なのを見て悟った。だが、自分が何かを言う立場でないということも分かっている。義兄のいう通り、時間をかけて気づき、理解するしかないのだと思った。

 留加はエレナと智己に、結婚式の写真を分けてくれるように頼んだ。純白のドレスに身を包んだ姉は美しかった。
「綺麗に撮れてる。カメラマンの腕かな。馬子にも衣裳ってやつか。」
素直に褒めたと思ったらけなしてくる弟をエレナは睨む。
「冗談だって。綺麗だよ。岸野が見たがるだろうね。」
岸野一家は澤野の離れで留加とエレナの世話をしてくれていた使用人である。耕三と克子は父母のように接してくれていたし、芽以は姉のようだった。彼らにとってのお嬢様は、本家の義姉たちのことではなく、エレナのことである。お嬢様の花嫁姿をみたい、とよく言ってくれていた。
「そうね…」
エレナが逃げた後の別邸を守ってくれている。エレナからの連絡は耕三を通して本家に伝えている。もうすぐ定年退職を迎える耕三は、エレナが無事に澤野から出られれば、そのまま退職することになっているのだ。
「姉さん、この写真分けてくれる?」
「いいけど、どうするの?」
「記念だからもらっておくだけだよ。」
まぁ、いいけど…と返事をして、留加はそういうタイプだったかしら、思いつつスマホに写真を転送する。
智己は留加に、「で、どうするんだ?」とこっそり聞く。留加は溜息をついた。
「…僕も色々面倒なんだよ。姉さんより綺麗な人しか付き合わないことにしてるって答えてるんだ。」
成程、それでエレナの写真が必要ということか。明るい栗色の髪に整った目鼻立ち。エキゾチックな異国の王子様風情の留加には言い寄る女の子も少なくないだろう。智己には思い当たる節があった。
「ついでに義兄が妻に見劣りする女は連れてくるなって言ってるって言っとけ。」
分かった、と留加は笑いながら答える。こうして立派なシスコン弟が出来上がったのである。

 ドイツ・フランクフルトは、ドイツ経済の中心地で、大銀行のビル群が立ち並ぶ。ドイツのロマンティックなイメージとはやや離れるが文豪ゲーテの生まれた街で、空港もあり、ヨーロッパ各地への交通の便が良い。FUWAはここにヨーロッパ本社を置いていて、社長は智己の叔父である義昭が務めている。郊外の広い邸宅に夫婦2人で暮らしていて夫妻に子供はいない。
義昭は妻の真知子とともに三人を歓待してくれた。
義昭は背が高く、細身でグレイヘアの渋いダンディズムを感じさせる人だった。どことなく智己にも似た風貌だが、少し神経質そうな印象を受ける。だが、話してみると印象よりもずっと気さくな人であった。妻の真知子は明るく朗らかな性格で、年齢を重ねた落ち着きがありつつも可愛いらしい女性だった。子供のいない二人は甥である智己を我が子のように可愛がっており、エレナ姉弟のことも可愛い可愛いと愛で、二人もあっという間に打ち解けた。

「智己くんがこんな綺麗なお嫁さんを連れてきてくれて私うれしいわ…!」真知子は興奮を抑えられないといった様子だ。
「どうせ智己は孝己の年齢くらいにならないと結婚なんてしないだろうなと思っていたからねぇ。」義昭もしみじみ頷く。
「兄さんと紫乃さんよりも先に会ってしまって二人に悪いなぁ」と義昭は言葉とは裏腹に、別にいいよな、と悪びれなく笑った。
「留加君も、うちだと思ってゆっくりしてね。」淡い茶色の髪にこげ茶の瞳。美しく整った顔の留加は、おとぎ話から抜け出してきたような美少年で、揃って整いすぎるほどの美形がそろった不破の男性の顔を見慣れた真知子でなければ見惚けるところである。
「ありがとうございます。」留加は天使のような笑顔で答える。実際、実家そのものがここまで居心地のよいものではなかったとエレナも留加も思っていた。
真知子が蒐集したという年代もののアンティークの調度品で整えられた部屋だが、温かみがあり、心落ち着く空間になっていた。
「彼にFUWAの宇宙開発研究所を見せたいんですよ。」と智己がいうと、義昭は、ほう、興味があるかと身を乗り出した。 
エレナが真知子とおしゃべりをしている一方で、男性陣は留加も含めて何やら盛り上がっていた。どうも物理学の話らしく、エレナにはさっぱりわからない。留加がいつの間にか難しい勉強をしていたようで、話についていっているのが不思議で、でもどこか誇らしかった。

「留加くんは14歳か…」
「はい。」
「今何年生?」
「9年です。」日本の学制では中学3年に当たる。
「飛び級はしてない?」
「ええ。余り目立つわけにはいかないので。」
「宇宙工学をやりたいって?」義昭が訊く。
「ええ。亡くなった母はよく星を見てました。よく3人で望遠鏡をのぞいてたよね。姉さん。」
「そうだったわね。」振られたエレナが答える。
「母は神秘的なものが好きで。星占いのようなものが好きでしたわ。でもあなたは物理的な方に興味が向いたのね。」
「そうかもね。大体母さんの星占いは当たらないから、信じてなかった。」
「それは…確かに。占いで日本に行くといいって出たとか。」
「おかげで苦労して早死にしてるんだもの。世話ないよ。」留加が吐き捨てるように言う。
「そんなこと言わないで。わたくしはあなたが産まれてくれて本当によかったと思っているのだから。」

留加が産まれた時のことは今でも覚えている。可愛いわたくしの弟。絶対に守るのだという思いはこの子が産まれたときから変わらない。母が亡くなった今、留加を守れるのは自分だけだ。
「ありがと。姉さん。」留加は柔らかく微笑んだ。
 
 翌日、義昭は智己と留加を郊外にあるFUWAの研究施設に連れて行った。社長が自ら案内するのもいかがなものかと思われたので、留加の案内はコニーという若手の研究者が引き受けた。実験の様子も見せてもらって留加はコニーに質問をしたり、話を聞いたりと熱心だった。
義昭と智己は、留加のことを微笑ましく見ながらも、間近に控えた東欧のある国の公共事業の入札について議論していた。
 その日の夜、義昭と真知子、智己とエレナ二組の夫婦は酒を酌み交わしていた。留加は昼間、広大な研究施設内を歩き回ったせいか、あくびを連発して早々と寝床に入ってしまった。
「…留加くんはかなり優秀だねぇ。」若手ながら優秀な研究者であるコニーに熱心に質問していた留加の様子を見ていた義昭がエレナに言う。
「勉強は苦手ではないと思いますわ。」
「いや、かなり図抜けていると思うよ。」当時の智己でなくとも、物理学の高度な話に14歳でついてこれるのは並大抵でないと義昭は言う。
「学校ではかなり手を抜いていると言っていたな。」智己も話を継いだ。
「…澤野の家では幸利さん、義兄が跡取りですの。もう社長の座におりますし。留加が彼よりも優秀であっては家がごたつきますから。成人するまでは大人しくしているのが良いというのが母の考えでした。」
「でも…それでは折角の才能が…」真知子が残念そうにいう。
「澤野ではおばあ様、華子様のいうことが絶対ですの。幸利さんが跡取りと決まってますが、万が一留加のことがおばあ様の目に留まったらひっくり返しかねません。そうなったら幸利さんが黙ってませんから。留加に何をすることか…。あの子は凡庸であるのが一番良いのです。いずれあの子を養子にしたいと思ってますの。そうすればあの子を澤野から出してあげられますから。」
留加はもうすぐ15歳になる。15歳になれば、実親の同意がなくとも養子になることができる。
「そこまでのことを…」と言って真知子はそれ以上言葉を継げなかった。
エレナ20歳、留加14歳でその覚悟をしているというのだ。これまでこの姉弟はどれほど抑圧され、息を潜めて生きてきたのだろうか。彼らのこれまでの長い日々を義昭と真知子は沈痛な気持ちで想った。



「ちぇ。サマースクールなんか入れなきゃよかったな。」休暇があっという間に終わってしまって、不貞腐れたように言う留加をエレナは笑ってなだめた。
「近いのだからいつでも来れるわよ。」
そうだな、と智己も頷いた。
クリスマス休暇にはまた会う約束をする。再び留加に会うまでにやらねばならないことが沢山ある。
「年の離れた姉兄しかいなかったし、学校でも年上ばかりだったから知らなかったが、弟というものは可愛いものなんだな。」
空港のゲートで手を振る留加に応え、小さくなる背中を見送った智己が独りごとのよう呟いた。
「留加は誰がどうみても可愛いですわよ。」
自信満々に言うエレナに智己は苦笑しつつ微笑んだ。

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